第5話:目覚めたセレス、「婚約者」を思い出せない
朝の光が、聖女宮の寝室に差し込んでいた。
セレスはゆっくりと瞼を開け、天蓋の模様をぼんやりと見つめた。頭の芯に、薄い霧がかかったような感覚がある。
「セレスティア様、おはようございます」
侍女がカーテンを開けながら、いつも通りの声をかけてくる。
「……おはよう」
体を起こそうとして、セレスはふと違和感に気づいた。
——何か、忘れている。
大切な何かを、置き忘れてきたような感覚。けれど、それが何なのか、どれだけ考えても形にならない。まるで、深い水の底に手を伸ばしているのに、指先が何にも触れないような、もどかしさだけがあった。
「今日は、殿下との午後の茶会がございます。庭園にて」
侍女の言葉に、セレスは首を傾げた。
「殿下……?」
「はい。ディートリヒ殿下です」
その名前を聞いた瞬間、胸の奥が、小さくざわついた。知っているはずの名前。なのに、なぜか、遠い。
「殿下は、その……私と、どういう……」
言いかけて、セレスは自分の言葉に驚いた。どうして、こんな当たり前のことを聞いているのだろう。喉の奥が、変な形に絞られるような感覚がした。
侍女もまた、怪訝な顔をした。
「セレスティア様、ご冗談を。殿下は、幼い頃からの婚約者でいらっしゃいます」
「婚約者……」
繰り返してみても、実感が湧かない。頭では理解できるのに、心のどこにも、その記憶が見当たらなかった。
まるで、大切に飾っていたはずの一枚の絵が、額縁だけを残して消えてしまったような感覚。額縁の形だけは分かるのに、そこに何が描かれていたのか、どうしても思い出せない。
「気分が優れませんか?」
心配そうな侍女の声に、セレスは慌てて首を振った。
「ううん、大丈夫。少し、寝ぼけていただけ」
そう答えながらも、セレスの心臓は、早鐘のように鳴っていた。何かがおかしい。おかしいのに、それを誰かに言葉で説明できない。
一人になった部屋で、セレスは鏡台の引き出しを、片っ端から開けていった。もし本当に長年の婚約者がいるなら、何か手がかりがあるはずだ。
古い日記帳が出てきた。開いてみる。子供らしい丸い字で、「今日はディーン様と、庭で追いかけっこをした」「ディーン様が、また意地悪を言った」——そんな記述が、何ページにもわたって続いていた。
自分の字で、確かに自分が書いたものだと分かる。なのに、そこに書かれた出来事は、まるで他人の日記を読んでいるようだった。
(私、本当にこの人のことを、覚えてないんだ)
改めて突きつけられた事実に、セレスの手が震えた。
日記を胸に抱えたまま、セレスはしばらく動けずにいた。涙が、ぽろりと一粒零れる。悲しいのか、怖いのか、自分でもよく分からない涙だった。
支度を終え、庭園へ向かう道すがら、セレスはずっと日記の内容を思い返していた。何か一つでも、記憶の糸口が見つからないかと、必死に。
(ディーン様が、また意地悪を言った……どんな意地悪?)
