15
「どうしたのですか? 難しい顔をして」
経営企画部長の冬也のデスクに、マネージャーが紙コップを置いた。
「ああ、ありがとう」
紙コップを手にして、その熱さに冬也の顔がヒクリと歪んだ。
「取引先からですか?」
マネージャーがデスクの真ん中に置かれた封筒を見ながら言った。
まだ封は切られておらず、裏返されているため送り主の名は見えない。
「いや、プライベートな連絡だよ」
小首を傾げながら離れていくマネージャーを見ながら、冬也は小さく溜息を吐いた。
くるりと椅子をまわし、窓の外を見る。
なぜあれほどまでに小夜子に入れ込んでしまったのだろうか。
愛かと問われれば、否としか答えようがない。
自分が愛していたのは和音だけだ。
それは今も変わらない。
それなのに、和音が今どんな暮らしをしているのかは知らないという現状。
おそらく親や兄は知っているのだろうが、何度聞いても教えてくれない。
和音との娘である洋子は、いったいどんな顔をしているのだろう。
弁護士を通じて面会を求めたことも一度や二度ではない。
それでも和音が首を縦に振ることはなかった。
「俺は……どうかしていたんだろうな」
小夜子は可哀想な女だった。
派遣社員という弱い立場だったのもあるが、なぜか部内で浮いていた。
特に女性たちからの視線は冷たく、いつもオドオドして見えたものだ。
「俺が守らなくちゃって? バカだな」
小夜子が縋るような視線を向けるたびに、紙よりも薄っぺらい正義感が波立った。
人目を引くほどの器量ではないが、なぜか目が離せなかったのだ。
「顔色が悪かったせいかもな」
一人で昼食に向かう彼女に偶然を装い声を掛け、ステーキ店のランチを食べさせたこともある。
「俺はバカだ」
オフィスの窓ガラスは曇っていないのに、遠くの景色は灰色に霞んでいる。
「あれが最初だよな」
兄から急な出張を命じられたあの日。
和音に電話で連絡し、金曜日の午後一番で新潟へと向かったのだが、高崎で携帯電話が鳴った。
先方の身内に不幸があったので、出張は取りやめだという。
「良かったな。今日は帰社しなくていいぞ。偶には早く帰ってやれ」
そう言った兄の言葉に心が浮わついた。
今夜は帰らないと和音は思っている。
たまには羽目を外しても良いのではないかと思ってしまった。
新幹線を降りて、東京までの切符を買い直そうとしてふと手が止まる。
上野で飲食店を営んでいる学生時代の悪友の顔が浮かんだ。
「久しぶりに飲み明かすか」
明日は土曜日だ。
飲んだ後、軽そうな女をひっかけてどこかにしけ込むのもオツだと思った。
「上野まで」
そう言った口を引き裂いてしまいたい。
あの時から自分の人生が崩れ始めたのだから。
「帰らなくて良いのか?」
確かに友人はそう言った。
「いいんだよ。今日は出張だってことになってるから」
「悪い奴だな、相変わらず」
「お前ほどじゃないよ」
それなら自分の女がやっている店に行こうと言い出したのは、上野で数件飲み歩いた後だった。
タクシーに乗り渋谷へ向かう。
自分がどれほどモテるかを滔々と喋りつづける悪友の横で、自分は何を思っていたのだろうか。
その店でしこたま飲み、自分は女のマンションに行くという悪友と別れ、そろそろホテルでも探そうと歩き始めた時だった。
「部長? 山本部長ですか?」
振り向くと小夜子が立っていた。
「安藤君か? どうしたんだ、こんな時間に」
「あ……あの……ちょっとバイトを」
「バイト?」
「派遣社員の給料だけでは……すみません。規則違反ですよね……ごめんなさい」
派遣契約の詳細など覚えているわけもなく、どんなバイトをしているのかだけが気になった。
「バイトって? 水商売か何か?」
「いいえ! 違います。コンビニです。あそこの……」
小夜子が指差したのは、自動ドアの前に若者が数人たむろしているコンビニだった。
「あそこで?」
「はい。金曜日は十時までです。あとは土曜日と日曜日に」
「それでは休みが無いじゃないか。体は大丈夫?」
「はい。疲れはしますけれど、今のところは大丈夫です」
そう言って微笑んだ小夜子の顔が蒼白く見えたのは、安っぽい街灯のせいだったのかもしれない。
帰るところだという小夜子の手を引きタクシーに乗り込んだ。
「不相応なマンションで驚いたっけ」
遺産の代わりに姉が購入してくれたという小夜子のマンションは、デザインも普請も申し分ない物件だった。
自宅とは二駅の距離だったのも悪かった。
「会社には内緒にしてください」
そう何度も念を押す小夜子が哀れに思えた。
お茶でもという言葉にうっかりタクシーを降りたのが運の尽きだ。
甲斐甲斐しく台所に立つ小夜子の尻が、どうしようもなくエロく見えた。
もうあとはなし崩しだった。
すぐにバイトを辞めさせ、週末を過ごすための経費だと言って金を渡す。
少ない金額の中で、なんとか美味しいものを作ろうとする小夜子がなんともいじらしく、大して美味くもないのに褒めちぎったあの頃。
「本当に何を考えていたのだろう」
ホームセンターで買ったようなペラペラのTシャツと短パンを、嬉しそうに差し出す小夜子。
焦がしてしまった生姜焼きに泣きそうな顔をする日もあった。
断じて愛していたわけではないが、その安っぽい一日に癒されていたのは確かだろう。
毎週の出張に和音は文句のひとつも言わなかった。
「和音……」
そして小夜子は妊娠してしまった。




