第64話 森の観測者
レオンは赤い信号具の紐を引いた。
筒の先から赤い光が飛び出す。
枝葉を突き抜け、森の上空で弾けた。
低い唸り声が近づく。
太い枝が沈み、葉の隙間から黒い影が飛び出した。
人間の半分ほどの大きさ。
長い両腕の先に、湾曲した爪が伸びている。
灰色の体毛には血が付着し、首の周囲だけ毛が抜けていた。
魔物は木の幹へ片手を突き立て、4人を見下ろす。
「鉤爪猿だ」
セイルが剣を構えた。
「知っているのか?」
「図鑑で見た。北の岩山にいる魔物だ」
「ここは森よ」
ユリアは杖を向けたまま、魔物の足元を見る。
「それに、あの大きさならD級。今回の討伐対象ではないわ」
「ローガン先生たちが来るまで持たせる」
レオンは短剣を抜いた。
倒すことを目的にしない。
信号は上がった。
一定の距離から追跡している教員が来るまで、4人が生き残ればいい。
鉤爪猿が枝を蹴った。
最初に狙ったのは、先頭にいるガルドではない。
最後尾のレオンだった。
「来るぞ!」
ガルドが前へ出る。
大盾をレオンとの間へ差し込んだ。
爪が盾を引っかく。
金属板から甲高い音が響いた。
ガルドの足が枯れ葉の上を滑る。
鉤爪猿は盾へ張りつかず、その表面を蹴って別の木へ跳んだ。
「止まらないな!」
「正面から押し合う相手じゃない」
レオンは着地点へゼロスレッドを伸ばした。
鉤爪猿の足が枝へ触れる。
糸を巻きつける前に、魔物は別の枝へ移った。
ゼロスレッドを見たわけではない。
それでも、レオンが左手を動かした直後に進路を変えている。
魔物が木の周囲を回る。
枝から枝へ跳ぶたびに、4人の頭上から葉が落ちた。
セイルが風を足元へ集める。
「追う」
「同じ枝へ乗るな」
レオンが止める。
「どうしてだ?」
「あれは、追ってくるのを待っている」
鉤爪猿は逃げていない。
一定の距離を保ちながら、4人の動きを見ている。
ガルドが前。
レオンが中央。
ユリアとセイルが左右。
誰がどの攻撃に反応するのか。
何を使えば、誰が前へ出るのか。
魔物の視線が順番に動いていた。
「私たちを観察しているの?」
ユリアが尋ねる。
「たぶん」
レオンは左手を下げた。
鉤爪猿が動く。
今度はユリアへ向かった。
ユリアが正面へ薄い氷板を作る。
魔物は氷へ当たる直前に身体をひねり、木の幹へ爪を立てた。
横へ跳ぶ。
その先へセイルが回り込んだ。
剣を振る。
鉤爪猿は地面へ伏せ、刃を避けた。
剣先が灰色の体毛を浅く切る。
魔物の爪がセイルの脚へ伸びる。
セイルが風で後退するが、爪先が実習服を裂いた。
「速い」
傷は浅い。
それでも、もう一歩遅ければ脚の肉まで深く裂かれていた。
鉤爪猿が追う。
ガルドが盾を地面へ突き立て、進路を塞いだ。
魔物は横へ跳ぼうとする。
ユリアが着地点だけを凍らせる。
鉤爪猿の片足が滑った。
レオンはその瞬間に糸を伸ばした。
右腕へ巻きつけ、強く引く。
魔物の身体がわずかに傾く。
セイルの剣が脇腹をかすめた。
灰色の体毛が切れ、赤い線が走る。
鉤爪猿は地面を転がったが、すぐに起き上がった。
右腕に巻きついた糸を探すように顔を動かす。
正確には、糸は見えていない。
だが、引かれている場所は分かる。
魔物は自分の右腕へ爪を立てた。
皮膚が裂ける。
血が流れる。
同時にゼロスレッドも切れた。
「自分で腕を切ったのか?」
ガルドが声を上げる。
鉤爪猿は傷を気にしない。
再び木へ登り、レオンを見下ろした。
右腕と脇腹から血が流れている。
それでも動きは鈍っていない。
「痛みを感じていないみたい」
ユリアが言う。
「違う」
レオンは魔物の首を見る。
毛が抜けた部分に、黒い輪が食い込んでいる。
首輪にも見えるが、革ではない。
細い金属板を何重にも重ねた魔導具だった。
魔物が動くたびに、中央の小さな魔石が光っている。
「痛みより、別の命令を優先させられている」
「操られているのか?」
「分からない。でも、自然な個体じゃない」
鉤爪猿が再び飛び出した。
