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第5話 燃えかけた未来

今日はこれまで。

受験許可証がない。


レオンは空になった旅袋を、もう一度確認した。


着替え。保存食。火打ち石。包帯。七年間書き続けてきた帳面。


中身をすべて机の上へ並べたが、王家の紋章が押された紙だけが見つからない。


「落ち着きな」


マーサの声が飛んでくる。


「最後に見たのは、いつだい?」


レオンは目を閉じた。


工房へ戻った。屋根裏へ上がった。受験許可証は、旅袋の一番上に置いた。帳面をしまおうとしたとき、階段から足音が聞こえた。


グレゴールと、鉱山の男たちが現れた。透明な糸で旅袋を引き寄せた。窓から飛び降りた。路地を走った。


「屋根裏です」


「確かかい?」


「旅袋を引き寄せたとき、口が開いていました。あのとき落ちた可能性が高いです」


マーサが眉間にしわを寄せる。


「戻るつもりかい」


「はい」


「鉱山の男が二人いるんだろう?」


「確認したのは二人です」


「見張りが増えているかもしれないよ」


「それでも戻ります」


王立魔法学院の受験料は銀貨三十枚。七年間かけて貯めた金の大半を使った。


もう一度申し込む金はない。そもそも、試験の申込期限はすでに過ぎている。受験許可証を失えば、学院へ入る道は閉ざされる。


「命より大事な紙なのかい?」


マーサに問われ、レオンは少しだけ考えた。


「命を守るために必要な紙です」


北の魔石鉱山へ送られれば、長くは生きられない。逃げ続けたところで、身分証を持たない少年が一人で暮らせる場所はほとんどない。


学院へ入ることが、今のレオンに残された唯一の道だった。


マーサはしばらくレオンを見つめ、やがて諦めたように息を吐いた。


「止めても行く顔だね」


「すみません」


「だから、謝るんじゃないよ」


マーサは棚の下から、黒い外套を取り出した。


「頭まで隠していきな。表通りは使うんじゃないよ」


「ありがとうございます」


「それと」


マーサは、レオンの胸へ新しい包帯を強く巻いた。傷口が締まり、痛みが走る。


レオンの顔がわずかに歪んだ。


「痛いなら、生きてる証拠だ」


「もう少し優しく巻いても同じでは?」


「軽口を言えるなら大丈夫だね」


包帯を結び終えたマーサが、レオンの肩を叩いた。


「必ず戻ってきな」


レオンは外套を羽織り、道具店の裏口から外へ出た。


町は静まり返っていた。表通りには、夜警の持つ明かりが見える。


レオンは建物の影を選びながら進んだ。


七年間暮らした町だ。どの路地が工房へ続いているか。どの家が夜遅くまで明かりをつけているか。どこを歩けば、石畳が音を立てるか。


すべて知っている。


人通りのない染物屋の裏を通り、使われていない井戸の横を抜ける。


工房の裏手が見えてきた。


屋根裏の窓には明かりが灯っている。まだ、誰かが中にいる。


レオンは壁際へ身を寄せた。


正面の扉には、鉱山の男が一人立っている。先ほど剣を落とした男だった。腕を組み、苛立った様子で周囲を見回している。


もう一人の姿は見えない。


工房の中か。町を探しているのか。


レオンは裏手へ回った。


工房には、材料を運び込むための小さな搬入口がある。鉄の棒で内側から固定されているが、その位置は分かっていた。


幼い頃、身体の小さかったレオンが、毎朝そこから炉の燃料を運び込んでいたからだ。


左手を扉へ添える。


隙間から、透明な魔力を流し込む。


鉄の棒を探す。


見えなくても、糸が触れた感覚で形は分かる。


少し上。


さらに右。


あった。


透明な糸を巻きつけ、ゆっくりと持ち上げる。


鉄の棒が、わずかに音を立てた。


レオンは手を止める。


正面にいる男の様子を窺う。動きはない。


もう一度、今度はさらにゆっくり持ち上げる。


鉄の棒が外れた。


扉を少しだけ開き、身体を滑り込ませる。


