第2話:ディーンの独占欲が垣間見える、甘やかな一幕
それから一週間後。婚約から先の話を正式に進めるにあたり、王家主催の夜会が開かれることになった。国中の貴族が集まる、大きな催しだった。
大広間の扉が開いた瞬間、光が溢れ出した。
無数の蝋燭とシャンデリアの光が、磨き上げられた大理石の床に映り込んでいる。楽団の音が、まだ控えめに響き始めたばかりだった。
「セレスティア様」
侍女に髪を結い上げてもらったばかりの首筋が、少し心もとない。今夜のドレスは、いつもより肩が出ている。
数日前、ディーンから届いたそのドレスは、彼の瞳と同じ、深い藍色をしていた。
添えられた手紙には、短く「これを着てきてほしい」とだけ書かれていた。
「よくお似合いです。それに……こちらも」
侍女がそっと差し出したのは、藍色の宝石があしらわれたネックレスだった。ドレスと対になるように、同じ色の石が中央で静かに光っている。台座には、王家の紋章をさりげなく模した細工。
一目で分かる。これを身につけている限り、誰の目にも、自分が「ディートリヒ王子のもの」だと分かるようにできている。
セレスは鏡の中の自分を見つめながら、頬が熱くなるのを感じた。恥ずかしさと、それ以上の、くすぐったいような喜び。
胸元でネックレスの重みを感じながら、セレスは無意識に、その石にそっと手を添えた。
会場に足を踏み入れると、視線が集まるのを感じる。
慣れているはずなのに、今夜はなぜか落ち着かない。理由は分かっていた——今夜、ディーンがどんな顔でこちらを見るか、それだけが気になって仕方がなかったからだ。
人混みの向こうに、彼の姿を見つける。
正装に身を包んだディーンは、いつもより少し大人びて見えた。誰かと話しながら、ふとこちらに視線をやる。
目が合った。
その瞬間、ディーンの言葉が途切れたのが、遠くからでも分かった。
心臓が、跳ねる。
彼はしばらくセレスから目を離さなかった。周りの音が、すっと遠のいていくような感覚。
「セレスティア様、今夜も一段とお美しい」
近づいてきた若い貴族の声で、我に返った。ダンスの誘いだと分かって、セレスは微笑もうとした。
差し出された手が、触れる前に。
「悪いが、彼女の相手は俺がする」
低い声が割り込んだ。
ディーンだった。何も言わず、当然のようにセレスの腰に手を添える。若い貴族は気圧されたように一礼し、そのまま離れていった。
「……ディーン?」
「なに」
「今の、ちょっと大人げなかったと思う」
「そうか」
まったく悪びれない返事に、セレスは思わず笑ってしまう。
ディーンの視線が、ふとセレスの胸元で止まった。指先が、ネックレスの石にそっと触れる。
「……よく似合ってる」
「ありがとう。あの、これ……」
「分かってる。似合うと思って選んだ」
ディーンは少しだけ得意げに言うと、セレスの手を取り、ダンスの列へと導いた。
「これで、今夜だけは安心できる」
「安心?」
「一目で分かるだろう。誰の色を、着けているか」
その言い方に、セレスは思わず頬を染めた。独占欲を、こんなにも堂々と形にされるとは思っていなかった。
音楽が始まり、二人は自然に体を寄せた。至近距離。触れ合う手のひらから、ディーンの体温が伝わってくる。
くるり、と身体が回る。視界の端で、シャンデリアの光が流れていく。
戻ってきた瞬間、また目が合った。
近い。いつもより、ずっと近い。ディーンの吐息が、耳のすぐそばで聞こえる。
鼓動が、速くなる。
呼吸の仕方を、一瞬忘れそうになる。周りで踊る他の人々の姿も、楽団の音も、少しずつ遠のいていくようだった。ここには、ディーンと自分の二人しかいないような、そんな錯覚。
「……さっきから、視線を感じてたんだ」
ディーンが、囁くように言った。
「視線?」
「他の男の。君を見てる視線」
「気にしすぎだよ」
「気にする」
きっぱりと言い切られて、セレスは言葉を失った。ディーンはわずかに眉を寄せて、続ける。
「君が誰かに笑いかけるたびに、苛立つ自分がいる。……こんな感情、知らなかった」
その声には、隠しきれない本音がにじんでいた。セレスは、ディーンの胸元をそっと見上げる。
目が合う。
逸らせない。
「困った人だね」
そう言いながらも、セレスの口元は緩んでいた。ディーンはその表情を見逃さなかった。
「今、笑っただろう」
「笑ってない」
「笑ってた。……俺にだけ、その顔をするくせに」
腰に回された手に、少しだけ力がこもる。
ダンスの回転で近づいた拍子に、ディーンの唇が、セレスのこめかみのすぐそばをかすめた。
「セレス」
「……なに」
「今夜、何度も他の男に見られてただろう」
「気づいてなかった」
「俺は気づいてた。ずっと」
囁くような声。低くて、少しだけ掠れている。
「その、困ったように微笑む顔。目を伏せて、睫毛が震えるところ。全部——他の男には見せるな」
心臓が、大きく跳ねた。頬が熱を持つ。
「そんな、見られてるの……?」
