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第6話 火の令嬢と無属性

街道の先から、黒い煙が上がっている。


レオンは道の端へ移動し、腰を落とした。


金属がぶつかる音。馬のいななき。男たちの怒鳴り声。


距離はまだある。姿は見えないが、少なくとも一人や二人の争いではなかった。


王都へ向かうなら、街道を進む必要がある。しかし、危険だと分かっている場所へ正面から入る理由もない。


レオンは街道を外れ、森の中へ入った。


戦いに加わるためではない。何が起きているのか、確認するためだ。


危険が大きければ迂回する。自分の目的は、王立魔法学院の試験を受けること。ここで負傷し、王都へたどり着けなくなれば意味がない。


木々の間を進む。


足音を抑え、煙の上がる方向へ近づく。


やがて、街道の様子が見えてきた。


横倒しになった馬車。倒れた二頭の馬。剣を持った男が五人。馬車を守るように立つ護衛が二人。


どちらも傷を負っている。


さらに、馬車の前にはレオンと同じ年頃の少女が立っていた。


鮮やかな赤い髪。汚れのない白い外套。腰には細身の剣を下げている。


平民ではない。


服装だけで、それが分かる。


少女の後ろには、年老いた御者と、侍女らしき女性が倒れていた。


「しつこい人たちね」


少女が右手を上げる。


その手のひらに、赤い魔力が集まった。


火属性魔法(フラムボルト)!」


炎の塊が放たれる。


正面にいた男が横へ跳んだ。炎は地面へ直撃し、乾いた土を黒く焦がす。


外れた。


だが、狙いが悪かったわけではない。


男が避ける直前、別の男が少女へ向かって水を放っていた。


水属性魔法(アクアバレット)!」


水の弾丸が炎へ衝突する。勢いを失った炎が、白い蒸気へ変わった。


水は火に強い。


属性相性によって、少女の攻撃が抑えられている。


「お嬢様、後ろへ!」


護衛の一人が叫んだ。


少女は動かない。


「私が下がれば、あなたたちが死ぬでしょう」


「ですが!」


「それに、あの程度の水魔法に負けるつもりはないわ」


強がりではない。少女の呼吸は整っている。魔力量にも余裕がある。


しかし、状況は悪かった。


水属性の男だけではない。残りの四人が、少女を囲むように位置を変えている。


正面へ火魔法を放てば、左右から近づかれる。左右を警戒すれば、水魔法で攻撃を消される。


護衛は負傷している。馬車も動かない。


相手は少女を殺すのではなく、生け捕りにしようとしていた。


「アルヴァ家のお嬢様」


水属性の男が笑った。


「これ以上暴れるなら、後ろの連中から殺すぞ」


少女の表情が変わる。


「卑怯者」


「何とでも言え。貴族のお嬢様なら、いい金になる」


レオンは木の陰から、男たちを観察した。


盗賊だろう。装備は統一されていない。動きにも差がある。


水属性の男が中心。残りの四人は、その指示に従っている。


逃げるなら、今だった。


盗賊たちは少女たちに集中している。森の中を通れば、気づかれずに先へ進める。


レオンは街道の先へ視線を向けた。


ここを離れる。


