13
「ただいま」
パタパタと小さなスリッパの音がした。
「パパ、お帰りなさい」
「ああ、ただいま。ママは?」
「ママはお風呂に入っているよ」
「そうか」
使い古したバゲージを玄関に置いたまま、冬也は靴を脱いだ。
和音と離婚した後、どうせ認知はするつもりだったのだからと、半ば投げやりに小夜子と入籍した。
近所の目もあるし、和音の匂いが残る家は嫌だと泣く小夜子が面倒になり引っ越しすることに頷いた。
内見会に行こうと煩いので、お前に任せると言うと、小夜子はさっさと決めてきた。
これには少し驚いたが、どこに住もうが和音はいないのだからどうでもいい。
小夜子を良く思っていない両親からの援助は当然なく、彼女が所有していたマンションを売って頭金にした。
改装したばかりのあの家は、今のところ空き家になっている。
「あの家……気に入っていたんだけどなぁ」
安っぽい壁紙を指先で撫でて、冬也は寝室へと入った。
「あら、帰ってたの」
濡髪をタオルで包んだまま小夜子が入ってきた。
「ああ」
「お腹は?」
「何がある?」
「何もないわ。今日はイタリアンをとったから」
「また宅配か」
「あなたがいない日くらい良いじゃないの。洋子と二人分だけ作る方が不経済だわ」
もう何も言う気になれず、冬也は風呂場へと向かった。
急に言いつけられた出張先は台湾だった。
新しく取引を始めた会社を視察して来いという曖昧な内容だったが、社長である兄には逆らえない。
「それにしても一週間とはな。実際に視察したのはたったの一日だけだったのに」
朝ホテルに迎えが来て、名所観光が始まる。
注ぎ口が異様に長い急須で出される烏龍茶や、舌を焦がすほど熱い小籠包。
旅行好きな冬也は、それなりに毎日を楽しんではいたが、洋子のことはずっと心に引っ掛かっていた。
「卒園式か……かわいかっただろうな」
湯船に浸かりながらぼそりと愚痴をこぼす。
そのままバシャバシャと顔を洗って、冬也は勢いよく立ち上がった。
「まだ寝ないの?」
「うん、これが終わってから」
テレビに顔を向けたまま洋子が言った。
「ママは?」
「知らないよ」
冬也は小さく舌打ちをしてからキッチンへ向かった。
「何してる?」
「食べるものが無いか探しているのよ」
「カップ麺でいいよ」
「あら、そう? 助かるわ」
以前の小夜子であれば、あり合わせのものをかき集めてでも、なんとか作ろうとしただろう。
いつから変わってしまったのだろうかと思った冬也だったが、それを口にすることはなかった。
カップ麺のフィルムを剝がす音が心を逆撫でする。
顔を顰めたまま、冬也は缶ビールを開けた。
「ねえパパ。おみやげは?」
洋子が冬也の膝に頭を乗せる。
「買ってきたよ。洋子の好きそうなお菓子」
「食べてもいい?」
「ママに聞いてみな」
頷いてキッチンへと向かう洋子を見ながら、冬也はひと月前のことを考えた。
名門といわれるミッション系の小学校に拘る小夜子に辟易しながらも、嬉しそうな洋子を見ると反対だとは言えなかった。
願書に添える健康診断のために訪れたのは、洋子が生まれた総合病院だ。
医者の顔など覚えていないが、婦人科の主任医師が男性に変わっていた。
受付前の長椅子でスマートフォンをいじっていた時、聞き覚えのある声がして顔を上げた。
「あら、山本さんじゃないですか。お久しぶりですね」
和音の親友である斉藤美弥子だった。
「具合が悪いの?」
「いや、娘の健康診断でね」
「ああ、そういえばもう小学生ね」
「……」
「大変ね、養育費」
「いや……」
「ちゃんと払ってる?」
「当たり前だ」
弁護士を通して何度懇願しても会わせてもらえない娘のために、冬也は毎月養育費を払い続けている。
「まあ、そうね。あの子、凄く別嬪さんよ」
冬也の顔が歪んだ。
「君からも言ってくれよ。一度でいいから会わせてくれって」
「それはお断り。だってそれが条件だったでしょう?」
美弥子の言う通り、離婚訴訟を起こさない代わりに、一生会わせないと言われたのだ。
泣いて縋ろうが、土下座をしようが、和音は首を縦に振らなかった。
美弥子がふいに言った。
「あら、あの子? あなたには……似ていないわね。あちらに似たの?」
「……」
同じようなことを何度も言われている冬也がギュッと唇を結ぶ。
自分にも小夜子にも似ていない娘。
親戚中を思い浮かべても同じだ。
小夜子は自分の父親に似ていると言ったが、幼い頃に死んでしまった父親の顔を覚えているものなのだろうか。
「呼んでるわよ? 終わったんじゃない?」
冬也は何も言わず立ち上がった。
「パパ!」
洋子が抱きついてくる。
「痛くなかった?」
「ぜんぜん大丈夫だったよ」
「そうか」
冬也は洋子の頭を撫でた。
何気なく見た洋子の耳に冬也の心臓が跳ねる。
昔は耳の形で実子かどうかを判断すると何かで読んだ記憶がいきなり湧き上がる。
冬也は早まる鼓動に焦りを覚えた。
「DNA検査……」
そう呟いた自分の口を慌てて抑えた。
「少し待つみたいだけど、出てる? 退屈でしょう?」
冬也は無意識に洋子の耳を触っている自分に衝撃をうけた。
「いや、一緒に待つよ」
「そう?」
三人は並んで長椅子に座った。
あの頃の小夜子が自分以外と関係を持っていたなど考えられない。
いや、そう思い込みたいだけなのか。
冬也は胸の中で大きくなっていく黒い感情を持て余した。
病院からの帰り道、洋子に強請られてワンピースを買ったことは覚えているが、小夜子とどんな話をしたかは思い出せない。
その夜、二人が寝静まってから、冬也はパソコンを開いた。
DNA鑑定のサイトを探す。
申請登録のエンターキーを押した後、震える指先をじっと見つめた。
兄から出張を言い渡されたのはただの偶然なのだろうか。
「……」
「パパ? のびちゃうよ」
小夜子の声で我に返る。
あれから一週間だ。
頼んだ検査結果は、もう出ているだろう。
「あ……ああ、食べるよ」
顔を出そうとする疑念と一緒に、冬也は柔らかくなったラーメンを飲み込んだ。




