第7話:ノア、記憶を失ったセレスに付き添うようになる
「記憶に関する専門家なら、宮廷治癒師のノア殿が適任かと」
侍従からその名を聞いた時、ディーンは一瞬、複雑な表情を見せた。
「ノアか……」
「お知り合いで?」
「幼なじみだ。セレスとも、俺とも」
ディーンはそう言うと、少し間を置いて付け加えた。
「腕は確かだ。頼むしかない」
その言葉には、頼りにする気持ちと、何か言葉にしづらい引っかかりが、同時ににじんでいるようだった。
一人になった執務室で、ディーンは深く息を吐いた。
(よりによって、ノアか)
三人は、物心つく前からの幼なじみだった。侯爵家の三男坊として生まれ、幼い頃から神童と呼ばれていたノア。王族であるディーン。そして、聖女として引き取られたセレス。身分も立場も違う三人が、なぜか気の合う仲間として、いつも一緒にいた。
けれどディーンは、うっすらと気づいていた。ノアがセレスに向ける目が、時々、ただの幼なじみに向けるものとは違う色を帯びることに。
ノアは、一度もそれを口にしたことはなかった。セレスが自分の婚約者だと知ってから、ノアは一線を引くように、それでいて変わらない距離感で、三人の関係を保ち続けてきた。だからこそディーンも、それについて深く踏み込んだことはなかった。触れれば、何かが崩れる気がして。
(あいつなら、セレスを任せられる。……分かってる。分かってるが)
信頼している。それは本当だ。同時に、その信頼の裏側に、小さな棘のような不安が潜んでいることも、ディーンは自覚していた。記憶を失った今のセレスにとって、ノアとの時間が、まっさらな「初めまして」になってしまうということに。
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翌日、聖女宮を訪れたノアは、穏やかな笑みを浮かべてセレスの前に立った。
「久しぶりだね、セレス。……って言っても、君の方は覚えてないんだろうけど」
からりとした声色に、セレスは少し驚いた。今まで会った誰もが、腫れ物に触るように接してきた中で、ノアだけは、いつも通りの態度を崩さなかった。
その軽さの裏で、ノアの心臓は、柄にもなく速く打っていた。
(記憶がない、か)
聖女宮へ向かう道すがら、何度も自分に言い聞かせてきた。今日会うセレスは、自分のことを知らない。ただの患者と、治癒師。それだけの関係で接すればいい、と。
けれど、目の前に立つ彼女を見た瞬間、ノアの中で、長年押し込めてきた感情が、小さく疼いた。
(駄目だ。今のお前は、治癒師だろう)
自分を戒めながら、ノアはセレスの手を取った。
「ごめんなさい。あなたのことも、思い出せなくて」
「謝らなくていい。俺は俺で、勝手に知ってる顔してるだけだから」
そう答えながら、ノアの脳裏には、幼い頃の記憶が蘇っていた。庭で転んで泣いていたセレスに、真っ先に駆け寄ったのは自分だったこと。ディーンが王子としての公務に追われるようになってから、寂しがるセレスの隣にいたのが、いつも自分だったこと。
いつからだろう、幼なじみへの情が、それだけでは収まらなくなったのは。
気づいた時にはもう、セレスはディーンの婚約者だった。生まれた時から定められていた二人の関係に、割り込む隙間なんて、どこにもなかった。だからノアは、その想いに蓋をした。誰にも——本人にすら、気づかれないように。
「脈は正常。魔力の流れも、表面上は乱れてない。……となると、やっぱり厄介だな」
「厄介、ですか」
「体の異常じゃなくて、もっと深いところの話ってことだ。俺の手には負えないかもしれない」
正直な物言いに、セレスはかえって安心した。何かを誤魔化されるより、はっきり言ってもらう方が、気持ちが楽だった。
「それでも、力になりたい」
ノアは、まっすぐにセレスを見つめた。
その眼差しに、一瞬だけ、治癒師としての顔とは違う何かがよぎる。けれどそれは、瞬きの間に消えてしまうくらい、短いものだった。
「これから、時々様子を見に来る。何か思い出したこと、逆に不安になったこと、何でもいいから話してくれ」
「ありがとう、ございます」
「他人行儀だな。前は、もっと砕けた喋り方だったのに」
苦笑するノアに、セレスは申し訳なさそうに俯いた。
「ああ、悪い。責めてるわけじゃないんだ」
ノアは慌てて言い添えると、セレスの頭を、くしゃりと軽く撫でた。
その仕草は、幼い頃から数えきれないほど繰り返してきた、ただの癖のようなものだった。けれど今、記憶のないセレスに向けてそれをした瞬間、ノアは自分の指先が、わずかに震えたことに気づいていた。
(……知らない顔した君に、こういうことするの、ずるいな、俺)