そう決め、身体を動かしかけたときだった。


「お嬢様……お逃げください……」


倒れていた御者が、かすれた声を出した。


老人の腹部から血が流れている。早く手当てをしなければ助からない。


少女は御者を守るように立ち、盗賊たちから目を離さなかった。


「全員で王都へ行くのよ」


「ですが……」


「私だけ逃げて、何になるの」


レオンの足が止まった。


自分には関係がない。ここで助けに入る義務もない。


少女が貴族なら、レオンよりも多くのものを持っている。


優れた属性。高価な服。護衛。馬車。


助けられる側の人間だ。


それでも。


負傷した者を置いて、自分だけ逃げようとはしていない。


前世の記憶が浮かんだ。


暴走する機械。逃げる作業員たち。動けずにいた後輩。


あのとき、直人は考えるより先に走っていた。


今度の人生では、自分のために生きる。誰かの失敗を背負うつもりはない。


だが。


目の前で死ぬと分かっている人間を、何もせず見捨てることもできなかった。


「……また、損な選択をしているな」


レオンは小さく息を吐いた。


腰の帳面を取り出し、街道の状況を簡単に書き込む。


『盗賊五人』


『水属性一人』


『剣四人』


『護衛二人負傷』


『馬車使用不能』


帳面を閉じる。


勝つ必要はない。全員を倒す必要もない。


少女たちが逃げる時間を作ればいい。


レオンは街道脇の木々を見る。


乾いた枝。頭上に垂れた太い蔓。横倒しになった馬車。馬車の後方には、積み荷を固定するための縄が落ちている。


使えるものは多い。


問題は、自分の姿をどこまで見せるか。


学院へ着く前から、無属性魔法を目立たせたくはない。


レオンは外套の頭巾を深くかぶった。


「そろそろ諦めろ」


水属性の男が少女へ杖を向ける。


「殺しはしない。大人しく来れば、後ろの連中も助けてやる」


「盗賊の言葉を信じろと?」


「信じなくても結果は同じだ」


男が杖を振る。


水の弾丸が放たれた。


少女は右手を前へ出す。


火属性魔法(フラムシールド)!」


炎の壁が現れる。


水と火が衝突し、大量の蒸気が広がった。視界が白く染まる。


盗賊たちが動いた。


左右から二人。正面から一人。


少女は剣を抜く。


だが、蒸気で相手の位置が見えていない。


レオンは左手を上げた。


「ゼロエッジ」


透明な糸が、木の枝へ伸びる。


切断。


太い枝が街道へ落ちた。


「何だ!?」


右から近づいていた盗賊の前へ、枝が落下する。男が足を止めた。


レオンは次の糸を伸ばす。


地面に落ちている縄。


一端を引き寄せ、街道を挟んだ反対側の木へ絡ませる。


地面すれすれ。


盗賊からは見えない高さ。


左側から走ってきた男の足が、縄に引っかかった。


「うわっ!」


男が前のめりに倒れる。顔面を地面へ打ちつけ、剣を手放した。


「誰かいるぞ!」


水属性の男が森へ杖を向けた。


レオンはすでに移動していた。


同じ場所には留まらない。


木々の間を走り、盗賊たちの背後へ回る。


一般(コモン)(クラス)歩法(フットワーク)


