第71話 空白に残る筆跡
回収が失敗してから3日後。
レオンたちは、管理棟の地下保管室へ集められていた。
部屋の中央には、あの夜に回収された黒い箱が置かれている。
人間を収めるための座席と金属環は外され、床を移動していた部分も分解されていた。
クラリスは、外された円形の部品を机へ置く。
「最初に、訂正しておくことがあるわ」
金属の輪には、車軸も動力用の歯車も付いていなかった。
表面には細い術式が刻まれ、床下に残された魔力の流れへ反応する構造になっている。
「これは、現在使われている馬車や荷車のような乗り物ではない。車輪に見えた部分も、地面を転がるためのものではなかった」
「では、どうやって動いていたんですか?」
ユリアが尋ねる。
「床の魔力経路へ自らを固定し、その流れに沿って滑っていたのよ。学院の古い記録では《搬送架》と呼ばれている」
「誰かが押したわけでも、操っていたわけでもない?」
セイルが黒い箱を見る。
「命令を受けたあと、残された術式が決められた経路を進んだ。少なくとも、あの場で操作していた人間はいないわ」
現在の学院では再現できない仕組みだった。
魔力を流せば動く魔導具とは違う。
床、壁、搬送架のすべてが、最初から1つの設備として作られている。
「学院が建てられたときからあったのか?」
ガルドが尋ねる。
「正確には分からない」
ローガンが答えた。
「学院の最古の建築記録にも、この設備を作った記載がない。少なくとも、現在の学院が管理を始めるより前から存在していた可能性が高い」
「超古い魔導具ってことか」
「そう考えていい。ただし、何のために作られたかまでは決めつけるな」
人間を運ぶ箱。
身体を固定する金属環。
第0区画へ続く経路。
目的は見えている。
だが、それが最初から生徒の回収に使われていたとは限らない。
古い設備を、第0研究室が別の用途へ使っている可能性もあった。
「搬送架そのものから、過去の対象について分かることはないんですか?」
ノアが尋ねた。
黒い箱の内側には、多くの傷が残っている。
しかし、誰が乗せられたのかを示す名前や番号は消されていた。
クラリスは、机の上にある古い帳簿へ視線を移す。
「だから、こちらを調べる」
学院の在籍記録。
寮の部屋割り。
食堂の配給数。
授業の出席簿。
現在の魔力記録ではなく、紙に残されたものだった。
「レオンとリゼットの記録が消されたときも、紙に書かれた名前は残った。過去にも同じことがあったなら、どこかに痕跡があるかもしれない」
調べる期間は、直近の30年間。
すべての帳簿を読むには量が多すぎる。
そこで、最初に人数の変化だけを追うことになった。
入学者数。
学年ごとの在籍者数。
退学者と転校者。
寮と食堂で使用された人数。
正規の退学であれば、理由や日付が残る。
病気や家庭の事情で学院を離れた場合も、少なくとも在籍終了の手続きは記録されている。
探すのは、理由なく人数だけが減っている場所だった。
「俺たちも調べていいのか?」
ガルドが帳簿を持ち上げる。
「持ち出しは禁止。破損させた場合は弁償では済まない」
ローガンが答える。
「分かった。丁寧に扱う」
「その帳簿は上下が逆だ」
「先に言ってくれよ!」
ガルドは慌てて持ち直した。
6人は、年代ごとに帳簿を分けた。
レオンとセイルが在籍者数。
ユリアとガルドが寮の部屋割り。
ノアが食堂の配給記録。
ミナは帳簿に残る魔力の跡を確認する。
リゼットはSクラスを含む上位クラスの出席簿を調べた。
最初の1時間は、何も見つからなかった。
退学者には理由がある。
転校者には受け入れ先が書かれている。
死亡した生徒についても、治療記録と家族への引き渡しが残っていた。
過去の回収記録にあったような、不自然な空白はない。
「本当に消されているなら、紙も処分されたんじゃないか?」
セイルがページをめくる。
「全部消せていたなら、搬送架の記録も残っていない」
レオンは別の帳簿を開いた。
「残す必要がないと思われた記録があるはずだ」
「食事の数までは確認しなかったとか?」
「ああ」
ノアは配給記録の数字を追っていた。
食堂では、毎朝その日に必要な食材の量を決める。
生徒が退学しても、すぐに配給数が変わるとは限らない。
数日間は古い人数のまま準備され、その後に修正される。
「ここ」
ノアが1冊の帳簿を机へ置いた。
18年前の冬。
ある日を境に、夕食の配給数が2人分減っている。
前日までは642人分。
