第9話:イザベラ、ディーンへの接近を強める
夜が更けた頃、イザベラは再びあの路地の扉を叩いていた。
「絆のひびが塞がる前に、決着をつけたいの」
「魅了の術の代償は、以前お伝えした通りです。……それでも?」
「ええ」
イザベラは、迷いを見せまいと、まっすぐに老婆を見返した。
「二度と、誰からも真実の愛を得られなくなる。それが代償なのよね」
「左様です」
老婆は、そっと目を伏せた。憐れむような、それでいて突き放すような沈黙が、束の間流れる。
「今更、後には引けないわ」
震える声で、それでもイザベラは頷いた。
老婆は静かに立ち上がると、奥の棚から、小さな包みを取り出した。中には、乾いた薬草が数枚、収められている。
「これを、殿下が口にするものに混ぜてください。一度で足ります。ただし——」
老婆は、初めて声を低くした。
「代償は、その場では現れません。今すぐあなたが不幸になるわけではないのです」
老婆は、憐れむような目でイザベラを見つめた。
「ただ——これから先、あなたに向けられるはずだった好意や絆が、理由も分からぬまま、少しずつ壊れていくでしょう。今親しい者との仲が、些細なことで拗れる。新しく生まれるはずだった縁が、いつも土壇場で消えていく。一つ一つは、偶然のように見えるはずです。ですが、それが一生続く」
「……一生」
「気づいた時には、もう遅い。誰も、あなたを本当の意味で愛せなくなっている」
「構わないと、言ったはずよ」
包みを受け取るイザベラの手は、かすかに震えていた。それでも、その目に迷いはなかった。
——————
翌日、執務室に、イザベラの声が響いた。
「殿下、お加減はいかがですか」
このところ、彼女は何かと理由をつけては、ディーンのもとを訪れるようになっていた。今日は、公爵家からの支援金の報告書を届けるという名目だった。
「ああ、問題ない」
ディーンは、書類から顔を上げずに答えた。近頃の彼は、誰に対しても、どこか上の空だった。
「顔色が優れないように見えます。……最近、あまり眠れていらっしゃらないのでは」
イザベラの声には、労わるような響きがあった。実際、彼女はこの数日、ディーンの様子を注意深く観察し続けていた。あの禁術師の言葉が、頭から離れなかったからだ。
——絆のひびは、十日ほどで塞がる。
残された時間は、もう多くない。
「セレスティア様のこと、随分と気を揉んでいらっしゃるようですね」
「当然だろう。婚約者なんだ」
「ええ、もちろん。……ですが」
イザベラは、慎重に言葉を選びながら続けた。
「殿下ご自身まで、お倒れになってしまっては、元も子もありません。少しは、気を抜く時間も必要かと」
「気を抜いている場合じゃない」
「分かっております。ただ——」
イザベラは、そっとディーンの机に近づき、用意してきた小さな包みを差し出した。
「これ、疲労に効く薬草茶です。私の家に伝わる、特別な調合のもので」
「……気遣いは、ありがたいが」
「殿下のお身体が心配なだけです。深い意味はございません」
にこやかにそう言うイザベラに、ディーンは断る理由も見つからず、差し出された茶器を受け取った。
一口飲むと、ほのかに甘い香りが鼻を抜けた。特に変わった味ではない。それでも、飲み干してしばらくすると、ディーンの視界が、薄い膜を一枚隔てたように、少しぼやけ始めた。
(……なんだ、これ)
頭の奥が、じんわりと重い。眠気とも違う、思考そのものに霧がかかっていくような感覚だった。まぶたが重くなり、目の前の書類の文字が、うまく頭に入ってこなくなる。
ふと顔を上げると、向かいに座るイザベラの姿が、やけにはっきりと目に映った。窓から差し込む光の加減か、いつもより輪郭が柔らかく、色鮮やかに見える。
(……こんなに、綺麗だったか)
自分でも唐突に浮かんだその感想に、ディーンは小さく戸惑った。今まで、公爵令嬢として当たり前に接してきた相手のはずなのに、今はなぜか、目が離せない。
「殿下?」
「……いや、なんでもない」
慌てて視線を逸らすものの、意識のどこかに、彼女の存在が、いつもより大きく居座り始めていた。
「……少し、休むか」
珍しく、ディーン自身がそう漏らした。イザベラの目に、隠しきれない喜びが一瞬よぎる。
「それがよろしいかと。私、少しの間、お側におります」
イザベラはそう言って、ディーンの近くの椅子に静かに腰を下ろした。
その距離の近さを、ディーンは、いつものように気に留めることができなかった。むしろ——どこか、安心するような、奇妙な感覚さえ覚えていた。
(おかしいな、俺は)
そう思う理性の欠片は、まだ確かにあった。けれどその声は、日を追うごとに、少しずつ小さくなっていくことになる。
窓の外の光が、二人だけの部屋を、静かに照らしていた。
その一方で、宮廷図書室からの帰り道、ノアはふと足を止めた。
(今の魔力……)
微かに、けれど確かに、空気に混じる違和感を感じ取ったのだ。治癒師としての鋭敏な感覚が、何かを察知していた。
「気のせいか……?」
ノアは首を傾げながらも、その違和感を振り払うように、再び歩き出した。だが、その胸の奥には、拭いきれない小さな不安が残っていた。