「見てる方が悪いんじゃない。君が、無防備すぎるんだ」
ディーンはそう言うと、セレスの耳元に、もう少しだけ顔を寄せた。触れそうで、触れない距離。
「……この顔も、俺だけのものにしたい」
言葉と一緒に落ちた吐息が、耳朶をくすぐる。セレスは声も出せずに、ただ小さく頷いた。頷くことしかできなかった。
ディーンの視線が、一瞬だけセレスの唇に落ちた。
ほんの一瞬。けれど、セレスはその視線の意味に気づいてしまう。
心臓が、痛いくらいに鳴る。
ここは、人の目がある大広間の真ん中。分かっているはずなのに、二人の間の空気だけが、不釣り合いなほど甘く張り詰めていた。
ディーンは小さく息を吐くと、名残惜しそうに視線を逸らした。
「……ここじゃ、駄目だな」
「な、なにが」
「分かってるくせに、聞くなよ」
耳元で低く囁かれて、セレスは何も言い返せなくなる。ディーンの手が、腰から離れないまま、けれどそれ以上は動かない。まるで、自分に言い聞かせているかのように。
「今は、我慢する」
短いその一言に、どれだけの余裕のなさが込められているか、セレスにも伝わってきた。抑えているのが分かるからこそ、余計に、胸の奥が疼くように熱くなる。
一曲が終わると、ディーンはセレスの手を引いて、人混みを離れるように歩き出した。
「……どこに?」
「少し、外の空気を吸おう。顔が赤いままだと、皆に何を言われるか分からない」
からかうような口調に、セレスはますます顔を赤くしながらも、大人しくついていった。
バルコニーに出ると、夜風がドレスの裾を揺らした。会場の喧騒が、扉一枚隔てただけで、ぐっと遠くなる。
星が、思っていたよりずっと近くにあるように見えた。
「……綺麗」
思わず零れた呟きに、ディーンが隣で振り返る。
「星も、綺麗だな」
「うん」
「でも」
ディーンは、セレスの顔をじっと見つめた。
「今夜は、それより綺麗なものが目の前にある」
「な……そういうの、不意打ちはずるい」
慌てるセレスに、ディーンはくすりと笑った。風で乱れた後れ毛を、指先がそっとすくう。
耳に、髪をかける。
その手が、頬のすぐそばを通り過ぎた。
触れるか触れないかの距離で、指先が止まる。
沈黙。
夜風の音だけが、二人の間を満たしていた。ディーンの瞳が、街灯りを映してかすかに揺れている。
呼吸が、浅くなる。
セレスは、思わず目を伏せた。伏せた拍子に、睫毛が震える。
「……緊張してる?」
低い声が、すぐ近くで聞こえた。
「してな……」
言い切る前に、ディーンの指が、そっとセレスの顎に触れた。
上を向かされる。
近づいてくる距離に、セレスは思わず目を閉じた。
柔らかいものが、唇に触れる。
一瞬。それだけのはずなのに、時間の感覚がおかしくなる。ディーンの手が、セレスの後頭部に回り、逃がさないというように、けれど壊れ物を扱うように優しく支えた。
角度を変えて、もう一度。
さっきより、少しだけ深く。吐息が混じり合って、頭の芯が痺れるようだった。
どちらの鼓動か分からないくらい、心臓の音が大きく響いている。
離れ際、ディーンの唇が名残惜しそうに、もう一度だけ触れた。
「……ん」
小さく漏れた声に、ディーンが目を細める。
至近距離で見つめられて、セレスは息をするのも忘れそうになった。
「今夜は、これくらいにしておく」
掠れた声で、ディーンが囁いた。額同士を、こつんと合わせたまま。
「これくらいって……」
「本当は、もっと触れたい。もっと、近くにいたい」
熱を帯びた声が、鼓膜を直接揺らすように響く。
「けど、今そこまでしたら、君を困らせる。だから——我慢、してるんだよ」
その言葉に、セレスの心臓が、痛いくらいに跳ねた。余裕なさそうに、けれど必死に自分を抑えているディーンの表情。いつも涼しい顔をしている彼の、こんな一面を知っているのは、きっと自分だけだ。
「……ずるい」
「なにが」
「そんな顔、見せられたら、私も……」
言葉にできず、セレスはディーンの胸元に、そっと額を押しつけた。ディーンは小さく笑って、その背をゆっくりと抱き寄せる。
「その台詞は、反則だ」
「言ったの、ディーンだよ」
「分かってる。……だから、余計に我慢が利かなくなる」
そう呟いた声には、隠しきれない甘さと、ぎりぎりのところで踏みとどまっている緊張が、同時ににじんでいた。
星明かりの下、寄り添う二人の輪郭が、静かに滲んでいた。まるで、そこだけ切り取られた一枚の絵のように。
その光景を、バルコニーの扉の陰から見つめている者がいた。
イザベラだった。扇で口元を隠しながらも、その目だけは、二人から一瞬たりとも離れない。額を寄せ合う二人の距離、絡み合う視線、囁き交わす声——そのすべてが、彼女の胸に細い針のように刺さっていく。
「……どうして」
誰にも聞こえない声で、イザベラは呟いた。
夜会がお開きになった後も、イザベラは屋敷に戻らなかった。馬車を待たせたまま、供も連れずに、王都の外れへと向かう。今夜見た光景が、彼女の中の何かを決定づけていた。