翌日から640人分。
だが、その時期の正式な退学者は1人もいなかった。
「2人とも休んでいただけでは?」
ユリアが尋ねる。
「1日なら。でも、そこから年度末まで戻っていない」
ノアは数字の横を指した。
配給数を変更した理由を書く欄がある。
そこには何も書かれていなかった。
「寮の記録を確認する」
ガルドとユリアが、同じ年の部屋割りを探す。
男子寮で1室。
女子寮で1室。
同じ日から空室になっていた。
名前の欄には、黒い線が引かれている。
「退寮した生徒なら、移動先が書かれるはずよ」
ユリアが別のページと比較する。
「この2人だけ、何もない」
「名前は読めないのか?」
ガルドが黒い線へ顔を近づける。
「墨が厚すぎる」
「待って」
ミナが帳簿の上へ手をかざした。
「黒いところだけ、流れが違う」
「魔法で消された?」
レオンが尋ねる。
「墨の下に、まだ残ってる。でも、文字までは見えない」
ノアが小さな水球を作った。
「水を使えば、紙が傷む」
ローガンが止める。
「直接は触れさせません」
ノアは水球を薄く広げた。
紙から指1本分離れた場所に、水の膜を浮かせる。
帳簿の表面から反射した光が、水の膜で歪む。
墨で塗られた部分に、僅かな凹凸が浮かび上がった。
文字を書いたとき、筆先が紙へ残した跡だった。
「前は、こんなことできなかっただろ」
セイルが水の膜を見る。
「水滴で動きを読む訓練をしていたからな。薄さを保つだけなら、前より長くできる」
「読める?」
レオンが尋ねる。
「全部は無理だ。墨を塗るときにも紙がへこんでる」
それでも、名前の下に書かれていた文字の一部が見えた。
Cクラス。
31位。
もう1人は、Sクラス。
順位の記載はない。
レオンとリゼットは顔を見合わせた。
異なるクラスの2人。
同じ日に名前を消され、寮と食堂の記録からも外されている。
「在籍簿は?」
リゼットが尋ねた。
レオンとセイルは、同じ日付の記録を探す。
Cクラスの人数は59人。
だが、順位欄は60位まで存在していた。
31位だけが空白になっている。
その下の生徒を繰り上げた形跡もない。
Sクラスの名簿にも1人分の空白があった。
「今の俺たちと同じだ」
レオンが言った。
名前だけが消えている。
順位と、その人物がいた場所は残っている。
正規に退学したのではない。
学院の中から、存在していた記録だけを抜き取られていた。
「ほかの年も調べる」
クラリスが帳簿を追加する。
似た空白は、1つだけではなかった。
21年前。
男子寮と女子寮から、同じ日に1人ずつ消えている。
14年前にも、2人分の配給が理由なく減っていた。
ただし、その年の在籍簿は一部が失われている。
9年前は1人だけ。
もう1人分の空白があったのかは、帳簿が欠けていて確認できなかった。
人数も、選ばれたクラスも一定ではない。
共通しているのは、冬。
そして、学院生活が半年を過ぎた時期だった。
「俺たちと同じ頃だな」
ガルドが言う。
「偶然とは考えにくいわ」
リゼットは18年前のSクラス名簿を見る。
黒く塗り潰された名前。
空いたままの席。
その人物が何を得意としていたのか。
なぜ選ばれたのか。
残された記録からは分からない。
「第0区画へ運ばれた人たちですか?」
ミナが尋ねる。
「可能性は高い。でも、まだ同一人物だとは断定できない」
クラリスが答えた。
「回収記録には名前がない。在籍記録には回収先がない。2つを直接つなぐものが必要よ」
そのとき、ミナが帳簿から手を離した。
「流れが変わった」
「どこだ?」
レオンが周囲を見る。
「床」
地下保管室の床へ、淡い光が広がる。
帳簿を置いた机の下。
石板の継ぎ目に沿って、細い術式が浮かび上がった。
クラリスが杖を構える。
「全員、帳簿から離れて!」
机の上に積まれていた紙が震える。
風はない。
それでも、ページが1枚ずつ勝手にめくれていく。
黒く塗られた名前がある場所で止まった。
紙の表面から、文字が薄くなり始める。
「記録を消してる!」
ガルドが帳簿へ手を伸ばす。
「素手で触るな!」
ローガンが止めた。
墨だけではない。
紙そのものが白く変わっている。
先ほどまで残っていた人数も、順位も消えようとしていた。
床の術式が、特定の記録に反応している。
「帳簿を机から下ろす!」
レオンはゼロスレッドを伸ばした。
1冊目を床へ引く。
2冊目も机の端から落とす。
だが、3冊目へ糸を伸ばした瞬間、左手に熱が走った。
