第88話 引き返す理由
倒れた狼型魔物の周囲には、爪で削られた土と血が残っていた。
ノアがセイルの胸元へ布を当て、傷口を確認する。爪は学院服を裂いていたが、傷は浅い。出血もすでに弱まっていた。
「痛みは?」
「少しある。でも、腕も動くし、歩ける」
セイルが右腕を回す。
動きに不自然なところはなかったが、服の下には赤い線が3本残っている。
担任は傷口を確認したあと、レオンたちを見回した。
「これからどうする?」
「野営地へ戻るべきだと思います」
レオンは答えた。
ガルドが西側の森へ目を向ける。
「逃げた1体は追わなくていいのか?」
「追わない。負傷者が出たうえに、森の奥に何がいるのか分からない。道標の確認と魔力測定は終わってる」
「セイルは歩けるぞ」
「今はな。傷が深くなる可能性もある」
セイルが何か言おうとしたが、胸元の布を見て口を閉じた。
レオンは地図を開いた。
予定された調査範囲は、地上へ露出した道標までだった。西側の森へ進めば、任務の範囲を外れる。
「確認できたことを持ち帰る。森の奥へ入るなら、今回の記録を提出して、許可と装備を揃えてからだ」
担任はすぐには答えなかった。
「目的地へ到着し、測定も終わった。負傷者が1人。正体の分からない危険が西側にある可能性。続けて得られる情報より、増える危険の方が大きい。そういう判断か?」
「はい」
「なら戻る。撤退準備をしろ」
ガルドはまだ森の奥を気にしていたが、盾を背負い直した。
ユリアとミナは周囲の警戒を続け、ノアはセイルの傷を固定する。レオンは倒れた魔物の状態を記録した。
全長、肩までの高さ、牙と爪の長さ。
学院の資料と比較できるよう、右手から短いゼロスレッドを伸ばして測っていく。
以前からあった背中の傷は、爪や牙によるものに見えた。ただし、傷をつけた相手までは分からない。
腹部は痩せ、肋骨の形が浮いている。口の周囲に付着した血の多くは、追っていた牙猪のものだった。
「この魔物、ずっと食べてなかったのかな」
ノアが離れた位置から身体を見る。
「痩せてはいる。でも、いつから食べていないかまでは判断できない」
レオンは確認できた特徴だけを書いた。
担任が倒れた魔物の足元を指す。
「足跡も残せ」
土には、西から東へ続く足跡があった。
森の中を探るように曲がった形ではなく、ほぼ一直線に続いている。追跡していた牙猪の足跡も同じ方向だった。
セイルが周囲を見回す。
「最初から牙猪を追っていたなら、もっと足跡が乱れそうだけどな」
「途中で見つけたのかもしれないわ」
ユリアが答える。
「西から移動している途中で獲物を見つけ、そのまま追ってきた。今の足跡だけなら、その可能性もあるわね」
魔物が何かから逃げていたのか。
餌を求めて移動していただけなのか。
傷を負った原因と移動の理由は、まだ結びつけられない。
記録を終えた一行は、来た道を戻り始めた。
セイルは自分で歩いたが、先頭から中央へ移動する。代わりにユリアが前方を確認し、ガルドがすぐ後ろについた。
森の西側からは、何度か枝が擦れる音が聞こえた。
しかし、新たな魔物は現れなかった。
野営地へ戻った時には、日が傾き始めていた。
地中から見つかった境界標らしき石に変化はなく、周囲の目印も動いていない。
ミナが石の近くへ立ち、魔力の流れを確認する。
「朝と同じ。石からは何も出てない」
「今日はもう測らない」
担任が言った。
「天幕を片づける。日が沈む前に森を出るぞ」
「ここで、もう1泊する予定では?」
ノアが尋ねる。
「予定を変更する。セイルの傷を森の外で確認し直す。未知の危険がある可能性を把握したまま、同じ場所に留まる理由もない」
6人は天幕を畳み、荷物を分けた。
セイルには軽い荷物だけを持たせ、残りをガルドとレオンが引き受ける。
野営地を離れる前に、レオンは露出した石を振り返った。
魔力測定の数値は安定範囲内。
石そのものからも、異常な反応は確認されていない。
それでも、その周辺では学院の生息記録にない魔物が現れた可能性がある。
数字だけを見れば異常はない。
現地で起きた出来事まで含めれば、そうは言い切れなかった。
森の手前まで戻った頃には、空が赤く染まっていた。
残していた幌馬車へ荷物を積み、担任がセイルの傷をもう一度確認する。
「出血は止まっている。今夜は森の外で休み、明日の朝に学院へ戻る」
「任務は失敗ですか?」
ノアが尋ねた。
担任は記録用紙を受け取り、目を通した。
「指定された道標を確認し、魔力を測定し、地形と魔物を記録した。危険が増えた時点で撤退し、全員が戻った。何を失敗したと思っている?」
「予定していた日数より、早く戻ったので」
「予定どおり森に残り、負傷者を増やす方が失敗だ」
担任は記録用紙をレオンへ返した。
「ただし、撤退した理由を証明できなければ、怖くなって逃げただけと判断される。見たものを正確に書け」
焚き火を起こしたあと、レオンたちは学院から渡された魔物生息表を広げた。
北東森林で過去に確認された魔物が、危険度とともに並んでいる。
牙猪型の魔物は記載されていた。
遭遇数は少なく、通常は人間を避けるとある。
レオンは次の欄へ指を滑らせた。
しかし、今日戦った大型の狼型魔物に該当する記録は見つからない。
「別の種類として載ってるんじゃない?」
ミナが尋ねる。
「似た特徴の魔物も確認しよう」
全員で資料を調べたが、肩まで届く大型の狼型魔物も、2体以上で行動する近い種類も記載されていなかった。
生息表の末尾には、前回の調査結果が記されている。
大型狼型魔物――生息確認なし。
レオンは今日の記録用紙を、その横へ置いた。
学院の資料に書かれた魔力濃度は、現地で測った数値と一致していた。
魔物の記録は、一致していなかった。
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