考えても、何も浮かんでこない。焦りだけが、じわじわと胸に広がっていった。
庭園に着くと、そこにはすでに一人の青年が立っていた。
「セレス」
名を呼ばれた瞬間、セレスの心臓が、小さく跳ねた。
——知らないはずなのに、どうして。
振り返った青年——ディートリヒは、いつものように笑おうとして、その表情を、途中で止めた。
セレスの目を見た瞬間、何かがおかしいと、直感的に悟ったようだった。
「……セレス?」
「あ……ディートリヒ、殿下」
他人行儀な呼び方が、口から零れる。自分でも驚くほど、それは自然に出てしまった言葉だった。言った瞬間、しまった、と思う。けれど、他にどう呼べばいいのか、分からなかった。
ディーンの表情が、大きく揺らいだ。
「……今、なんて」
「殿下、と」
沈黙。
庭園の風が、二人の間を通り過ぎていく。
ディーンは、セレスの顔を、まじまじと見つめた。何かを確かめるように、それでいて、何かにすがるように。
「……冗談だよな」
低く、掠れた声だった。
「セレス、いつもの冗談だろう。俺を困らせたいだけの」
「殿下……」
「その呼び方、やめてくれ」
初めて、ディーンの声に、はっきりとした苦しさがにじんだ。
「頼むから、いつも通りに、俺の名前を呼んでくれ」
セレスは、何も言えなかった。呼びたい。呼んでみたい。けれど、口にしようとしても、彼の名前だけが、なぜか喉の奥で引っかかって出てこなかった。
「……ごめんなさい」
やっと絞り出した言葉は、謝罪だった。
「思い出そうとしても……あなたのことが、分からないんです」
ディーンの顔から、みるみる血の気が引いていく。震える手を伸ばしかけて、途中で止めた。触れていいのかどうか、分からないというように。
「噓だろう」
「本当に、ごめんなさい」
「俺たちが、どれだけの時間を一緒に過ごしてきたか——覚えてないのか。十三年だぞ。君が六歳でこの王宮に来てから、ずっと」
「……はい」
短い返事に、ディーンは言葉を失ったまま、その場に立ち尽くした。
しばらくして、彼は静かに問いを重ねた。
「じゃあ、聞かせてくれ。俺の好きな菓子は」
「……分かりません」
「俺が、一番怖がっているものは」
「分かりません」
「九歳の時、俺が池に落ちて、泣いた俺を、誰が笑わずに助けてくれたか」
セレスは、首を横に振ることしかできなかった。一つも、答えられない。全部、知らないはずのことだった。
ディーンは、片手で顔を覆った。肩が、かすかに震えている。
「……そうか」
長い沈黙の後、その一言だけが零れた。
「ディーン様……」
思わず口をついたその呼び方に、ディーンが、はっと顔を上げた。
「今、俺のこと……」
「あ……日記に、そう書いてあったので」
正直に告げると、ディーンの表情が、傷ついたように歪んだ。記憶からではなく、他人の記録から借りてきた呼び方だと分かって、余計に胸が痛んだのだろう。
「……そうか。日記、か」
自嘲するような呟き。それでも彼は、深く息を吸って、無理やり表情を立て直した。
「分かった。……今日のところは、無理に思い出さなくていい」
「本当に、ごめんなさい」
「謝るな」
ディーンは、努めて静かな声で言った。
「君のせいじゃない。それだけは、分かってる」
けれど、その声の底には、隠しきれない焦りと恐れが滲んでいた。何が起きたのか分からないまま、ただ大切なものが指の間からこぼれ落ちていく感覚——それは、セレス以上に、ディーンを苦しめているようだった。
「……方法を探す」
ぽつりと、ディーンが呟いた。
「治癒師でも、魔法使いでも、記憶に詳しい者なら誰でもいい。必ず、思い出させる方法を見つける」
「そんな、無理をしなくても」
「無理じゃない」
ディーンは、セレスの目を、まっすぐに見つめた。その瞳には、動揺の奥に、燃えるような決意の光が宿っていた。
「もう一度、一から始まってもいい。何度でも、俺のことを好きになってもらう。それでも——」
声が、わずかに震える。
「それでも、君の中から、俺という存在ごと消えてしまったなんてこと、俺は絶対に認めない」
その言葉には、簡単な慰めではない、痛みを堪えた重さがあった。セレスは、何も答えられなかった。ただ、目の前の男の、悲しそうな、それでいて折れることを拒む強い表情だけが、なぜか強く胸に残った。
理由の分からない胸の痛みを抱えたまま、セレスはその夜、もう一度日記を開いた。何か一つでも、思い出せるものはないかと、ページをめくり続ける。
けれど、朝が来ても、記憶の糸口は、まだ何一つ見つからないままだった。




