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記憶を奪われた聖女は、それでも王子に恋をする  作者: しろねこ


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第8話:セレスの中に残る、説明のつかない既視感

その日は朝から、妙な胸騒ぎがあった。


セレスは自室の窓辺に座り、庭を眺めていた。特に何かがあったわけではない。ただ、視界の隅に映る庭園の景色が、ふと、強い既視感を連れてきた。


——あの木の下で、誰かと笑い合った気がする。


記憶ではない。もっと曖昧な、感覚だけの断片。目を閉じると、風の匂いや、木漏れ日の温度まで、鮮明に感じられるのに、そこに誰がいたのかは、どうしても像を結ばなかった。


「セレスティア様? ぼうっとされて、どうかしましたか」


侍女の声に、セレスは我に返った。


「ううん、なんでもない。……ねえ、あの大きな木の下で、私、昔よく遊んでた?」


「はい。よく殿下と、木登りをなさっていたと聞いております」


「木登り……」


セレスは、もう一度窓の外に目をやった。


今度は、少しだけ像がはっきりした気がした。誰かの笑い声。高い場所から見える景色。落ちそうになって、誰かに支えられた感覚——。


「セレス!」


その時、聞き覚えのある声が響いた。ディーンが、庭を横切ってこちらへ向かってくる。


その姿を見た瞬間、セレスの頭の奥で、何かが小さく弾けた。


——高い枝に掴まりながら見下ろした先、地面からこちらを見上げる少年の顔。


——「危ないから降りてこい」と、怒ったような、心配したような声。


「……っ」


こめかみに、鋭い痛みが走る。セレスは思わず額を押さえた。


「セレス、大丈夫か!」


慌てて駆けつけたディーンが、セレスの肩を支える。近い距離、心配そうな眼差し。それが、記憶の中の少年の顔と、一瞬だけ重なった。


「今、何か……」


痛みが引いていくと同時に、映像も霧のように消えていく。手を伸ばしても、もう届かない。


「木登り、してた気がします。あの木で。……ディーン様と」


震える声でそう言うと、ディーンの表情が、大きく揺れた。


「思い出したのか?」


「分からないです。ただ、一瞬だけ、何かが見えて……」


「どんな景色だった。何が見えた」


必死な声で問われて、セレスは戸惑いながらも、覚えている限りのことを伝えた。高い枝、見上げる少年の顔、心配そうな声。


「それは、俺だ」


ディーンの声が、震えていた。


「八つの時だ。木に登ったのは君の方で、降りられなくなって泣きそうになってた。俺は下から必死に『降りてこい』って怒鳴って……それでも降りてこないから、結局俺も登って、一緒に降りたんだ。……セレス、覚えて」


「ごめんなさい、それ以上は」


もう一度目を閉じても、何も浮かんでこない。せっかく開きかけた扉が、また静かに閉じてしまったようだった。


「……そうか」


落胆を隠しきれない声で、ディーンは呟いた。それでも、すぐに気を取り直したように、優しくセレスの背を支える。


「無理するな。今のだけでも、十分だ」


「本当に、ごめんなさい」


「謝るなって、いつも言ってるだろう」


ディーンは苦笑しながら、セレスの手をそっと握った。


「少しずつでいい。今の一瞬みたいに、時々でいいから、思い出してくれれば」


その言葉に、セレスは小さく頷いた。手のひらに伝わる温もりが、なぜか無性に、泣きたくなるほど懐かしく感じられた。


理由の分からないその感覚を、セレスはまだ、うまく言葉にできずにいた。

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