工房の中には、消えかけた炉の熱が残っていた。炭と油の匂い。壁に並べられた金槌や鋏。作業台の上に積まれた金属。


レオンにとって、見慣れた風景だった。


炉の奥から、話し声が聞こえる。


「町の中を探させています」


鉱山の男の声。


先ほどレオンの胸を斬った男だ。


「門は閉じている。まだ町の中にいるはずです」


「見つけろ」


グレゴールの声が続く。


「鉱山へ引き渡せなければ、金はどうなる」


「当然、支払いはできません」


「話が違う!」


「逃がしたのは、そちらでしょう」


レオンは物陰に隠れながら、屋根裏へ続く階段を見た。


二人は炉の近くにいる。階段まで、およそ十五歩。途中には身を隠せる場所がない。


音を立てずに通り抜けるのは難しい。


レオンは作業台を見る。金属製の小さな器具が並んでいる。


左手を上げ、透明な糸を伸ばす。


工房の反対側。


壁にかけられた鉄製の火掻き棒へ巻きつける。


レオンが指を引くと、火掻き棒が壁から落ちた。硬い音が工房に響く。


「何だ?」


鉱山の男が振り返った。


「裏口か?」


「見てこい」


足音が遠ざかる。


グレゴールは炉の前に残っている。


レオンは身体を低くして、階段へ走った。


一歩。


二歩。


三歩。


床板がきしむ位置を避ける。


長年、毎日のように歩いた場所だ。どこへ足を置けば音が出ないのか、身体が覚えている。


階段へたどり着く。


一段ずつ、音を立てずに上がる。


屋根裏の扉は開いたままだった。


中に人はいない。


レオンはすぐに床を探した。木箱の下。毛布の周辺。窓の近く。


ない。


落ちていたなら、誰かが拾った。


階下から、グレゴールの声が聞こえる。


「何もないのか?」


「裏の搬入口が開いています!」


レオンの背筋に冷たいものが走った。


気づかれた。


下へ戻ることはできない。


レオンは屋根裏を見回した。


グレゴールが許可証を拾ったなら、どこへ置く。机か。寝室か。あるいは、今も持っているか。


そのとき。


階下で、紙の擦れる音が聞こえた。


続いて、グレゴールの声。


「これを探しに戻ってきたのかもしれん」


レオンは階段の影から、下を覗いた。


グレゴールの右手に、見覚えのある紙があった。


王家の紋章。


王立魔法学院の受験許可証。


紙の端が、ろうそくの火へ近づけられている。


「見つかれば、これでおびき出せます」


鉱山の男が剣を抜いた。


「出てこい、レオン!」


グレゴールが工房内へ怒鳴る。


「いるんだろう!」


レオンは答えない。


受験許可証と火の距離は、指二本分ほど。グレゴールが手を少し下げれば燃える。


透明な糸を伸ばしても、紙へ届くまでに気づかれる。飛び出せば、剣を持った男に阻まれる。


どうする。


何が使える。


レオンは工房の中を見渡した。


炉。作業台。水桶。天井から下げられた滑車。


炉の横には、火力を上げるための大きなふいごがある。


レオンは左手から糸を伸ばした。


狙うのは、受験許可証ではない。


天井の滑車。


そこから垂れた縄。


縄を引くと、作業台の上に積まれていた金属板が持ち上がる。


「何の音だ?」


鉱山の男が上を見る。


レオンは糸を切った。


持ち上がっていた金属板が、一斉に作業台へ落ちる。


耳を塞ぎたくなるような音が、工房内に響いた。


「くっ!」


グレゴールの身体が跳ねる。


受験許可証を持つ手が、ろうそくから離れた。


レオンは階段を駆け下りた。


鉱山の男が気づき、剣を構える。


「いたぞ!」


男が階段の前へ回り込む。


正面から突破できる相手ではない。


レオンは階段の途中で、左手を横へ振った。


透明な糸が、ふいごの取っ手へ巻きつく。


強く引く。


ふいごから送り出された空気が、炉に残っていた灰を巻き上げた。


黒い灰が工房内に広がる。


「目が!」


鉱山の男が顔を腕で覆った。