床の術式が、ゼロスレッドを通してレオンの魔力へ触れている。
糸の動きが鈍る。
「レオン、無理に全部やるな!」
ガルドが机の脚を持ち上げた。
術式が浮かんでいる床から、机ごと離そうとしている。
重い木製の机が傾く。
帳簿が滑り落ちそうになる。
セイルが風を使い、落ちる紙を壁際へ押し戻した。
「右側を支える!」
「俺が持つ!」
「持ちながら周りも見ろ!」
床の別の場所にも光が広がる。
ユリアが杖を向けた。
机の下だけを薄く凍らせる。
冷えた石板の上で、術式の光が弱くなった。
「消える速度が落ちたわ」
「止まってはいない」
ミナが言う。
「光が集まる場所がある。部屋の奥、4つ目の石板」
ローガンが走る。
剣を石板の隙間へ差し込んだ。
持ち上がらない。
「固定されている」
「熱で広げます」
リゼットが炎を細く絞る。
石板全体は焼かない。
剣が入っている隙間だけを熱し、僅かに広げる。
ローガンが剣をひねった。
石板が浮く。
下にあったのは、現在の魔導具では使われていない古い術式盤だった。
黒い石の表面を、何重もの文字が覆っている。
「壊していいんですか?」
セイルが尋ねる。
「記録を消す機能だけを止める」
クラリスが術式盤を見る。
「中心の魔石へ直接触れれば、ほかの設備まで動く可能性がある」
「どこを切ればいい?」
ガルドが机を支えながら叫ぶ。
ミナが術式盤を指した。
「左から3本目。そこだけ帳簿へ伸びてる」
「レオン!」
ローガンが呼ぶ。
レオンは左手を開いた。
先ほど床へ触れた糸は消している。
今度は1本だけ。
ミナが示した細い術式へ、ゼロスレッドを伸ばす。
切断するのではない。
術式の流れを横へ引き、空いている線へつなぐ。
魔力が別の場所へ逃げる。
帳簿から文字が消える動きが止まった。
「今よ」
クラリスが杖を振る。
風が術式盤の表面を走り、浮かび上がっていた文字を1つずつ遮断する。
床の光が消えた。
地下保管室が静かになる。
ガルドが机を下ろす。
セイルも風を止めた。
消されかけた帳簿には、白く抜けた部分が残っていた。
すべてを守れたわけではない。
18年前のCクラス名簿からは、順位の一部が消えている。
Sクラスの出席記録も、黒く塗られていた名前の周囲が読めなくなった。
それでも、ノアが水の膜で見つけた筆跡は、別の紙へ写してある。
配給数と寮の人数も残った。
「最初から、この部屋に記録を消す術式があったのか?」
ガルドが床を見る。
「特定の記録が開かれたときに動くよう、組まれていた可能性がある」
クラリスは古い術式盤を布で覆った。
「現在の学院で使われている術式とは、書き方が違う。搬送架と同じ系統かもしれない」
「学院ができる前からあった?」
ユリアが尋ねる。
「まだ断定はできないわ。ただ、現在の教師や職員が即座に作れるものではない」
誰かが今、この部屋の外から命令したわけではない。
古い仕組みが、条件を満たしたことで動いた。
過去の対象を調べる者が現れたとき、残された記録を消すために。
ノアは床へ落ちた1枚の紙を拾った。
「これは、さっきの帳簿に挟まっていた」
正式な記録用紙ではない。
小さく折られた、古い紙片だった。
表面の大部分は白くなっている。
それでも、端に書かれた文章が僅かに残っていた。
『2名の在籍終了を確認』
その下には、別の筆跡がある。
急いで書かれたように文字が乱れていた。
『退学ではない。夜の授業まで、確かに2人はいた』
リゼットが紙片を受け取る。
「誰かが、消されたことに気づいていた」
「名前は?」
レオンが尋ねる。
「書いた人の名前も、2人の名前もないわ」
紙片の裏側には、さらに短い記録が残っていた。
『回収命令2名』
その次の行は半分消えている。
読めるのは、最後の部分だけだった。
『固定完了――1』
2人が回収対象になった。
だが、固定されたのは1人だけ。
「もう1人は?」
ガルドが尋ねる。
その答えは、紙片には残っていない。
搬送されたのか。
逃げたのか。
別の方法で連れていかれたのか。
何も分からない。
ただ、過去の回収がすべて成功していたわけではなかった。
18年前。
学院から名前を消された2人のうち、少なくとも1人は、黒い箱へ固定されなかった。
レオンは、消えかけた筆跡を見る。
過去の誰かも、用意された回収を拒んでいた。
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