23話
太陽が完全に沈み、荒野の上空に群青色の夜空が広がり始めると、昼間とは打って変わって肌寒い風が吹き抜けてきた。
最初の目的地である業火の街イグニスへ向かう道中、シンとセレネは街道から少し外れた見晴らしの良い開けた平原に足を止め、本日の野営地を設営することにした。
セレネは左手の薬指にはめた空間拡張の魔道具である指輪にそっと意識を集中させる。すると、微かな光の粒子とともに、野宿用の大型テントや頑丈な焚き火台、保存食や調理器具といった荷物が次々と綺麗に地面へと現れ出た。
「ふう、指輪の中にしまっておいたから、型崩れもなくて助かったわ。それじゃあ、シン、私はテントの準備を進めるから、あなたは食事の支度をお願いできるかしら?」
「承知いたしました、セレネさん。自分にお任せください」
シンは手際よく薪を組み上げ、火種を優しく包み込みながら着実に焚き火の準備を整えていく。その傍らで、セレネは取り出したテントの布地を広げ、支柱となるポールを組み立て始めた。
しかし、組み立て作業の途中で、セレネはふと動きを止め、一人で頭を悩ませていた。彼女はチラリと手元のテントを見つめ、それから作業をしているシンの背中をこっそりと盗み見る。
(あの……テントの設営、これって一体いくつ建てればいいのかしら……? 私とシン、当然二人分の個別のテントを用意するべきなのかしら、それとも……)
これまでエルフの村で厳格な巫女として一人で暮らしてきたセレネにとって、男性と二人きりで野営をするという経験はもちろん初めてだった。テントが二つあればそれぞれがプライベートを確保できるが、荷物を減らすという意味では一つを共有するという選択肢もあり得るのかと、真面目な性格ゆえに内心で激しく葛藤が渦巻く。
顔がわずかに熱くなり、どうしたものかと小さく息を吐いていると、手際の良さを発揮して火おこしを終えたシンが、ふと疑問に気づいて声をかけた。
「セレネさん、どうしました? テントの組み立てで何か困ったことでもありましたか?」
「あ、ううん、べ、別にそういうわけじゃないのよ! ただ……その、テントをいくつ設営するものなのかなって、少し考えていただけよ」
少しだけ慌てたような、しかし普段のトーンを保とうとするセレネの様子に、シンは小首をかしげた。
「テントの数ですか? それなら、基本的には一つで十分じゃないかと思いますけど」
「――えっ……?」
セレネは思わず目を見開き、信じられないものを見るような面持ちでシンを見つめ返した。その瞳には、驚きと戸惑いが入り混じった複雑な感情がくっきりと浮かび上がっている。
「え、と……一つってどういうことなの? 私たちは男女ですし、それぞれ別々に――」
「あ、いえ。夜は交代制で一人ずつ見張りを立てる予定ですし、万が一の襲撃があったときにすぐ対応できるようにするためには、一つのテントにまとまっておいた方が荷物も減りますし、安全面でも合理的じゃないかと思いまして」
シンはごく自然に、護衛としての冷静で実用的な判断を述べただけだった。しかし、その言葉の意味を頭の中で反芻したセレネは、顔をカッと赤らめながら慌てて両手を小さく振った。
「そ、そうね! 確かに防衛の観点から言えば、その方が効率的で安全に決まっているわよね! 私もただ、なんとなく考えていただけだから、一つで十分よ! 全く問題ないわ!」
「そうですか? それなら良かったです。では、自分は早速夕食の準備に取り掛かりますね」
シンはセレネの微妙に揺れる複雑な表情の理由にまったく気づくことなく、持っていた食材を手際よく切り分け始めた。
まな板の上で包丁がリズミカルな音を刻み、鍋に投入された野菜や干し肉から香ばしい肉と野菜の旨味が凝縮された温かな湯気がふわりと辺りに広がった。手際よく木製の器によそわれたスープを差し出されると、セレネは小さくお礼を言って受け取り、スプーンで一口すくって口に運んだ。
「……美味しい。身体の芯から温まるような、優しい味がするわ」
「お口に合って良かったです。野営の夜は冷え込みますからね」
二人はパチパチと音を立てる焚き火の温もりを感じながら、静かにスープを味わった。荒野を渡る風の音が遠くでかすかに響く以外は、虫の音と薪が爆ぜる音だけが心地よく響く穏やかな時間だった。
セレネは、目の前で淡々と、しかし細やかな気配りをしながら料理を仕上げていくシンの姿を改めて眺め、心の中で密かに感心していた。