レオンはその横を通り抜ける。


グレゴールまで、あと五歩。


グレゴールが許可証を再び火へ近づけた。


「来るな!」


紙の端に、火が触れる。


小さな炎が上がった。


間に合わない。


レオンは左手を伸ばした。


透明な糸が走る。


狙ったのは、紙ではない。


グレゴールの手首。


糸を巻きつけ、強く横へ引く。


「ぐっ!」


グレゴールの腕が外へ流れる。


燃え始めた受験許可証が、手から離れた。


紙が床へ落ちる前に、別の糸を伸ばす。


端へ絡める。


引き寄せる。


受験許可証が床を滑った。


レオンは右足で踏みつけ、燃えている部分を消した。


紙の端が黒く焦げている。だが、王家の紋章とレオンの名前は残っていた。


「返してもらいます」


レオンは許可証を拾い上げた。


「それは俺の金で――」


「違います」


レオンはグレゴールの言葉を遮った。


「受験料は、俺が森で稼いだ金です」


グレゴールの顔が引きつる。


「工房の仕事を終えたあと、薬草と魔石を集めました」


「お前が魔石を?」


「七年間、あなたの知らない場所で準備をしてきました」


灰の中から、鉱山の男が姿を現す。剣を握り直している。


レオンは受験許可証を胸元へしまった。


正面の扉まで、およそ十歩。扉の外には、もう一人いる。


長く戦えば不利になる。


レオンは炉の横にある水桶へ糸を伸ばした。


取っ手へ巻きつける。


男が踏み込んだ。


剣が横へ振られる。


レオンは歩法(フットワーク)で後ろへ下がる。


刃が目の前を通過する。


同時に、糸を引いた。


水桶が倒れ、中の水が床へ広がる。


濡れた石床へ、男の足が乗る。


「なっ!」


足が滑る。


男の身体が傾いた。


レオンは男へ攻撃しなかった。


横を通り抜け、そのまま正面の扉へ向かう。


扉を開ける。


外にいた男が振り返った。


「お前!」


男がレオンの腕をつかもうとする。


その手を避け、横へ回り込む。


逃げ道を塞ぐように男が移動する。


レオンも同じ方向へ動く。


右。


左。


右。


男の視線がレオンの足へ向いた。


次の動きを読もうとしている。


レオンは右へ踏み出すふりをした。


男の身体が動く。


その瞬間、左へ切り返した。


七年間、森で何度も繰り返した動き。


木の根。石。魔物の爪。


障害物を避けるたび、足の置き方を修正してきた。


男の脇を抜ける。


「待て!」


背後から声が響く。


レオンは振り返らなかった。


マーサの店へ戻った頃、東の空がわずかに白み始めていた。


扉を開けたマーサが、呆れたようにレオンを見る。


「戻ってくるまでが早すぎるね」


「見つけました」


レオンは焦げた受験許可証を見せた。


マーサの表情が険しくなる。


「燃やされたのかい」


「少しだけです」


王家の紋章。名前。受験番号。


必要な部分は、すべて読める。これなら、試験を受けられる可能性は高い。


「すぐに町を出ます」


「門が開くまで、まだ少しあるよ」


「開いた直後に出ます。グレゴールたちも来るはずです」


マーサは店の奥へ向かった。


しばらくして、背負うことのできる大きさの袋を持って戻ってくる。


「食料を追加しておいた。水筒も入ってる」


「代金は王都で稼いでからでもいいですか」


「全部、出世払いだよ」


「必ず返します」


「それは聞いた」


マーサは笑った。


それから、レオンの肩へ手を置く。


「行っておいで」


短い言葉だった。


それでも、レオンの胸に残った。


行ってもいい。


自分で選んでもいい。


そう言われた気がした。


「行ってきます」


レオンは深く頭を下げた。


夜が明け、町の門が開く。


荷馬車。商人。畑へ向かう農民。


町の外へ出ようとする人々が、門の前に集まっていた。


レオンは外套の頭巾を深くかぶり、その列に並ぶ。


あと三人。


あと二人。


