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「ねえ、ママ。どうしたの?」
「え? ああ、ごめん。ちょっとボーッとしてたわ」
「難しい?」
英語とはいえ、まさか小学一年生程度だと言いかけて、小夜子はグッと言葉を飲んだ。
「う~ん。もう忘れちゃったことも多いからね。洋子ちゃんは難しいことを習ってるのねぇ」
洋子が弾けるような笑顔を浮かべた。
「そうでもないよ? みんなできるもん」
「そうかぁ。みんなすごいね。そういえばお友達はできた?」
「うん。仲良しさんができた」
「へぇ、誰かな?」
洋子が指を折りながら答える。
「みほちゃんでしょ、かずちゃんでしょ。それからようちゃん」
「たくさんできたのね」
「うん」
呼び名を聞いても顔もわからない。
ましてや、名字を聞いても何の意味もないと思った小夜子はさらっと洋子の頭を撫でた。
「もう寝ようね。明日はお買い物に行くのでしょう?」
「うん! ママも一緒に寝る?」
「いいよ。パパもいないしね」
洋子は喜んで教科書を閉じた。
「歯を磨いてきなさい」
「はぁい」
白地にピンクのうさぎ模様が跳ねるように離れていく。
リビングのドアを開ける時、洋子がくるりと振り返った。
「ママ」
「なあに?」
「へへへ、なんでもない」
その笑顔に冬也のそれを重ねようとして、小夜子は深い溜息を吐いた。
洋子は間違いなく冬也の子だ。
そう思い込もうとしているだけだという心の声に蓋をする。
もし違っていたとして、今更どうせよというのだろうか。
「そうよ……絶対に冬也の子よ」
小夜子はそう声に出してギュッと目を瞑った。
「ただいま」
疲れた顔の冬也が玄関を開けたのは、土曜の夜だった。
「お帰りなさい」
「あれ? 洋子は?」
いつもなら駆け寄ってくる洋子が来ない。
「いまお風呂に入ってるわ」
「一人で?」
「ええ、学校でそう習ったのですって」
「ちゃんと洗えてるのか?」
「知らないわよ」
「お前……」
小夜子を睨んだ冬也の顔に戸惑いが浮かんだ。
「どうした? やけに疲れているじゃないか」
「ええ。洋子にせがまれて山本の家に行ったのよ。お二人ともそれはそれはお元気だったわ」
その言い方に冬也がチッと舌打ちをした。
「もっと上手くやれないのか?」
小夜子の目尻が上がった。
「これ以上どうしろっていうのよ! 何を持って行っても文句。何をしても文句。私だっていい加減に疲れたわよ」
「小夜子……両親には助けてもらっているじゃないか。洋子の学費だってそうだ」
フンッと鼻を鳴らして小夜子が言った。
「だったらあなたの出張って意味ないじゃないの。その程度なら家事を手伝ってよ。洋子の勉強を見るって言ったのでしょう? 約束を守りなさいよ」
「……」
冬也はもう何も言い返す気にもなれず、バッグをソファーへ放り投げた。
「パパ!」
濡れたままの髪で洋子が抱きついた。
「洋子! ちゃんと拭かなきゃ風邪をひくぞ」
洋子がニコニコしながら冬也を見上げた。
「パパがやって?」
「あれ? 自分でやるように習ったんじゃないのか?」
「だってぇ……」
「見ててあげるから自分でやってごらん」
頷いた洋子が冬也の手を引いた。
「ついでにあなたも入ったら?」
小夜子の声が背中に届く。
まるで聞こえなかったように冬也は浴室へと向かった。




