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「洋子ちゃん、行くわよ」
小夜子は洋子の手を引いてタクシーに乗り込んだ。
大きなカバンには、着替えとぬいぐるみが入っている。
このままだと予約時間ギリギリになるかもしれないと小夜子は思った。
「洋子ちゃん、ちゃんとおばあちゃんの言うことを聞いてね」
「うん」
「お菓子は食べ過ぎないこと」
「わかった」
美容院にでも行けば、少しは気持ちが落ち着くだろうと電話を入れたが、冬也が休みの日は予約がいっぱいだった。
入学式までの直近でとれるのは今日の夕方だけだと言われ、小夜子はそのまま予約を入れた。
この時期は毎年混むのだと言われたら納得するしない。
「本当は嫌だけど仕方がないわ」
こんな時、自分の親が生きていればと思うがどうしようもないことだ。
「お願いだから、おばあちゃんに逆らったりしないでよ」
洋子は不思議そうな顔で小夜子を見た。
昔住んでいた所よりも渋谷に近い今のマンションは気に入っている。
しかし、冬也の実家に近くなってしまったのは失敗だったと小夜子は思っていた。
「こんなはずじゃなかったのよ」
不倫からの再婚だ。
親としては良い顔をするわけがない。
それでも同じ姓を名乗り、義理とはいえ娘となるのだから、ほんの数年で良い関係になると思っていたあのころの自分の脳天気さが恨めしい。
冬也の母親は、事あるごとに前妻と比較してくるし、父親ときたらほとんど喋ってもくれない。
悲しそうな顔で冬也を見ても、バツが悪そうな顔をするだけで庇ってさえくれなかった。
「まあ、孫だけはかわいがるから」
経営者一族といえど、冬也の地位は低い。
長男を社長として重用しているのだから、次男もそれなりの地位を与えてもよさそうなものだと思う。
派遣社員でしか働いたことがない小夜子は、冬也の給料が安いのか高いのかさえ分からなかった。
新居であるマンションの頭金は、小夜子が出した。
姉が購入してくれたマンションを手放したのだ。
あの頃は冬也を手に入れることで頭がいっぱいだったが、今となってはそれも失敗のひとつだと思う。
「あの金があれば……」
友人と海外旅行に行ったり、値段を気にせず流行の服を買えたのにと何度も後悔したが後の祭りだ。
不倫相手の子を身籠ってまで手に入れたこの生活は、果たして正解だったのだろうか。
「着きましたよ」
タクシー運転手の不愛想な声がした。
「ああ、ありがとう。すぐだから」
この木戸をくぐる時は、今でも緊張で震えてしまう。
そんな自分の卑屈さを認めたくなくて、小夜子はフンと鼻を鳴らした。
「おばあちゃん! 来たよ」
「あら洋子ちゃん。いらっしゃい」
「お義母さん、お忙しいのに申し訳ありません」
「美容院ですって?」
「はい。今日しか取れなくて……すみません」
「入学式の日は分かっていたのだから、もっと早めに計画すべきでしょうに」
「……すみません」
洋子の肩に手を当てた義母が小夜子に言う。
「夕飯は? あなたも来るの?」
「あ……いえ、私は……」
「そう? 冬也は食べるって言っていたけれど、あなたはいらないのね?」
「冬也さんにお任せします」
「どちらかはっきりしてくれないと困るわ」
「……いりません」
義母がついた溜息が小夜子の髪に絡みついた。
「和音さんなら、早く戻って自分が作るって言ってたでしょうね。あの子は料理が得意だったから」
「……」
「まあ良いわ。では、あなたはそのまま帰るってことね? 洋子ちゃんは冬也が連れて帰るのね?」
「はい。そのように相談しています」
義母がフンッと鼻を鳴らした。
「じゃあ洋子ちゃん。おばあちゃんと遊ぼうね」
「うん! じゃあママ、バイバイ」
「いい子にしてね」
小夜子の声が届いたのかどうなのか。
洋子は義母の手を握ってスキップで屋敷に向かって行った。
「もういい加減慣れたわよ。嫌味ババア」
冬也と結婚してから、小夜子はずっと和音と比べられてきた。
見た目だけの安っぽいマンションだの、料理の味が濃いだのと、すべてにチクリと刺してくる。
かかわらなければ済む話ではあるが、これ以上長兄夫婦と差を付けられては堪らない。
「まあ、私の方が絶対に長生きだから」
そう言ってから、待たせていたタクシーに乗り込み行き先を告げる。
屋敷が見えなくなって初めて、小夜子は息ができたような気がした。
「大変ですね。小さい子がいると」
義母との会話を聞かれていたのかと思い、小夜子の頬に血が上った。
「急いでください」
運転手はアクセルを踏み込んだ。
流れ去る景色を見ながら、小夜子はふとこの数日引っ掛かっていたことを考えた。
「台湾で何かあったのかしら」
帰国してから冬也の態度がおかしい。
帰宅時間も遅くなり、ほとんど家で食べることがない。
小夜子も入学準備に忙しく、冬也の機嫌を取る暇もなかった。
プラタナスの並木の向こうに、薄い灰色の高い塀が続いている。
あと十日もすれば、洋子はこの学校の生徒となるのだ。
高額の入学金には驚いたが、義父が負担してくれたので助かった。
「お姉ちゃんの母校ね」
母の再婚によって姉となった正真正銘の井上小夜子。
自分のものにはならなかったあの名前。
「いのうえ さよこ」
憧れ続けたその名前を小さく呟いてみた。
「でもね、お姉ちゃん。私の娘はあなたの後輩になるのよ」
赤く塗られた正門に向かって、小夜子はにっこりと微笑んだ。