次はレオンの番。


門の向こうには、王都へ続く街道が伸びている。


「待て!」


背後から怒鳴り声が響いた。


グレゴールだった。鉱山の男たちもいる。


「そいつを止めろ!」


門番がレオンを見る。


「何があった」


「そいつは鉱山へ送る契約になっている!」


グレゴールが息を切らしながら近づいてくる。


「逃亡した労働者だ!」


周囲の視線が、レオンへ集まる。


門番の手が、腰の剣へ置かれた。


「証明できるものはあるか」


グレゴールが口を開く。


だが、何も出さない。


「契約書は?」


門番が重ねて尋ねる。


「口約束だ! 俺が育ててやった代わりに――」


「本人の署名は」


「そんなものは必要ない!」


門番の表情が変わった。


この国では、犯罪者と戦争捕虜を除き、正式な契約書なしに人間を強制労働へ送ることはできない。


実際には、身寄りのない者が口約束だけで連れていかれることも多い。だが、公の場で認められる行為ではなかった。


「少年」


門番がレオンを見る。


「身分を証明できるものはあるか」


レオンは胸元から受験許可証を取り出した。


焦げた部分を隠さず、そのまま差し出す。


門番が紙を広げる。


王家の紋章を確認した瞬間、姿勢を正した。


「王立魔法学院の受験者か」


「はい」


「この焦げ跡は?」


レオンはグレゴールを見る。


「燃やされかけました」


周囲がざわめく。


グレゴールの顔色が変わった。


「違う! それは事故だ!」


「王家が発行した書類を燃やそうとしたのか?」


門番の声が低くなる。


「違うと言っている!」


「詳しい話は詰所で聞く」


門番が仲間へ合図を送る。


二人の兵士が、グレゴールと鉱山の男たちを囲んだ。


グレゴールがレオンを睨む。


「お前が学院に受かるものか!」


レオンは門の外へ向き直った。


「受かるかどうかは、あなたが決めることではありません」


「無属性の外れが!」


レオンは歩き出す。


「一般級しか持たないお前が、何者になれる!」


足を止めることなく答える。


「それを確かめに行きます」


町の門を抜けた。


朝の光が街道を照らしている。


背後では、グレゴールの声がまだ聞こえていた。だが、やがて門が閉じる音とともに途切れた。


レオンは一人、街道の上に立った。


振り返る。


生まれてから十五年間を過ごした町。前世を思い出してから、何度も逃げ出したいと思った場所。


不思議と、寂しさはなかった。


レオンは腰の帳面を取り出した。


新しい頁を開き、炭筆を走らせる。


『失敗』


『重要な書類を、旅袋の一番上に入れた』


その下へ、改善方法を書く。


『防水布に包み、服の内側へ保管する』


焦げた受験許可証を丁寧に折り、防水布へ包む。今度は胸元の内側へしまった。


同じ失敗は、繰り返さない。


王都まで、徒歩で二十日。


試験までは、あと二十七日。


レオンは王都の方角へ身体を向けた。


長い街道の先に、まだ見たことのない世界がある。才能を持つ者たちが集まる王立魔法学院。


自分より強い人間もいる。今までの努力が、まるで通用しないかもしれない。


それでも。


失敗する前から、諦める理由にはならない。


レオンは最初の一歩を踏み出した。


そして、二歩目。


三歩目。


王都まで続く道を、自分の足で歩き始めた。


その日の昼。


街道の先から、馬の激しいいななきが聞こえた。続いて、男たちの怒鳴り声。金属がぶつかる音。


レオンは足を止めた。


前方の森から、黒い煙が上がっている。


腰の短剣へ手を添える。


助けに入るべきか。


避けて進むべきか。


危険の大きさは、まだ分からない。


レオンは帳面を閉じ、煙の方角を見た。


王都までの道は、始まったばかりだった。

さぁ、出発です。

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