74話
荷台の板がガタガタと音を立てて揺れる中、シンは周囲の様子に目を光らせている。ただ目で警戒するだけでなく、微弱に薄めた魔力を霧のように広範囲へ散布し、周囲の気配や動植物の反応を正確に探る探索魔法を展開していた。
「やっぱり、それすごく便利そうよね……」
隣に座っていたセレネが羨ましそうに呟くと、自分も真似してみようと小さく息を吸い込んだ。彼女は得意とする風の魔法を応用し、周囲の状況を感知しようと魔力を外へと広げていく。しかし、数秒もしないうちに、セレネは小さく眉をひそめて首を横に振った。
「うーん、だめね。広範囲に風を張り巡らせることはできるのだけど、そこから相手の正確な反応や微細な感覚を拾い上げるコツがつかめないわ。シンみたいに、まるで自分の肌で直接触れているかのように周囲の状況が頭に浮かんでこないのよね」
「まあ、自分の場合は治癒魔法の性質をちょっと無理やり応用しているところがありますからね。セレネさんの普段使う魔法とはアプローチが違うのかもしれません」
シンが苦笑いを浮かべながらそう返すと、セレネは納得したように小さくうなずいた。
「そうね……。攻撃系の魔法なら相手に向かって一方的に放出すればいいけれど、治癒魔法は相手の身体の内部や状態に意識的に働きかけるものだものね。魔法を使うときの感覚の根本が、きっと違うからなのだろうけど……」
そこでセレネは言葉を一旦区切り、ふと何かを思い出したように視線を下へ落とした。迷うような、それでいてずっと気になっていたことを確かめるような、そんな探るような眼差しがシンの横顔に向けられる。
「ねえ、シン。少し気になっていたんだけど……あのレリックとの戦いの時、あなたが使っていた赤黒いオーラのようなもの……あれは一体何だったの?」
突然の問いかけに、シンの背筋がぴくりと強張った。御者台の方向からは商人の話し声や馬の蹄の音が聞こえるだけで、荷台の周囲は不思議と静かに感じられた。シンは若干気まずそうに視線をそらし、ゴクリと喉を鳴らしてからぽつりぽつりと話し始めた。
「……あれは、自分でもあまり思い出したくない感覚なんですけどね」
「あの時、セレネさんが目の前で倒れて、動かなくなったでしょう」
「うん……」
「あの瞬間、頭の中が一気に真っ白になって、敵に対する強烈な怒りと殺意だけが渦巻いたんです。あいつらを今すぐ殺したい、引き裂きたいって、自分でも制御できないほど感情が沸騰して……その時に、勝手に身体が反応したんだと思います」
シンの声のトーンがわずかに低くなる。
「おそらく、普段使っている身体強化の延長線上なのだろうけど、怒りと焦りに任せて限界を超えた魔力が暴走したんでしょうね。通常の身体強化とは比べ物にならないほどの異常な出入力が勝手に身体を駆け巡って……結果的に、あんな禍々しい色のオーラになって表に出たんだと思います」
「それに……」
シンは自分の右手を見つめ、苦悶の色を浮かべた。
「あの状態の時は、無意識のうちに治癒魔法のエネルギーを無理やり相手の身体に流し込むような真似もしていました。本来は傷を塞ぐための力が、あの時はただの毒のようになって、相手の細胞や魔力の巡りを徹底的に汚染して破壊していたんです。あとから自分のやったことを振り返って、正直血の気が引きましたよ」
静かに語られる恐ろしい実態に、セレネは息を呑んだ。
「自分の治癒魔法は、使い方を間違えれば文字通り人を壊すための猛毒にもなる。今はこうして冷静に分析できていますけど、またあんな風に感情に呑まれて力が暴走したらと思うと……最近、人を癒やすための治癒魔法を使うのが、少しだけ怖く感じることがあるんです」
シンは両手で顔を覆うようにして、小さく息を吐き出した。戦うための強さを手に入れた代償として、自分の内側に潜む狂気の一端を自覚してしまった恐怖が、今も心の隅に冷たく澱んでいる。
しばらくの沈黙の後、セレネはそっと手を伸ばし、シンの震えそうな肩に自分の手を重ねた。
「シン……」
顔を上げたシンの瞳に、セレネのまっすぐで温かな眼差しが映る。
「確かに、その力の一端は恐ろしいものかもしれないわ。でもね、忘れないで。あなたのその治癒魔法で、リプルズの街の人たちをはじめ、どれだけの人が救われてきたと思っているの?」
セレネは穏やかに、しかしはっきりと告げた。
「どんなに素晴らしい力だって、使い方を誤れば人を傷つける刃にもなるし、逆にどんなに荒々しい力だって、誰かを守るための盾にすることもできる。結局のところ、魔法そのものに善悪なんてないのよ」
「だからこそ、それを使う人間がどんな心の在り方でいるのかが一番大切なんじゃないかしら。自分の力を恐れるんじゃなくて、誰かを守りたいっていうあなたのその優しい気持ちを信じてあげて。……私だって、こうして何度もあなたに救われているんだからね」
セレネの優しくも力強い言葉を聞いたシンは、胸のつかえがスッと軽くなるような感覚を覚えた。複雑に絡まっていた恐怖や迷いが、彼女の言葉によって少しずつ解きほぐされていくのがわかる。
「……そうですね。セレネさんにそう言ってもらえると、何だか変に気負いすぎていた気がします。ありがとうございます、自分、もう少しちゃんと自分の力と向き合ってみますよ」
シンがふっと肩の力を抜いて柔らかく笑うと、セレネも満足そうに微笑み返し、二人の間を包んでいた重苦しい空感はすっかり霧散していった。
馬車はゴトゴトと乾いた車輪の音を響かせながら、どこまでも続く平原の道をヴェリタスへと向かって着実に進んでいくのだった。
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