79話
「そこまでだ。時間だ、退出してもらう」
重い鉄の扉がガタリと音を立てて開き、見回りの兵士が無機質な目で二人を見下ろしながらそう言い放つ。シンが手にしていた古びた表紙の本から、ハラリと埃が舞い散った。
「……わかりました。すぐに片付けます」
シンは歯痒さを押し殺し、表情を平然と保ちながら返事をした。もしここで不審な挙動を見せれば、せっかく手に入りかけた手がかりが永遠に失われるだけでなく、王都からの追放やさらなる面倒を招きかねない。
「セレネさん、片付けましょう」
「もう、あと少し時間があれば何か分かりそうだったのに……残念ね」
セレネは不満そうに唇を尖らせながらも、机の上に広げていた古文書の束をきれいにまとめ、元の書架へと戻していく。シンもまた、手分けして周囲の本を棚に収めていった。
だが、その背後で兵士の視線がわずかに別の通路へと逸れた、文字通り数秒の隙だった。
シンは素早く手元に置いていた『世界のお菓子集』を掴み取ると、椅子に無造作にかけてあった自分の上着の内側に滑り込ませ、まるでただの荷物を包むようにして巧みに隠し切った。心臓の音がうるさいほどに胸元で鳴り響いているが、顔に出さないよう必死に平静を装う。
「お待たせしました。行きましょう」
何食わぬ顔で上着を腕に引っ掛けたシンに促され、二人は兵士に先導されて地下書庫を後にした。重い扉が閉ざされ、厳重な通路を抜けて夜の王城から外へと連れ出されるまでの間、シンは上着の中で重みを持つその一冊の感触を確かめ続けていた。
夜風が冷たいヴェリタスの街を、二人並んで自分たちの宿泊する宿へと歩いていく。
「結局、あのタイトルが変なお菓子の本の中身は確認できずじまいだったわね……。あんな場所に隠されてたんだから、絶対何か裏があったはずなのに悔しいわ」
セレネが肩を落とし、ぷくっと頬を膨らませて不満をこぼす。その横で、シンは上着を抱えた腕に力を込めながら、どこか引きつった、しかし強い光を宿した複雑な表情を浮かべて小さくうなずいた。
「……そうですね。」
宿に戻ると、セレネは旅の疲れや今日の緊張を癒やすため、真っ直ぐに館内の共同浴場である湯浴みへと向かった。部屋に一人きりになったことを確認すると、シンは鍵をしっかりと閉め、備え付けの机の前に急いで腰を下ろした。
慎重に上着を広げ、その中から問題の『世界のお菓子集』を取り出す。
部屋の隅で揺らめくランプの暖かな光の下で、シンは息を整えてから、その胡散臭いタイトルの表紙にそっと手を掛けた。
「さて……中身はどうなっているやら…」
独り言を呟きながら、パリパリと乾いた音を立てる古びたページをめくる。最初の数ページこそ当たり障りのない焼き菓子のレシピや砂糖の製法が記されていたが、シンはそれが巧妙な偽装であることを見抜いていた。さらに数枚、指先で紙の厚みやインクの染み込み具合を確認しながらページを送り続けると、文字の並びや文章の端々に不自然な規則性があることに気づく。
――そして、パタリと手が止まった。
目に飛び込んできたのは、料理のレシピではない。細かく、しかし狂気的なまでの熱量で書き殴られた文字の羅列だった。そこに記されていた内容を読み進めた瞬間、シンの背筋を凍てつくような悪寒が駆け抜けた。
違和感は、完全に揺るぎない確信へと変わる。
これはお菓子の本などではない。今からおよそ千年前に生きていた、一人の名もなき男が残した命がけの「手記」だった。
(千年前の記録……。五百年以前の歴史が綺麗に隠されているこの世界で、どうしてこんなものが……!)
国家が隠蔽しようとした歴史の真実が、まさに今、目の前の古びた紙片の上に生々しく横たわっている。人類が忘却の彼方に追いやったはずの禁忌の過去が、この手の中にあった。
動揺と緊張で冷や汗が滲んだ手が、わずかに、しかし激しく震えている。それでも好奇心と逃れられない宿命のようなものに突き動かされるように、シンはゴクリと唾を飲み込み、震える指先で次のページへと手を伸ばしたのだった。
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