16話
精霊の森の奥から村へと戻ってきた二人を待ち受けていたのは、一歩間違えれば村全体の騒動になりかねない、ピリピリとした緊迫感だった。
村の入口に差し掛かったところで、持ち場についていた衛兵の一人が慌ただしい足取りで駆け寄ってきた。
「セレネ様、お待ちしておりました! 実はシン殿が牢にいないのと、今朝早く、長老様方が精霊の森の奥からかつてないほどの異常な魔力を感知されて……。村全体が騒ぎになっております。巫女様であるあなたに、その見解とご報告をいただきたいとのことですが――っと、なぜシン殿がそこに?」
衛兵は驚いたように目を丸くし、森から戻ってきたシンを指差した。
当のシンはといえば、緊張感のない様子でのんきにあくびを噛み殺し、「あぁ、おはようございます、衛兵さん」と呑気に手を上げている。
その隣で、セレネは胃が痛むような思いで盛大なため息を吐き出した。
「……事情はあとで説明するわ。長老たちのところ…集会所に行けばよいかしら?」
セレネが呆れを隠せないトーンでそう告げると、衛兵は複雑な表情を浮かべながらも肯定し、2人は村の中心にある大きな集会所へ向かった。
集会所の扉を開けた瞬間、室内の重苦しい空気が肌を刺すように伝わってきた。
すでに部屋の中には、村の主要な高齢エルフや長老たちが勢揃いしており、その視線は一斉に扉の向こうのシンへと向けられた。
「おい、どういうことだ! 森の禁域から人間を連れてきて村を歩き回らせるだけに飽き足らず、この一大事に自由にさせておるのか!」
集会所の隅に座っていた高齢のエルフが、杖を床に強く突き立てながら激しい剣幕で声を荒らげる。他のエルフたちからも、不穏なざわめきが広がっていった。
上座に座る長老が、静かに手を上げて周囲の喧騒を制する。その老練な瞳が、まっすぐにセレネをとらえた。
「セレネよ。急ぎ集まってもらったのは他でもない。今朝早く、精霊の森の奥で観測された未知の魔力波についてだ。そして、なぜお前がその人間を連れているのか、納得のいく説明を求めたい」
セレネは一歩前に進み出ると、背筋を真っ直ぐ伸ばして長老たちを見据えた。
「はい。結論から申し上げますと、今朝の精霊の森で観測された異常な魔力と、シンの存在には深い関わりがあります。それを隠すことなくご説明するために、彼を連れてまいりました」
セレネがそう述べた瞬間、再び部屋の中がざわめいた。
「やはりあの人間が何か不穏な術を使ったのだ! 先ほど衛兵から牢にいなかったと報告も受けておる。うまく牢から抜けて我らが聖域を汚そうとしたのだ!」
「待ってください。もしそうなら今ここにセレネと一緒にいること自体おかしいですよ。」
「昨日はセレネが牢の番をしていたと聞きます。セレネが彼を出した可能性だって考えられますよ」
「何のためにそんなことをしたのだ!ただでさえよく分からない人間がこの村で平然としているほうがおかしい!」
長老たちの間でも、シンを厳罰に処すべきだという強硬な意見と、彼のこれまでの貢献を考慮して冷静に判断すべきだという擁護の声が飛び交い、議論が割れた。
その只中で、中央に立つ長老が静かに手を挙げ、周囲を静まり返らせた。それから、穏やかでありながらもすべてを見透かすような眼差しで、シンへと視線を向ける。
「若い人よ。お前自身はどうなのだ。今朝の出来事について、自分の言葉で説明ができるか? そこに偽りがないか、正直に答えなさい」
長老の問いかけに、シンは恭しく頭を下げると、丁寧な口調で答えた。
「長老様、ご質問ありがとうございます。自分としても、隠し事をしているつもりはありません。ただ……おそらく昨夜から出来事が関係しているのかもしれませんが、自分でも分からないというのが前提です…」
シンは言葉を一旦区切り、今朝精霊の森の奥で目覚めた経緯や、体に満ちていた不思議な翡翠色の光について、自分の知る限りの事実を嘘偽りなく淡々と語った。
「……話を聞く限り、私の知る古い伝承とも一致しない。だが、その現象がすべて偶然だとは思えぬな。若者よ、お前自身のなかに、何か心当たりはあるか」
長老の鋭い問いかけに、シンは少しだけ考え込むような仕草を見せ、それから静かに口を開いた。
「明確な証拠なんてありませんけど……ひょっとすると、あの森の奥で起きたことや今自分の内側に満ちている奇妙な感覚は、僕の中で新しく目覚め始めた『魔法』が原因なのかもしれません」
その言葉を聞いた瞬間、集会所は凍りついたように静まり返った。
「なっ……! 魔法だと……?」
誰かの口から、信じられないものを見るような驚愕の声が漏れた。精霊の森の最奥にある祠は村の創始者であるエルフが眠る場所とされている。しかし、そこで人間が魔法を取得するなど、長老たちの常識からは到底信じがたく、途方もない戯言に聞こえたはずだ。部屋中に再び不信と動揺のざわめきが広がっていく。
その空気を肌で感じ取ったのか、シンは周囲の長老たちを見回し、少しだけ真剣な表情を作った。
「言葉だけで信じていただくのは難しいと思いますので……今から、僕のなかに芽生えた力の一端をお見せしてもよろしいでしょうか」
長老の許可を得るように視線を向けたあと、シンはポケットから愛用の小さなナイフを取り出した。
「ちょっ、シン……何をする気!?」
隣にいたセレネが思わず声を上げ、止めようと一歩踏み出す。しかし、シンは静かに手を上げてそれを制し、微かに微笑んだ。
「大丈夫です、セレネさん。すぐに終わりますから」
そう言って、シンは迷いのない手つきで自分の左腕の袖をまくり、手にしたナイフの刃を自身の皮膚に軽く押し当てて浅く引いた。
「っ……!」
セレネが息を呑み、周囲のエルフたちが思わず身構えたその瞬間だった。
シンはナイフを脇に置くと、出血した浅い傷口に、自分の片方の手をそっと被せた。
次の瞬間、シンの手のひらから、目に鮮やかな美しい緑色の光が溢れ出した。それは周囲の自然を思わせる温かな輝きを放ち、ほんの数秒のあいだ傷口を包み込んだかと思うと、スーッと霧のように消えていった。
シンがそっと手を離すと、そこにあったはずのナイフの切り傷は、まるで最初から存在しなかったかのように綺麗に消え去り、滑らかな肌が戻っていたのだ。
あまりにも一瞬の出来事に、集会所にいた長老たちや高齢のエルフたちは言葉を失い、ただ目を見開いたままその場に凍りついていた。
歴史の古い古文書を紐解いても、これほどまでに純粋で強力な治癒の魔法を、しかも詠唱すらなしに瞬時に発動できる者など、この世界には存在しなかったからだ。
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