地面の凹凸。木の根の位置。足を置く場所を選び、音を抑える。


蒸気が薄くなる。


少女の姿が見えた。


剣を持った盗賊と斬り合っている。


少女の動きは悪くない。だが、魔法使いとして訓練を受けてきたのだろう。剣の扱いは、相手より劣っている。


盗賊の剣が少女の肩へ迫る。


レオンは糸を伸ばした。


狙うのは腕ではない。


剣の柄。


糸を巻きつけ、横へ引く。


「なっ!」


盗賊の剣筋がずれた。


刃は少女の肩を外れ、外套だけを切り裂く。


少女は驚きながらも動きを止めなかった。


「フラムボルト!」


至近距離から放たれた炎が、盗賊の胸へ直撃する。


男は悲鳴を上げ、地面を転がった。


残り三人。


そのうち一人は、縄に引っかかって倒れている。


実際に動けるのは二人。


水属性の男が森を見回す。


「姿を見せろ!」


レオンは答えない。


男の杖の先へ、青い魔力が集まっている。


少女を狙っていない。森全体へ攻撃するつもりだ。


水属性魔法(アクアスプレッド)!」


無数の水弾が扇状に放たれた。


木の葉が弾ける。枝が折れる。


レオンは幹の後ろへ身体を隠した。


水弾が木へぶつかり、幹を浅く削った。


威力は高くない。だが、範囲が広い。


もう一度撃たれれば、位置を隠し続けるのは難しい。


レオンは男の杖を観察した。


水魔法を使うたび、先端に埋め込まれた青い魔石が輝いている。


魔法の補助具。


杖を失えば、同じ速度では魔法を使えなくなる。


男が次の魔法を準備する。


レオンは木の陰から、左手だけを出した。


「ゼロスレッド」


透明な糸を伸ばす。


狙いは杖。


だが、距離がある。直接奪うほどの力は出せない。


ならば。


レオンは糸を杖の先端ではなく、男の小指へ巻きつけた。


強く引く。


「痛っ!」


男の手がわずかに開く。


それだけでは、杖を落とさない。


レオンは別の糸を伸ばした。


男の足元。


先ほど水魔法によって濡れた土。


透明な糸を地面すれすれに張る。


さらに、小さな石へ糸を巻きつける。


男の背後へ投げる。


石が音を立てた。


「そこか!」


男が振り向き、杖を向ける。


一歩踏み出す。


足が糸に引っかかった。


濡れた地面で足を滑らせ、身体が大きく傾く。杖を持つ腕が上がった。


レオンは待っていた。


透明な糸を杖へ巻きつける。


引く。


今度は、男の手から杖が離れた。


杖が街道を滑り、少女の足元へ転がる。


少女は一瞬だけ杖を見た。


すぐに細身の剣を振り下ろす。


青い魔石が砕けた。


「き、貴様!」


水属性の男が顔を歪める。


少女の手のひらに、赤い魔力が集まった。


「今度は消せないでしょう」


「待て!」


「フラムランス!」


槍の形をした炎が放たれる。


男は横へ跳ぼうとした。だが、濡れた地面に足を取られる。


炎の槍は、男のすぐ横へ突き刺さった。


街道が爆ぜ、土と炎が舞い上がる。


直撃はしていない。


少女がわざと外したのだ。


それでも、男の顔から血の気が引いていた。


「次は当てるわ」


少女が告げる。


水属性の男は周囲を見る。


一人は胸を焼かれ、動けない。一人は顔を打ち、倒れている。残る一人も護衛と向かい合い、動きを止めていた。


勝てないと判断したのだろう。


「退くぞ!」


男が森へ向かって走り出す。


残った盗賊も、仲間を置いたまま後に続いた。


少女が追おうとする。


「お嬢様!」


護衛に呼び止められ、足を止めた。


倒れている御者の方が先だと気づいたのだろう。


「傷を見せて!」


少女が御者のもとへ駆け寄る。


レオンは木の陰から、その様子を見ていた。


盗賊は去った。


これ以上、ここにいる理由はない。


姿を見られる前に離れる。


レオンが後ろへ下がろうとしたとき。


「待ちなさい」


少女の声が飛んできた。


レオンは動きを止めた。


「そこにいるのでしょう」


見つかった。


いや。


正確な位置までは分かっていない。少女は森全体を見ている。


黙って離れることもできる。


「助けてもらっておいて、顔も見ずに帰すほど、アルヴァ家は無礼ではないわ」


アルヴァ家。


盗賊もその名を口にしていた。おそらく、王都でも知られた貴族なのだろう。


レオンは少し考えたあと、木の陰から姿を現した。


頭巾は深くかぶったまま。


少女と護衛たちの視線が集まる。


レオンの姿を見て、少女が目を瞬いた。


「子ども?」


「あなたと、あまり変わらないと思います」


