20
「今日も帰れないってどういうことよ!」
リビングに小夜子の声が響いた。
テレビを見ていた洋子が振り返る。
「仕事だ。仕方が無いじゃないか」
冬也もかなり大きな声を出しているのだろう。
受話器から漏れる声が洋子にまで届いた。
「パパ?」
洋子は小夜子の手を引いた。
「座ってテレビでも見ていなさい!」
ビクッと手を引いた洋子の耳にまた冬也の声が届く。
「子供に当たるな!」
「だって……だってあなた……このところずっと毎週出張だって……金曜になると必ずじゃないの」
「前もそうだっただろう? あの頃は噓だったが、今は本当だ。稼がないと洋子の学費も払えない」
「だからって! そんなに毎週視察があるの? 噓なんでしょう? ああ……女ね? あなた、女ができたのね?」
「……」
「何とか言ったらどうなのよ!」
冬也が毎週のように出張しているのには理由があった。
経営企画部長として各支社の監査に出向いているのだが、過去を知る小夜子が信じるわけもない。
「一緒にするな……」
「え?」
「お前と一緒にするなと言っているんだ」
「え……どういうこと……」
「おめでたい奴だな。まあ、俺の方がよほどめでたいがな」
冬也は一方的に電話を切った。
ツーツーという機械音が小夜子の心を抉る。
握ったままの受話器が妙に重たくなった気がした。
「ママ?」
洋子の声に怯えが混ざっている。
「ああ、ごめんね。なんでもないの。パパが今日は帰れないって」
「パパ帰ってこないの? 今日は一緒にお勉強するって約束だったのに」
「そうね……お仕事だから。ママと一緒にやろうか」
「うん……」
気落ちしたように俯いた洋子に、小夜子が声を掛けた。
「チーズケーキ食べようか。ルルナのケーキ。洋子好きでしょう?」
「うん! チーズケーキ食べる!」
山本の本家の近くにあるケーキショップのチーズケーキは洋子の大好物だ。
子供に食べさせるには目が飛び出るほど高いが、買えない程ではない。
「おばあちゃんのところに行ったの?」
「ううん。近くを通ったからついでに買ってきただけよ」
「ふぅん。洋子、またおばあちゃんのところに行きたいなぁ」
「そのうちにね」
洋子の好きな皿に盛ってやると、小躍りしてフォークを握った。
冬也の不在など、こんなに小さなチーズケーキで機嫌がなおる程度なのだと思うと、少しだけ胸がすいた。
「おいしいね」
「うん。ママ、牛乳ちょうだい?」
小夜子はウサギの模様がプリントされたマグカップに牛乳を注いでやった。
自分も飲もうかとコップに手を伸ばしたが、思い直して缶ビールを取りだす。
「あっ、ママ。パパのビール飲んでる」
「良いじゃない。どうせママが買ってくるのだもの」
「ははは!」
洋子が笑いながらチーズケーキを口に入れた。
一方、冬也はまだ肩で息をしていた。
「和音は何も言わなかったぞ。噓だったのに……それでもご苦労様って言ってくれたんだ。それなのになんだよ、小夜子のやつ。お前が無理やり名門校に入れたんじゃないか! そのために俺がどれほど……」
冬也は歯を食いしばって上着をベッドに投げつけた。
バスルームから聞こえる湯を張る音が煩い。
狭いビジネスホテルの壁のシミが、冬也の荒んだ心を逆撫でした。
急に虚しくなって、乱暴にカーテンを開ける。
「それほど涼しくはないな。北海道って夏でも快適なんじゃないのか?」
独りごちてワイシャツを脱ぎ捨てた。
冬也の出張は本人が買って出たものだ。
わざわざ部長が行くほどではないにしても、行けばそれなりの成果はある。
何よりも出張手当が大きい。
食事などは先方が用意していることがほとんどだし、旅費は実費で補填されるので自腹を切ることはほぼ無い。
部長クラスが使うホテルとは言い難いが、同行者と同じにするよう指示したのは自分だ。
「俺だってゆっくりしたいさ」
適当に買った菓子でも洋子は十分喜んでくれる。
それだけが冬也の慰めだった。
「疲れた……」
冬也はのろのろと湯船に浸かった。
それにしても小夜子はいったいいつ浮気をしていたのだろうか。
毎日定時退社してはいたが、いつ電話をしても小夜子は応答していた。
金曜から土曜は自分がいたのだから、あるとすれば日曜か。
「いや、日曜は掃除と買い出しだと言っていたな」
いつだったか、思い立って日曜に突然マンションへ行ったことがある。
着古したジャージを着て掃除機をかけていた。
その姿が新鮮で、欲情したあの日……今となっては苦味しかない。
「バカにしやがって! 托卵だと? いい度胸じゃないか!」
狭いバスルームに自分の声が反響する。
隣の部屋から、シャワーの音が聞こえてきた。
ふと洋子の笑顔が浮かび、冬也は堪らず顔を顰めた。
「洋子……」
自分の子ではないと証明されてしまった娘。
乳を吐き戻すたびに、ガーゼで顔を拭い落ち着くまで抱き続けた。
夜中に熱を出した時は、パジャマの上にコートを羽織って病院へと走った。
初めて歩いた日には涙さえ流したのだ。
「じゃあ……この六年は何だったんだよ」
この六年、冬也は確かに洋子の父親だったのだ。
「血が繋がっていないからって……捨てられるわけがない」
そう呟いた冬也だったが、次の瞬間別の思いが頭をよぎった。
「血のつながった娘を抱いたこともない……それどころか顔も知らないんだよな……俺、何やってるんだろう」
本物と偽物という言葉が脳裏をかすめた。
「偽物……いや、洋子は……俺の……」
娘だと言いかけて、戸惑う自分に愕然とした。




