9話
「シンがこの村に現れてから、気づけばもうひと月が経とうとしているのね……」
エルフの村の集会所を見上げながら、風の巫女であるセレネは小さく息を吐いた。シンがこの神聖な森の禁域で保護され、地下牢へと拘留されてから早くも一か月が経過していた。
相変わらず日中は衛兵やセレネが監視として付き添っているものの、シンは不平を漏らすこともなく、マイペースに村の壊れたあちこちを修繕し続けている。もはやその姿は囚人というよりも、すっかり村に馴染んだ専属の職人のようになっていた。
その日も、シンはいつものように顔なじみとなった衛兵と並んで立ち、今日どの施設の修繕から取り掛かるべきかを確認し合っていた。
「今日の午前中は、北側の備蓄倉庫の雨樋を直そうと思います。木材の老朽化が進んでいましたからね」
「ああ、頼む。あそこの雨漏りは長老たちも気にしていたところだ」
衛兵が納得したようにうなずいたその時、不意に、少し離れた場所からためらいがちな足音が近づいてきた。振り返ると、そこには以前にシンへ敵意を向けていた者とは別の、若いエルフの男が立っていた。彼は何度も手を握り締めたり開いたりしながら、意を決したようにじっとシンを見据えている。
「……おい、お前」
シンは作業用の道具をいったん手から下ろし、いつもの穏やかな笑みを崩さずにそのエルフに向き直った。
「はい、何かご用でしょうか?」
若いエルフはしばらく気まずそうに沈黙していたが、絞り出すような声で問いかけた。
「……お前は、この村に危害を加えるつもりはないのか? 人間の中には、私たちの村を襲ったり、宝を奪ったりするために近づいてくる者ばかりだと、私たちは教えられてきた。それなのに、お前は毎日嫌な顔一つせず村のために働いている。……本当に何を企んでいるんだ?」
周囲をちょうど通りかかった他の村人たちも、止まって固唾をのんでそのやり取りに注目していた。シンは敵意を向けられているにもかかわらず、全く動じることなく、ただ真っ直ぐにそのエルフの目を覗き込んだ。
「自分がこの村に危害を加えるつもりですか? そんなことは考えてもいませんよ」
穏やかで淀みのないその声に、エルフはわずかに目を見張った。シンはさらに、困ったような、しかしあたたかな笑みを浮かべて言葉を続ける。
「第一、自分は記憶を失って行き場をなくしていたところをセレネさんに助けてもらい、こうして毎日寝食の面倒まで見てもらっている身ですからね。危害を加えるどころか、感謝こそすれ敵対する理由なんてどこにもありませんよ」
飾らないその言葉の響きには、嘘や偽りが一切含まれていなかった。さらにその瞬間、シンの足元や肩のあたりに、どこからともなく小さな風の精霊や光の精霊たちがふわふわと集まってきて、まるで親しい友人でも迎えるように楽しげに周りを飛び回り始めた。
邪な人間には絶対に近寄らないはずの精霊たちが、これほどまでに懐いている光景を目の当たりにし、質問をした若いエルフの強張っていた肩の力がふっと抜けた。鋭かった敵意の色が消え、毒気を抜かれたように気まずそうに視線をそらす。
「……なんだよそれ。精霊たちがお前に懐くなんて、思ってた人間と全然違うじゃないか……」
「はは、自分でもなぜなのかはよく分からないのですが、動物や小さな生き物には昔から好かれやすい質みたいですね」
その場に漂っていたピリついた空気が、シンのマイペースで誠実な返答によってすっかり和らいでいく。
しかし、村人全員がすぐに心を開いたわけではない。少し離れた場所では、なおも厳しい視線を向け続ける者たちの姿があった。
エルフと人間の間に横たわる歴史や感情の溝は、一朝一夕で完全に埋まるほど単純なものではない。そのことは、シン自身が一番よく分かっていた。
しかし、シンは自分の立場を過剰に飾ろうとも、無理に種族間の古い確執を自分がどうにかしようとも思っていなかった。彼はただ、周囲の視線を感じながらも、静かにこう付け加えた。
「もちろん、自分たちが生まれ育った種族や、これまでの歴史のしがらみが簡単になくならないことは分かっています。それに、自分自身で種族間の大きな問題をすべて解決できるなんて思っていません」
シンは言葉を区切り、ほんの少しだけ真剣な瞳で村人たちを見回した。
「だから……どうか『人間』という大きな枠組みで見るのではなく、一人の個人として、今の自分を見ていただけないでしょうか。自分はただ、ここでこうして皆さんと穏やかに暮らしていきたいだけですから」
その言葉を聞いたセレネは、その様子をじっと見つめながら、複雑な胸の内を抑え込んでいた。彼女はシンが持つ不思議な包容力と、誰に対しても等しく誠実に向き合う姿勢に圧倒されつつも、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じていた。
まだお互いに一定の距離を保った他人行儀な関係ではあるものの、確実に村の空気を変えていくシンの存在を、セレネは複雑な思いを抱きながら見守り続けるのだった。
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