17話
鍵の閉まった地下牢から人間が消え去ったその日、エルフの村の集会所は、歴史の根底から揺さぶられるような衝撃の静寂に包まれていた。
シンの手のひらから溢れ出した眩い緑色の光が、わずか数秒で自身の左腕の切り傷を跡形もなく消し去った瞬間、室内を満たしていたのは圧倒的な戸惑いだった。誰もが呼吸を忘れ、ただ目の前で起きた奇跡のような現象を見つめている。
「な……、ばかな……」
誰かの乾いた呟きを皮切りに、それまで静まり返っていた集会所が再び爆発的なざわめきに包まれた。人間であるはずのシンの身に宿ったのは、この世界の常識を外れた極めて高度な治癒魔法だったからだ。
「静まりなさい!」
上座に座る長老が、重みのある声を発しながらゆっくりと杖を床に突いた。その老練な気迫に押されるように、ざわめきは波が引くように収まっていく。長老は驚愕の色を深く湛えた瞳のまま、じっとシンを見据えた。
「……まさか、その魔法の力。この村の歴史を紐解いても、かつて初代村長であり、私たちの族群を救った英雄様以来の奇跡の業……それを、素性も知らぬ人間のそなたが発現させるなどとはな」
長老の言葉に、周囲のエルフたちの間にさらに動揺が走る。もしそれがエルフの血を引く者であれば、村中が諸手を挙げて大歓喜し、神聖な英雄の再来として崇めていただろう。
しかし、相手はつい昨日まで不審者として地下牢に幽閉されていた、出自も知れぬ人間の男なのだ。エルフたちにとって、その事実はあまりにも受け入れがたく、複雑な感情を呼び起こすものだった。
「……もしこれがエルフの者であれば、我が村の最大の誇りとして迎え入れたところだ。だが、人間であるそなたがその力を手にしたとなると、正直に言ってどう扱ったものか、私としても判断に迷うところだな」
長老は深くため息を吐き出し、頭を抱えるように眉間を押さえた。これまでのように、シンを単なる囚人や雑用係として乱暴に扱うことは、もはや不可能だった。
そんな周囲の重苦しい空気とは裏腹に、シンは自分の手のひらをひっくり返しながら、どこか他人事のように首を傾げた。
「いやぁ……自分でも、なんでこんなものが宿ってしまったのかさっぱり分からないんですよね…。なんだか、体にぽっかり空いていた穴に、勝手に水が満たされていくような変な感覚だったんですよね、うん」
どこか間の抜けたシンの返答に、張りつめていた空気が少しだけ緩む。セレネは呆れたように肩を落とし、スッと一歩前に出ると、長老に向かってまっすぐな視線を向けた。
「長老様。少しよろしいでしょうか」
「……申せ、セレネよ」
セレネは真剣な面持ちで周囲を見回しながら、自分の考えを整理して言葉を紡ぎ出した。
「記憶を失ったシンが精霊の森の禁域に倒れていたこと、最近になって頻発している魔物の異常な襲撃、初代の奇跡の魔法を人間のシンが突如として発現させたこと……。これらの出来事が起きているタイミングがあまりにも一致しすぎています。これは偶然で片付けられるものではありません」
集会所の長老や高齢エルフたちが、セレネの鋭い指摘に息を呑んで耳を傾ける。セレネは少し言葉を区切り、昨夜シンから聞いた話を思い出しながら続けた。
「それに、シンが見たという夢のこともあります。彼の記憶の喪失と、この村に起きている異変の裏には、何かつながりがあるのではないかと思っています。つまり、シンの失われた記憶を取り戻すことこそが、この異常事態を解明する唯一にして最大の鍵になるのではないでしょうか」
セレネのその進言を聞いた長老は、深く頷きながら静かに目を細めた。
「なるほど……。巫女であるお前がそう言うだけの根拠はあるな。実のところを言うと、この精霊の森の周囲だけでなく、いまや大陸全土のあちこちで同様に魔物の動きがかつてないほど活性化しているという報告が届いているのだ」
その言葉に、セレネはハッとしたように目を見張る。村の周辺だけの小規模なトラブルではなく、大陸規模の異変が起きているというのだ。
「それでしたら、長老様。私から一つ提案があります」
セレネは決意を込めた強い口調で、長老にさらに進言した。
「私がシンを連れてこの村を出て、大陸各地を旅します。シンの記憶の手がかりを探しつつ、各地で起きている魔物による問題の解決にあたります。どうか、私たちにその役目をお任せください」
巫女であるセレネが自ら村を離れ、しかも謎の人間であるシンを連れて旅に出るという前代未聞の提案に、集会所は再びどよめいた。
「なっ、巫女様が自ら危険な外の世界へ……! しかもその人間を連れて行くなど、あまりにもリスクが大きすぎます!」
反対の声が上がるのも無理はない。しかし、長老は手でそれを制すと、じっと考え込むように沈黙した。数秒の長い沈黙のあと、長老はゆっくりと顔を上げた。
「……セレネの強い意志、そしてあの若者の秘めたる力を考慮すれば、確かにただ村の中に閉じ込めておくよりも得られるものは大きいはずだ。だが、大陸全土を巻き込む異変の調査となれば、一朝一夕で決められることではない」
長老はそこで一度言葉を切り、シンとセレネを順に見つめた。
「私としても、もう少し思案する時間が必要だ。今日のところはここまでとしよう。明日の朝、再び二人でここへ来るように。その時に最終的な判断を下す」
長老のその言葉に、セレネは深く頭を下げ、シンもそれに倣って丁寧に一礼した。こうして、村の運命を大きく揺るがすかもしれない未知の旅への第一歩が、静かに動き出し始めていた。
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