第4話:呪いの夜、セレスの記憶が奪われる
夜会から数日が過ぎた、ある夜のことだった。セレスもディーンも、いつも通りの穏やかな一日を終え、それぞれの寝室で眠りについていた。
その夜、王宮の空に、静かな月が昇っていた。
セレスの寝室には、静かな月光が差し込んでいた。侍女たちも下がり、灯りを落とした部屋には、規則正しい寝息だけが響いている。
窓の外、バルコニーの影に、一つの人影が忍び寄っていた。
イザベラだった。
公爵令嬢という立場上、王宮への出入りそのものは難しくない。今夜も、明日の茶会の打ち合わせを口実に、日暮れ前から聖女宮を訪れていた。問題は、警備の厚い夜間にどう居残るかだった。
幼い頃、セレスと共にこの離宮で過ごした時間が、思わぬところで役に立った。庭師や使用人だけが使う裏階段、警備の目が届きにくい死角——体に染みついたその記憶を頼りに、イザベラは訪問を終えた素振りで一度外へ出た後、日が落ちてから使用人用の裏口から再び忍び込んでいた。
加えて、彼女自身に流れる魔女の血が、小さな隠形の術を可能にしていた。並の魔法ではない、気配を薄めるだけのささやかな術。それでも、居眠りをしている見張りの目をかいくぐるには、十分だった。
音を立てないよう、慎重に窓を開ける。手には、深紅の液体が入った小さな硝子瓶。指先が、かすかに震えていた。
その手が、寝台のすぐ手前で止まる。
セレスの寝顔は、あまりにも穏やかだった。幼い頃、共に庭を駆け回った記憶が、一瞬だけイザベラの脳裏をよぎる。彼女もまた、セレスに憧れていた時期があったことを、今更のように思い出した。
(今なら、まだ引き返せる)
けれどイザベラは、その考えを振り払うように、強く瞼を閉じた。
(駄目。今更、やめられない。ここまで来たんだもの)
罪悪感を、無理やり奥へと押し込める。開けた瞼の奥には、もう迷いのない目があった。
「……ごめんなさい、セレスティア様」
謝罪とは名ばかりの呟きを漏らしながら、イザベラは瓶の蓋を開けた。
一滴。
セレスの唇に、深紅の雫が静かに落ちる。
その瞬間、セレスの体が淡い光に包まれた。まるで、彼女の中から何かが、静かに引き剥がされていくように。
うなされるように、セレスの眉根がわずかに寄る。
「……ディー、ン……」
寝言のように零れた名前に、イザベラの胸が鋭く痛んだ。それでも、手を止めることはしなかった。
光が収まると、セレスは何事もなかったかのように、再び静かな寝息を立て始めた。
同時に、イザベラの頭の奥で、何かがふっと軽くなるような感覚があった。まるで、大切に持っていたはずの何かを、誰かにそっと抜き取られたような。
「……あら」
自分でも戸惑うほど、それは些細な感覚だった。何を失ったのか、思い出そうとしても、何も浮かんでこない。忘れたという自覚すら、輪郭がぼやけていく。
(今のは、何……?)
考えても分からず、イザベラは軽く頭を振って、その違和感を追い払った。代償のことなど、この時はまだ、大した意味を持たないように思えていた。
イザベラはセレスの寝顔をしばらく見つめた後、逃げるようにバルコニーから姿を消した。
同じ頃、離れた本宮の一室で眠っていたディーンもまた、うなされるように寝返りを打っていた。
「……セレス……どこに……」
うわ言のように呟くその声。まだ本人も気づいていないが、彼の中で、何か大切なものと繋がっていた糸が、ぷつりと細く裂けたような感覚が走っていた。絆に入った、最初のひび——それが何を意味するのか、この夜のディーンはまだ知らない。
窓の外の月は、何も知らないかのように、静かに二人の部屋を照らし続けていた。
朝が来れば、すべてが変わってしまうことを、まだ誰も知らないままに。