漂流者として突然精霊の森で出会ってから、最初は村人たちからも警戒されていた彼が、今ではこうして自分の旅の心強い相棒として支えてくれている。その頼もしさと飾らない誠実さに、セレネの胸のうちは得も言えぬ温かな安心感で満たされていくのを感じていた。
夕食を終えて一息ついた頃、シンはふと、先ほどまでの道中で話していた別の街の巫女たちのことを思い出し、隣の丸太に座るセレネに視線を向けた。
「そういえばセレネさん。火の巫女のレナさんについては少し聞けましたけど、この大陸には他にも巫女の方たちがいるんですよね。レナさん以外の残りの方々について、もう少し詳しく教えてもらえますか?」
シンの問いかけに、セレネは夜空にきらめく星々を見上げるように遠くを見つめながら、記憶の糸をゆっくりとたどり始めた。
「そうね……私たちの他にもう二人、この大陸の均衡を保つために重要な役割を担う巫女がいるわ。一人目は、『水の巫女』であるミズキよ」
「水の巫女、ミズキさん、ですか」
「ええ。彼女が治めているのは、大陸の東側にある広大な湖のうえに築かれた『泡沫の都リプルズ』という水上都市よ。と言っても海に面しているから海上都市とも言えるわ。ミズキはね、とにかくとても物静かでいつも自分のペースを崩さないマイペースな性格をしているわ。周囲がどれだけ騒がしくても、彼女のまわりだけは時間がゆっくり流れているような、そんな不思議な雰囲気を持つ人ね」
「なるほど、マイペースで物静かな方なんですね。水魔法の扱いに長けているというのは、やはりその穏やかな気質と関係があるのでしょうか」
「そうかもしれないわね。彼女の水魔法は荒々しいものではなくて、どこまでも透明で、すべてを包み込むような柔軟性を持っているの。都の者たちからも深く慕われているわ」
セレネは指先で自分の杖の先端を軽く撫でながら、もう一人の人物へと話を移した。
「そして二人目は、『土の巫女』であるテラよ。彼女が住んでいるのは、大陸南東に広がる広大な砂漠地帯、その中央に位置する巨大なオアシス『ヴェールダン』という街よ」
「砂漠のオアシス、ですか。過酷な環境にありそうですね」
「ええ、その通りよ。砂漠という厳しい環境の中にある街だからこそ、彼女の存在はとても大きいの。テラはね、私たちの中では一番年長で落ち着いた大人の気品があって、いつも物事を冷静に見渡せる賢さを持っているわ。だから、他の巫女たちが集まるような場では、自然と彼女が全体をまとめるまとめ役になることが多いのよ」
「まとめ役、ですか。それは頼りになりそうな方ですね」
「本当にその通りよ。彼女の操る土魔法は、砂漠の過酷な自然から街や人々を守るための堅牢な守りや、大地を豊かにする力に長けているわ。彼女の存在があるからこそ、あの過酷な砂漠地帯の街がしっかりと成り立っているの」
セレネの丁寧で分かりやすい説明に、シンは深く納得したように頷いた。
「火の巫女のレナさん、水の巫女のミズキさん、そして土の巫女のテラさん……。風のセレネさんを含めて、大陸を支える四人の巫女の皆様は、それぞれ全く異なる個性と素晴らしい力を持っているんですね」
「ええ。それぞれが自分の治める場所と人々を大切にしながら、この大陸の魔力のバランスを保ってきたの。だからこそ、今回の魔物の活性化という異常事態が、それぞれの里や街にどれほどの影を落としているか考えると……本当に心配だわ」
セレネの表情にふと影が差したのを見て、シンは温かく力強い声色で彼女に語りかけた。
「だからこそ、僕たちがこうして旅に出たんです。一人で抱え込まず、四人で、あるいは各街の人たちと協力し合えば、必ず原因を突き止められるはずですよ」
その言葉に、セレネは胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じ、ふっと柔らかな笑みを浮かべた。
「……そうね。ありがとう、シン。あなたと一緒にこうして旅ができて、本当に心強いわ」
「どういたしまして。さて、夜も更けてきましたし、明日からの道中に備えてそろそろ休みましょうか。最初の見張りは自分がやりますから、セレネさんは先にテントに入って休んでいてください」
「わかったわ。それじゃあ、お言葉に甘えて……見張り、お願いね」
セレネは軽く会釈をすると、設営されたばかりのテントの中へと身を滑り込ませた。外に残されたシンは焚き火の炎を小さく整え、夜の静寂に包まれた荒野の気配に鋭い注意を向けながら、静かに佇み続けた。
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