第86話 道標が向く先
野営地の石を記録したあと、レオンたちは森林の奥へ向かった。
目的地は、事前調査で確認されている1基目の道標だ。現在の地図では野営地から歩いて40分ほどの位置にあり、魔力測定地点の1つにも指定されている。
先頭を歩くセイルが、地面へ残された窪みを確認する。
「こっちで合ってる。古い轍が続いてる」
轍は木の根や落ち葉に隠れながらも、ほぼ一定の幅を保っていた。
荷車が通れるほど明確な道ではない。しかし、獣が何度も歩いただけでできた跡とも違っている。
「現在の地図には、この道は描かれていないわ」
ユリアが周囲の地形と地図を見比べる。
「測定地点までの経路は、もう少し東側になっている」
「そっちを通りますか?」
ノアが尋ねる。
担任は、セイルが見つけた轍の先を見る。
「予定された経路から大きく外れてはいない。歩けるうちは、このまま進む。ただし、古い道が目的地へ続いていると決めつけるな」
レオンは現在地を記録した。
轍を追う理由は、古い地図に道が描かれているからではない。今の地形でも安全に歩けると確認できているからだ。
しばらく進むと、セイルが片手を上げた。
全員が足を止める。
前方の茂みから、荒い呼吸音が聞こえていた。
葉の隙間に見えたのは、小型の牙猪型の魔物だった。背中の毛は泥と血で固まり、後ろ脚を引きずっている。
「怪我をしてる」
ノアが声を落とす。
魔物はレオンたちに気づくと、逃げようとして身体の向きを変えた。
しかし、背後には倒木があり、左右は人間に塞がれている。牙猪は低く唸り、頭を下げた。
「道を空ける」
レオンが言う。
「右側へ寄れ。追い詰めるな」
6人が移動を始めた瞬間、牙猪が地面を蹴った。
空いた方向ではなく、最も近くにいたノアへ突進する。
ガルドが前へ出た。
牙が盾へぶつかり、鈍い音が森へ響く。傷ついているとは思えない力だった。ガルドの足が土の上を滑る。
「思ったより重いぞ!」
「倒さないで。逃げ道を作るわ」
ユリアが牙猪の左側へ薄い氷を広げた。
足場を完全に凍らせるのではなく、踏み込みにくい程度に滑らせる。牙猪が体勢を崩し、再び頭を振った。
レオンは左手からゼロスレッドを伸ばした。
前脚へ絡めれば動きを止められる。しかし、傷ついた脚を無理に引けば、さらに損傷させる可能性がある。
糸を前脚ではなく、牙の付け根へ巻きつける。
同時に右手から短い糸を伸ばし、近くの木の幹へ固定した。
左右から魔法を発動した瞬間、意識が分かれた。
左手の糸が僅かに緩み、右手の糸は太さが不揃いになる。
牙猪が首を振った。
右手の糸が切れる。
それでも、切れるまでの一瞬だけ身体を支えられた。
レオンは左手の糸を横へ引き、牙猪の頭をノアから逸らす。
「今だ!」
セイルが風を使い、倒木の上へ飛び乗った。進路を塞いでいた枝を木剣で払い、森の奥へ抜ける隙間を作る。
ガルドが盾を引き、ノアとユリアが左右へ離れた。
牙猪は人のいない方向を見つけると、そのまま茂みへ駆け込んだ。
引きずっていた後ろ脚が枝に触れ、血の跡を残す。やがて荒い呼吸音も聞こえなくなった。
「追わないのか?」
ガルドが尋ねる。
「今回の任務は討伐じゃない」
レオンは左手の糸を消した。
右肩には軽い熱が残っている。左右同時に糸を使えたのは短い時間だけで、右手側は自分の意思より先に切れていた。
担任が牙猪の消えた方向を確認する。
「今の状況を、報告書へどう書く?」
「負傷した牙猪型の魔物を1体確認」
ミナが答える。
「最初は逃げようとしたけど、進路を塞がれて攻撃してきた」
「怪我の原因は不明です」
ノアが血の付いた枝を見た。
「背中に傷がありました。でも、何に襲われたのかまでは分かりません」
「それでいい。見ていないものを付け足すな」
レオンは時刻、位置、魔物の状態、逃げた方向を記録した。
魔物が人を襲うために現れたのか、別の場所から逃げてきたのかは判断できない。
今分かるのは、怪我をした1体と遭遇したという事実だけだった。
移動を再開してから約20分後、森の中に灰色の石柱が見えた。
高さはレオンの腰ほどで、上部が斜めに欠けている。周囲には草が伸びていたが、石柱そのものは地上へ露出していた。
「これが、報告にあった道標か」
ガルドが近づこうとする。
「先に周囲を確認して」
ユリアが止めた。
セイルが石柱の裏側へ回り、ノアが地面の状態を調べる。ミナは少し離れた位置から魔力の流れを見た。
危険な反応がないことを確かめてから、レオンたちは石柱を調査した。
表面には、野営地の下で見つけた石と同じような浅い溝が刻まれている。
欠けた部分や苔の付き方から見ても、最近置かれたものではない。
担任が魔力測定器を設置した。
針は揺れたあと、安定範囲内で止まる。
「下へ流れてる?」
レオンがミナへ尋ねる。
「流れてない。昨日の石とは違う」
同じ形の石だからといって、同じ現象が起きるわけではなかった。
野営地で確認した魔力移動が、境界標そのものの性質だとはまだ言えない。
レオンは右手から短いゼロスレッドを出し、石柱の高さと幅を測った。
糸を裏側へ沿わせた時、苔に覆われた細い溝へ触れる。
「こっちにも何か刻まれてる」
苔を傷つけないよう、ガルドが手袋で表面の枯れ葉だけを払う。
現れたのは、石柱の裏側から斜め下へ伸びる1本の溝だった。
「矢印みたいだな」
セイルが溝の向きを見る。
「今の道とは、違う方向を向いてる」
石柱の正面は、現在使用されている測定経路へ向いている。
だが、裏側の溝が示しているのは、木々が密集した森林の西側だった。
レオンは古い地図を開いた。
消えた道は、石柱の裏側から西へ伸びている。
「古い道の方向と合ってる」
ガルドが木々の奥を見る。
「少しだけ確認するか?」
「行かない」
レオンは地図を閉じた。
「予定された調査範囲から外れる。位置と向きだけ記録して、学院へ持ち帰る」
知りたいという理由だけで班を危険へ連れていくことはできない。
森の奥に何があるのかは、まだ分からない。許可を得て装備を整えてから調べるべきだった。
レオンは石柱の向きを記録した。
その横に、牙猪が逃げていった方向も書き加える。
2本の線は、地図の上でほとんど同じ方角を指していた。
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