第6話:ディーンの様子がおかしい——呪いの兆候
セレスの記憶が戻らないまま、数日が過ぎた。
それでもディーンは、毎日欠かさずセレスのもとを訪れた。以前と同じように、庭園で並んで座り、お茶を飲み、他愛のない話をする。まるで、何も変わっていないかのように。
「今日は、この間話した薔薇が咲いたらしい。見に行くか」
「うん」
会話は続く。けれど、その一つ一つに、以前ならあったはずの「当たり前さ」が欠けていた。セレスは、ディーンの隣を歩きながら、ずっと落ち着かない気持ちを抱えていた。
(この人は、私のために、こんなに頑張ってくれてるのに)
薔薇園に着くと、ディーンは一輪を指して、何でもないことのように言った。
「これ、俺が七つの時に、初めて自分で育てた薔薇の子孫だ。……覚えてないよな」
「……ごめんなさい」
「謝るなって、言ってるだろう」
ディーンは苦笑して、セレスの頭を軽く撫でた。仕草は優しいのに、その目の奥に、隠しきれない疲れが滲んでいるのを、セレスは見逃さなかった。
「ディーン様」
「なに」
「無理、してませんか」
ディーンの手が、一瞬止まった。
「してない」
「噓」
セレスは、思い切って続けた。
「毎日、忙しいのに私のところに来て、色々な本を調べて……眠れてないんじゃないですか」
図星を突かれたのか、ディーンは視線を逸らした。
「……それの、何が悪い」
「悪くはないです。でも」
セレスの声が、少しだけ震えた。
「私のために、そこまでしてもらう資格が、今の私にあるのかどうか、分からなくて」
「資格の話じゃない」
ディーンの声が、強くなった。
「俺がしたいから、してるだけだ。君に、負担を感じてほしいわけじゃない」
「でも、思い出せない自分が、ずっと苦しいんです」
セレスの目に、涙が浮かんだ。
「あなたがくれる優しさに、ちゃんと応えられないことが。……あなたが大切にしてきた思い出を、何一つ、返してあげられないことが」
ディーンは、しばらく黙り込んでいた。それから、ゆっくりと、セレスの手を取った。
「返さなくていい」
「でも……」
「今のままの君と、新しく思い出を作っていけばいい。それじゃ、駄目か」
まっすぐに向けられた言葉に、セレスは胸が詰まった。
「駄目、じゃないです。……でも、怖いんです」
「怖い?」
「このまま、一生思い出せなかったら。あなたにとって私が、ただの他人のままだったら——そう思うと、怖くて」
ディーンは、セレスの手を、そっと自分の両手で包み込んだ。
「一生かけても構わない」
静かな、けれど確かな声だった。
「何年かかっても、俺は待つ。今のこの手も、これから覚えていけばいい」
その言葉に、セレスは何も言えなくなった。ただ、包み込まれた手のひらの温かさだけが、じんわりと胸に染み込んでいくのを感じていた。
――――
それから数日、ディーンは表向き穏やかに振る舞いながらも、裏では約束通り、あらゆる手を尽くしていた。宮廷図書室にこもって古い文献を漁り、国内外の治癒師に密使を送り、記憶に関わる魔法の専門家を探し続けた。眠る時間を削って机に向かう彼の目の下には、うっすらと隈ができ始めていた。
「殿下、少しはお休みにならないと」
侍従の忠告にも、ディーンは首を横に振るばかりだった。
「休んでいる場合じゃない」
そう言いながら、彼はまた新しい文献のページをめくる。指先が、苛立たしげに机を叩いた。
けれど、探せば探すほど、有力な手がかりは見つからなかった。
「記憶の欠損……原因不明の突発性……似たような症例が、ないわけじゃない」
ディーンは、ある文献の一節を指でなぞりながら呟いた。
「だが、対処法が載っていない。……くそ」
苛立ちを隠せず、ディーンは本を閉じた。その拍子に、積み上げていた別の本の山が崩れ、机の下に散らばる。
「……っ」
舌打ちと共に、ディーンは崩れた本を拾おうと屈み込んだ。その瞬間、こめかみに、鋭い痛みが走った。
「……なんだ、今の」
頭を押さえて、ディーンはしばらく動けなくなる。目の前が、一瞬だけ暗くなったような感覚。
痛みが引くと同時に、頭の中に、見覚えのない映像が浮かんだ。
——赤いドレスを纏った、誰かの後ろ姿。
——誰かに向かって伸ばされる、白い手。
見えたと思った瞬間には、もう霧のように消えてしまう。ディーンは呆然と、自分の手のひらを見つめた。
(今のは、なんだ)
夢とも、記憶とも、想像ともつかない断片。心当たりが、まったくなかった。
——実のところ、それは記憶ではなかった。
聖女と王家の間に結ばれた魂の絆は、本来、片方の心が乱れれば、もう片方にもその余波が伝わるようにできている。セレスとの絆に入った亀裂は、ディーンの無意識にも小さな裂け目を残していた。そしてその裂け目から、術をかけた者の残留魔力——いわば「気配の断片」が、時折漏れ出していたのだ。ディーン自身、それが何を意味するのか、この時はまだ知る由もない。
その日以来、ディーンは時折、同じような頭痛と、不可解な既視感に襲われるようになった。何かが、自分の中で、少しずつ形を変えていくような、不気味な感覚だった。
「殿下、最近お顔の色が優れないようですが」
侍従の言葉に、ディーンは無理に笑ってみせた。
「大丈夫だ。心配ない」
けれど本当は、自分でも説明のつかない苛立ちが、日に日に募っていることに、ディーン自身が一番戸惑っていた。
その苛立ちは、セレスの前でだけ、なぜか少しだけ和らいだ。彼女と話している時だけ、頭の中の靄が、わずかに晴れるような気がしたからだ。
「ディーン様、大丈夫ですか? 顔色が悪いです」
セレスの心配そうな声に、ディーンは静かに首を振った。
「平気だ。それより、体調はどうだ。何か、思い出せそうなことは」
「まだ、何も……ごめんなさい」
「謝るなと言っただろう」
ディーンは、セレスの頭に、そっと手を乗せた。優しく、けれど少しだけ、縋るように。
「焦らなくていい。俺が、必ずどうにかする」
その言葉に嘘はなかった。けれど、彼自身の中で何かが少しずつ狂い始めていることに、この時のディーンは、まだ気づいていなかった。
夜、王宮の一室で、イザベラは一人、ワイングラスを傾けていた。
脳裏には、あの禁術師の言葉が繰り返し蘇っていた。
『絆に入ったひびは、傷と同じ。放っておけば、自然と塞がっていきます。……早ければ十日、遅くとも半月のうちに』
『塞がってしまえば?』
『もう一度同じ隙を作るには、また一からやり直すしかありません。次はもっと、大きな代償を払うことになるでしょう』
窓の外を見つめながら、彼女は静かに呟く。
「そろそろ、次の段階に進まないと」
その目には、これまでにない焦りの色が浮かんでいた。記憶を奪うだけでは、まだ足りない。ひびが塞がってしまう前に、ディーンの心を完全に自分へと向けなければ、すべてが無駄になる。
「魅了の術……次は、あなたの番よ、ディートリヒ様」
グラスの中の赤い液体が、月光を受けて、不吉なほど美しく揺れていた。




