59話
ゆっくりと揺れる馬車の車体から降り立ったシンとセレネの全身を、街の境界線をまたいだ瞬間に、微かな魔力の波がふわりと撫でていく。それが都市全体を厳重に守護する巨大な結界の触れ心地だと理解しながら、二人は荷物をまとめて御者台の青年へと丁寧な頭を下げた。
「ここまで乗せていただき、本当にありがとうございました」
「いいってことさ! お二人とも、リプルズでの滞在を楽しんでな!」
気さくな青年の見送りを受け、シンとセレネは馬車を見送ると、夕暮れ時の雰囲気が漂う石畳の街へと足を踏み入れた。
すでに空は茜色から藍色へと移り変わる時間帯であり、まずは今日の宿を確保しなければならない。街の入口付近で見つけたこぢんまりとした旅籠にチェックインを済ませると、空腹を満たすためにそのまま近くの賑やかな居酒屋へと向かった。
温かいエールと現地の名物料理を口に運びながら、店内に飛び交う周囲の人々の会話にそっと耳を澄ませてみる。だが、聞こえてくるのは「今日の漁の収穫がどうだったか」や「商売の景気がいい」といった、拍子抜けするほどに平穏で日常的な話題ばかりだった。
宿に戻り、自室の扉をしっかりと閉めた瞬間、それまでの柔らかな雰囲気が嘘のように消え去り、二人の顔にはふと神妙な影が差した。
「……気づきましたか、セレネ」
「えぇ……。あまりにも、平和すぎないかしら?」
セレネは腕を組みながら、わずかに眉をひそめて首をかしげる。
「たしか、道中で聞いたギルの話では、ここはかなり魔物の侵攻が激しくて深刻な状態のはずじゃなかったかしら……? 情報が古かったのかしらね。それとも、すでに住民たちが自分たちで魔物を完璧に撃退し終えたというのかしら。それにしては、街の復興が早すぎる気もするけれど……」
「それに、他の地域を振り返ってみても……イグニスやヴェールダンでは、法具をめぐって取り返しのつかないような大きな問題が次々と起きていました。この街だけがこんなに平穏なままでいるなんて、どう考えても不自然です。いずれにしても、詳しい調査が必要ですね」
「そうね……それに、目的の一つである水の巫女ミズキ様にもお会いしてお話ししないと」
「えぇ。明日は朝一番で神殿に向かいましょう。ミズキ様としっかりと情報交換をして、この街の裏側を探らないとですね」
二人は明日の具体的な動きを確認し合うと、それぞれのベッドに入って静かに眠りについた。
そして翌朝。しっかりと身支度を整えた二人は、水路の音が心地よく響く街の中央を抜け、白い石造りの厳かな神殿へと向かった。
神殿の内部に足を踏み入れると、数人の神官や侍女たちが慌ただしくもテキパキとそれぞれの仕事に励んでいる。
シンはその中の一人の神官に歩み寄り、丁寧に頭を下げた。
「あの、突然すみません。自分たちは旅の者ですが、こちらの水の巫女であるミズキ様にお会いしたいのですけれど、いらっしゃいますでしょうか?」
シンの言葉を聞いた瞬間、対応してくれた神官は、なぜか周囲にいた他の神官たちと顔を見合わせ、言葉を詰まらせた。
セレネがその不自然な反応に気づき、さらに突っ込んで聞こうとした、その時だった。
「これはこれは、風の巫女様。ようこそリプルズにお越しくださいました。私はこの神殿の留守を預かっております、レリックと申します」
奥の扉から、いかにも位の高そうな老神官が穏やかな笑みを浮かべながら現れた。
「初めまして、レリック様。私はセレネと申します。急な訪問ですみません。実は、水の巫女であるミズキ様との面会をお願いしたいのですが……今、いらっしゃいますか?」
セレネが丁寧な口調で問いかけると、レリックは少しだけ申し訳なさそうな顔をして首を横に振った。
「ミズキ様ですか? 実は、ただいまミズキ様は町周辺の被害確認のため、自ら陣頭に立って出払っておられるのです。数日は戻らない予定となっておりますので、大変恐縮ですが、ここでしばらくお待ちいただくか、今回はお引き取りいただくことになりますな」
「そんな……! 巫女様ご自身が自ら外に出られているのですか?」
「えぇ……。連日の魔物の侵攻によって多くの民が怯えていることに深く心を痛められておりまして、『自分にできることがあるなら』と、自ら率先して前線に近い場所の確認に向かわれているのです。私たちも止めはしたのですが、お心の優しい方ゆえに……」
「……そうなのですね」
レリックの真摯な語り口に、セレネはそれきり言葉を失い、静かに押し黙ってしまった。
その緊迫した空気を察したのか、代わりにシンが一歩前に出て、レリックへと視線を向けた。
「レリック様。実はここに来る前に、僕たちは火の巫女様のいらっしゃる場所にも立ち寄ったのですが……そちらでは火山が大変なことになっていたんです。それに、道中で知り合いの商人からも、このリプルズも非常に厳しい状況だと聞いていたので心配していまして」
「ほう、そうなのですね……。火山の大神殿の法具が破壊され、甚大な被害が出たという話は、こちらにも届いております。ですが、幸いにして、このリプルズの街や神殿は何とか魔物の破壊を免れ、ご覧の通りの平穏を保つことができました」
「火山の件は本当に痛ましくて、残念でなりません。ですので、このリプルズの無事を自分の目でしっかりと確認できただけでも安心しました。この後で、僕たちはヴェールダンへ向かう予定になっておりまして……」
「??」
シンの突然の言葉に、セレネは「えっ?」と驚いたような顔をして何か言いかけようとしたが、シンは彼女の視線を鋭く一瞥してそれを遮ると、すかさず言葉を続けた。
「――ですので、ミズキ様が不在なのであれば無理にお引き止めするわけにはいきません。ここが無事で本当に良かったです。これも、巫女様やレリック様のご日頃の活躍の賜物ですね。ミズキ様にお会いできないのは非常に残念ですが、僕たちは予定通り早々に出発したいと思います」
シンのきびきびとした淀みのない言葉に、レリックは安堵したように柔らかく微笑んだ。
「それが賢明なご判断だと思いますよ。どうか、旅のご武運を心より祈っております」
レリックは丁寧に一礼すると、そのまま別の仕事へと去っていった。
レリックの姿が見えなくなると、セレネはたまらず不満げな顔をしてシンにつめ寄った。
「ちょっと、シン! いったいどういうことよ? ミズキに会わずにすぐ出発するなんて聞いてないし、それにヴェールダンに向かうなんて予定、今の私たちには――」
「しっ、少し声を落としてください、セレネ」
シンはセレネの言葉を小声で制すると、周囲に神官たちの目が届かないことを確認し、そのまま彼女の手を引いて神殿の裏側へと素早く移動したのだった。
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