「私は十五歳よ」


「同じです」


少女は少しだけ気まずそうな顔をした。


それから、すぐに表情を整える。


「そう。私はリゼット・アルヴァ」


赤い髪を背中へ払い、少女が名乗った。


「助けてもらったことに礼を言うわ」


「逃げるための時間を作っただけです」


「結果として助かったのだから同じよ」


リゼットはレオンの外套を見る。


安物の服。古い短剣。小さな旅袋。


貴族の護衛には見えない。冒険者にしては若すぎる。


「あなたは?」


「レオンです」


「家名は?」


「必要ですか」


「普通、名乗られたら同じように返すものでしょう」


「レオン・アーヴェルです」


リゼットはその名を記憶するように、小さく繰り返した。


「レオン・アーヴェル」


レオンは御者へ視線を向ける。


「傷が深いです。早く町へ運んだ方がいい」


「分かっているわ。でも、馬車が動かないの」


横倒しになった馬車を見る。


車輪の一つが外れかけている。馬も一頭は立てそうにない。もう一頭は傷を負っているが、命に別状はなさそうだった。


王都へ向かうには難しい。


だが、来た道を戻れば、レオンが出発した町までは半日もかからない。


「近くの町までなら、残った馬で運べます」


「御者を馬に乗せるの?」


「馬車の扉を外します」


レオンは横倒しになった馬車へ近づいた。


扉の蝶番。固定された金具。


透明な糸を細く圧縮する。


「ゼロエッジ」


金具を切断する。


扉を外し、その上へ毛布を敷く。縄を結び、残った馬へつなぐ。


簡単なそりになる。


御者を乗せれば、町まで運べる。


護衛の男が驚いたように、レオンを見る。


「坊主、よく思いついたな」


「前に似たものを見たことがあります」


前世の知識だった。正確には、工場で重量物を動かすために使った簡易台車を参考にしている。


説明する必要はない。


リゼットは馬車の扉と、レオンの左手を交互に見た。


「今の魔法は?」


「無属性魔法です」


「それは見れば分かるわ」


リゼットが眉を寄せる。


「無属性は、魔力を身体の外へ出すことすら難しいと聞いているけれど」


「難しかったです」


「どうやって覚えたの?」


「繰り返しました」


「どれくらい?」


レオンは少し考えた。


最初に透明な糸を出すまで、千回。安定させるまで、さらに何度も失敗した。切断できる細さへ圧縮するまでにも、数え切れないほど繰り返した。


「覚えていません」


「嘘ね」


リゼットは即座に言った。


「あなた、絶対に数えているでしょう」


レオンの腰にある帳面を見ていたらしい。


答えずにいると、リゼットはわずかに笑った。


先ほどまでの張り詰めた表情とは違う。年齢相応の顔だった。


「まあいいわ。秘密にしておいてあげる」


「何をですか」


「あなたが普通の無属性ではないこと」


レオンはリゼットを見る。


目が合った。


彼女は冗談を言っているわけではない。


戦いの間、レオンの魔法をどこまで見ていたのか。


「助けてもらった借りがあるもの」


リゼットが続ける。


「ただし、一つだけ教えなさい」


「内容によります」


「あなた、どこへ向かっているの?」


レオンは街道の先を見る。


「王都です」


「奇遇ね。私たちも王都へ向かっていたところよ」


リゼットの視線が、レオンの胸元へ移る。


外套の隙間から、防水布に包んだ紙の端が見えていた。


王家の紋章。


「それ、王立魔法学院の受験許可証でしょう」


レオンは外套を閉じた。


遅かった。


リゼットの顔に、確信したような笑みが浮かぶ。


「あなたも受験者なのね」


「そうです」


「なら、また会うことになりそうね」


リゼットは馬の手綱を取りながら、レオンを振り返った。


「レオン・アーヴェル」


その声には、先ほどまでなかった興味が含まれていた。


「学院では、今みたいに森の中へ隠れて助けることはできないわよ」


「助けたことを後悔しています」


「随分な言い方ね」


「目立つつもりはなかったので」


リゼットは一瞬驚き、それから声を上げて笑った。


「無理だと思うわ」


「何がですか」


「あなたのことよ」


赤い髪が、朝の光を受けて揺れる。


「それだけ変な魔法を使っておいて、目立たずにいられるわけがないでしょう」


レオンは答えなかった。


その言葉が現実になるまで、まだ二十七日。


このときのレオンは、そう思っていた。

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