20話
石造りの地下牢に響く冷たい足音が、硬質な現実を告げるように朝の訪れを知らせていた。重い鉄格子がわずかに軋む音とともに開く。そこに立っていたのは、いつもの端正な礼服を纏った風の巫女、セレネだった。
彼女の澄んだ瞳は、昨日までの迷いが少しだけ晴れたような、不思議な決意を宿しているように見えた。
「おはよう、シン。今日の予定について、長老たちから直接お話があるわ。こちらに来てちょうだい」
「おはようございます、セレネさん。……わかりました、すぐに向かいます」
シンは硬い木製の簡易ベッドから立ち上がり、軽く身なりを整えてから牢の外へと歩み出た。そのまま彼女の後に従って地下牢の階段を昇る。
外に出ると、朝日が木々の隙間から眩しく差し込み、森特有の清々しい空気が肺を満たしていく。二人はそのまま、村の中心に位置する大きな集会所へと足を向けた。
集会所の扉を開けると、そこにはすでに長老衆が厳粛な面持ちで勢揃いしていた。室内にはピリついた緊張感が漂っているが、先日のような敵意に満ちた空気はない。長老衆はセレネとシンの到着を確認すると、最長老がゆっくりと頷き、二人に告げた。
「昨日、長老会議にて慎重に話し合った結果を下す。風の巫女セレネと漂流者シン。お前たち二人に、村を離れ大陸中の魔物の活性化の原因を探る旅に出る任を与える」
その言葉に、セレネはまっすぐな眼差しで長老を見据えた。
「……承知いたしました。この任、必ずや果たしてまいります」
長老はそんなセレネの顔を見て、厳格だった表情を少し和らげ、優しく諭すように言葉を続けた。
「セレネよ。お前はこれまで、巫女という重責を背負い、この村のことだけに囚われて生きてきた。どうかこの旅を通じて、広い世界をご自身の目で見てきなさい。お前自身の人生を歩むのだ」
「……長老様。はい、ありがとうございます」
セレネの瞳がわずかに潤み、胸の奥が温かな感情で満たされるのが分かった。続いて、最長老は傍らに立つシンへと視線を移した。
「そしてシン。お前には、世界でも稀な特別な治癒魔法の適性がある。その力を持ち、どうか私たちの誇る風の巫女セレネを守ってほしい。お前ならば信頼できる」
シンは姿勢を正し、深く頭を下げてハッキリと言った。
「はい、承知いたしました。この命に代えてもセレネさんをお守りします」
その揺るぎない力強い返答に、長老たちも深く納得したように頷いた。
「出立は3日後とする。各自、旅の準備を進めるように。それからシン、お前は今日から地下牢を引き払い、村のはずれにある空いている小屋に移動しなさい。そこでしっかりと旅支度を進めるのだ」
それからの2日間は、瞬く間に過ぎ去っていった。
シンは地下牢から村の空き小屋へと引っ越しを済ませ、必要最低限の荷物や、旅先で役立ちそうな道具のメンテナンスに勤しんでいた。もともと手先が器用で物づくりが得意な彼は、自分の手で革をなめし、頑丈な旅用のバッグや小物を手際よく作り上げていく。その様子を見た村人たちも、すっかり彼に慣れ、すれ違うたびに温かい声をかけてくれるようになっていた。
一方のセレネも、巫女としての引継ぎを済ませ、旅に必要な最低限の衣装や旅道具の整理に追われていたが、その表情にはどこか軽やかな高揚感があった。
そして、迎えた出立の前夜。
シンの新しい住まいである小さな木造の小屋には、香ばしいスープの香りがふわりと漂っていた。シンの手によって手際よく調理された温かな料理が、質素な木のテーブルの上に綺麗に並べられている。
「どうぞ、セレネさん。大したものは作れませんでしたが、旅立ちの前の夜ですから、温かいものを食べておきたくて」
シンが木製のスプーンを差し出しながら穏やかに微笑むと、セレネは椅子に腰掛けながら小さく首を横に振った。
「ううん、こんな風に誰かと向かい合って夕食をとるなんて、いつぶりかしら。とっても美味しそうよ、ありがとう、シン」
二人はテーブルを挟んで向き合い、静かな夜の気配を感じながらスプーンを口に運んだ。素朴ながらも深い味わいのスープが、旅への緊張感で少しこわばっていた心を優しく解きほぐしていく。
「……準備のほうは、もう完璧に終わりましたか?」
スープを一口飲んだ後、シンがふと気遣うように尋ねる。
「ええ、必要なものはすべて揃っているわ。私の方も、信頼できる者たちに後を託してきたし、いつでも出発できる状態よ」
セレネはそう言って、少し誇らしげに微笑む。その表情は、いつもの窮屈な巫女としての厳格なものではなく、これから未知の世界へ飛び出そうとする輝きに満ちていた。
シンはその様子を温かい眼差しで見つめ、それから立ち上がってキッチンの棚から小さな陶器の瓶を取り出した。
「準備万端なら、良かったです。……あ、そういえば、これを出立前夜の祝杯として村の長老衆からいただいたんです。村で作られている特製の果実酒だそうで」
「あら、それは……『星雫の果実酒』じゃない。村の特別な行事の時にしか開けない、すごく貴重なお酒よ」
「へえ、そうなんですね。じゃあ、これを一口ずつ飲んで、明日からの旅の安全を祈りましょうか」
シンは二つの木製のカップに、透明感のある淡い琥珀色の液体をトクトクと注ぎ分ける。甘酸っぱく爽やかな果実の香りが、小さな小屋のなかにふわりと広がった。
二人はカップを手に取り、軽く掲げる。
「「明日からの旅に、乾杯」」
小さくコツンと木と木が触れ合う音が響き、二人はカップを傾けた。
口に含むと、豊かな果実の甘みと、後から追いかけてくる心地よいアルコールの熱が喉を通り抜けていく。少し強いそのお酒の酔いが、じんわりと身体に回ってきたころ、セレネはふっと息をつき、照れくさそうに視線を少しだけ逸らした。
「ねえ、シン……こんなことを言うのは巫女としてどうなのかしらって自分でも思うのだけれど」
「どうしたんですか?」
「私……実は、こうして村の外に出ることを、心のどこかでずっと待ち望んでいたの。もちろん、魔物の活性化の原因を探るという大事な使命があるのはわかっているわ。でもね、それと同じくらい、広い世界を自分の足で歩いて、色々なものを見てみたかったのよ」
セレネの言葉には、これまでの重責から解放されたような、素直な本音が滲み出ていた。シンは彼女の言葉を聞いて目を丸くした後、優しく柔らかい笑みを浮かべた。
「いいと思いますよ、セレネさん。大事な使命を果たすのはもちろんですが、それと同じくらい、この旅を楽しみましょう。きっと想像以上に面白いことがたくさん待っているはずですから」
その言葉に、セレネは驚いたように目を見張り、それから今日一番の柔らかくて綺麗な笑顔を咲かせた。
「ええ、そうね。よろしく頼むわね、シン」
「はい、任せてください、セレネさん」
窓の外では夜風が静かに木々を揺らし、二人の新しい旅の始まりを優しく祝福するように、穏やかな時間が流れていった。
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