自分の中の矛盾に、ノアは苦く笑った。
その距離の近さに、セレスは思わず身を固くする。嫌な感じはしなかった。ただ、どう反応していいのか、分からなかった。
胸の奥が、少しだけ、意味もなくざわついた。
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それから、ノアは数日おきに聖女宮を訪れるようになった。診察という名目で、実際には他愛のない世間話をしていく時間の方が長かった。
「セレスは、昔から絵を描くのが好きだったんだ」
「そう、なんですか」
「うん。俺やディーンをモデルにして、よく落書きしてた。……ディーンの方は、いつも実物より三割増しで格好よく描かれてたけど」
くすくすと笑うノアに、セレスもつられて笑ってしまう。記憶にはない話なのに、なぜかその情景が、目に浮かぶような気がした。
「昔の話、もっと聞きたいです」
「いくらでも話すよ。俺は、セレスとの思い出、結構たくさん持ってるから」
その言い方に、ほんの少しだけ、含みがあるような気がした。けれどセレスは、その違和感に気づかないまま、ノアの話に耳を傾け続けた。
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その頃のセレスは、自分の中に生まれた小さな戸惑いを、うまく持て余していた。
ディーンと一緒にいる時は、いつも胸が騒がしい。名前を呼ばれるだけで鼓動が速くなり、見つめられると、頬が熱くなって仕方がない。記憶がなくても、その感覚だけは、日ごとに強くなっている自覚があった。
けれど、ノアと過ごす時間は、それとはまったく違う種類の心地よさがあった。肩の力が抜けて、素のままの自分でいられるような、静かな安心感。
——似ているようで、違う。この違いは、何なのだろう。
その戸惑いが、ある日の午後、思わず口をついて出た。
「ねえ、ノア様」
「様はいらないよ。前は呼び捨てだった」
「……ノア」
呼び方を変えた瞬間、ノアの表情が、一瞬だけ緩んだ。それを隠すように、彼はさりげなく視線を庭の方へ逃がす。
「なに」
「あなたは、私のことを、どう思ってるんですか」
自分でも、唐突な質問だという自覚はあった。けれど、聞かずにはいられなかった。
この人といる時の、この落ち着いた気持ちの正体が知りたくて。
不意打ちの問いに、ノアの心臓が跳ねた。
「……どうって?」
「なんだか、時々、すごく優しい目で見られてる気がして。それが、治癒師としての優しさなのか、それとも……」
セレスの言葉は、そこで途切れた。自分でも、うまく言語化できない違和感を、なんとか言葉にしようとしているようだった。
ノアは、しばらく黙り込んだ。それから、いつもの軽い調子を装って、微笑んだ。
「幼なじみとして、大事に思ってる。それだけだよ」
嘘ではない。けれど、全部でもなかった。
ノアは、自分の中の一番柔らかい部分を、そうやって、また少しだけ覆い隠した。
その笑顔の裏にある何かに、セレスは気づかないまま、けれど胸の奥に小さな熱を感じながら、小さく頷いた。
「そう、なんですね」
「不満そうだな」
「不満じゃ、ないです。ただ……」
セレスは、頬を赤らめながら俯いた。
「ノアといると、すごく安心するんです。でも、それとは別に、時々どきっとする瞬間もあって。……ディーン様といる時のどきどきとは、少し違う種類の感覚で。自分でも、うまく説明できないんですけど」
その言葉に、ノアの喉が、小さく鳴った。平静を装うのに、少しだけ時間がかかった。
「……それは、深く考えなくていい」
そう言いながらも、ノアの声は、いつもよりわずかに掠れていた。
穏やかな時間が、少しずつ積み重なっていく。記憶のないセレスにとって、ノアと過ごす時間は、不思議と息がしやすいものになっていた。
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一方、その報告を受けるたびに、ディーンの表情は、少しずつ硬くなっていった。
「今日も、ノアが?」
「はい。色々な話をしてくださって……昔の私のことも、教えてもらえました」
「そうか」
短い返事の裏に、隠しきれない何かが滲んでいた。
(頼んだのは、俺だ)
分かっている。分かっているはずなのに、セレスがノアの話をする時の、あの柔らかい表情を思い出すたびに、胸の奥が、じわりと焦げつくように痛んだ。
自分が選んで、頼んだ相手。信頼している相手。それなのに、この感情に名前をつけることを、ディーンはまだ、どこかで拒んでいた。
セレスはまだ、その表情の意味に、気づいていなかった。