レオンは左手を上げる。
魔物の視線が、すぐに左手へ向いた。
ゼロスレッドを警戒している。
一度受けただけで、次の動きを変えていた。
第7実技棟で戦った、適応型魔導兵。
相手の戦い方を記録し、次の行動へ反映する黒い人形。
あの魔導兵ほど正確ではない。
魔法も模倣していない。
それでも、反応の仕方が似ている。
「左へ追い込む」
レオンが言う。
「左には木があるぞ」
「それでいい。ユリアは地面。セイルは上。ガルドは正面を塞いでくれ」
「お前は?」
「糸を見せる」
ガルドが盾を構えた。
ユリアは鉤爪猿の左側へ細い氷を伸ばす。
セイルが風をまとい、枝へ跳んだ。
レオンは左手から、魔力を多く流したゼロスレッドを伸ばした。
色のない糸に、わずかな輪郭が生まれる。
鉤爪猿の視線が糸を追う。
右へ逃げる。
そこにはガルドがいる。
盾が魔物の進路を塞いだ。
鉤爪猿は上へ跳ぶ。
セイルが剣を振り下ろす。
魔物は空中で身体を丸め、爪で刃の側面を弾いた。
金属音が響く。
そのままセイルを蹴り、地面へ降りる。
着地点が凍っている。
足が滑る。
レオンは見える糸を消した。
同時に、地面すれすれへ伸ばしていた別のゼロスレッドを引く。
鉤爪猿の左足が糸へ触れた。
一瞬だけ、動きが止まる。
ガルドが盾を押し出した。
鉤爪猿の身体が木の幹へぶつかる。
「捕まえたぞ!」
ガルドが盾で押さえ込む。
鉤爪猿は爪を振り回し、盾の縁を削った。
ユリアが両足の周囲を凍らせる。
セイルは剣先を魔物の首へ向けた。
それでも鉤爪猿は止まらない。
自分の足が傷つくことも構わず、氷から抜け出そうとする。
首の魔導具が強く光った。
「離れろ!」
レオンが叫ぶ。
ガルドが盾を引く。
4人が後退した直後、魔導具から魔力が弾けた。
鉤爪猿の身体が大きく跳ねる。
地面へ倒れ、そのまま動かなくなった。
魔力の爆発ではない。
首の魔導具から、身体の内側へ何かが流れ込んでいた。
「死んだのか?」
ガルドが盾越しに様子を見る。
「まだ息はある」
レオンは近づこうとする。
その前に、木々の間から声が響いた。
「触るな!」
ディートリヒ・ローガンが走ってくる。
手には短い杖と、金属製の輪を持っていた。
ローガンは倒れた鉤爪猿へ輪を投げる。
輪が空中で広がり、細い鎖となって魔物の身体を拘束した。
「全員、魔物から離れろ。互いの怪我を確認しろ」
「首に魔導具があります」
レオンが鉤爪猿の首元を示す。
ローガンの表情が変わる。
杖の先で体毛をかき分け、黒い金属板を確認した。
「信号を見てから来たが、途中でこの個体の魔力反応が急に弱くなった。これが原因か」
「鉤爪猿は、この森にいるんですか?」
セイルが尋ねる。
「いない。最も近い生息地でも、ここから北へ3日はかかる」
「迷い込んだ可能性は?」
「それなら、この森の木を使ってお前たちの周囲を回るような動きはできない」
ローガンは近くに倒れている角兎へ視線を移した。
「この個体は少なくとも数日、ここで獲物を狩っていた。角兎の傷も同じ爪によるものだろう」
別の方向から、もう1人の教員が到着した。
赤い信号を確認し、近くの班から駆けつけたらしい。
ローガンは鉤爪猿をその教員へ任せ、4人の状態を確認する。
セイルの脚には浅い裂傷。
レオンの左手には、糸を強く引いたときの熱が残っている。
ガルドの盾には新しい傷が刻まれていた。
ユリアは魔力を消耗しているが、ほかに大きな怪我はない。
「セイルの傷を洗え」
ローガンが指示する。
ユリアが鞄から水と治療布を取り出した。
「実習は中止だ」
ローガンは通信魔導具を取り出す。
「ほかの班も全員呼び戻す。この森に別の対象外個体がいる可能性がある」
「俺たちは角兎を1体倒してます」
ガルドが魔石の入った袋を持ち上げた。
「今は成績の話をしていない」
「分かってるけど、一応だ」
「回収した魔石は持ち帰れ。評価は調査が終わってから決める」
ローガンが通信魔導具へ魔力を流し、ほかの教員へ実習中止を伝える。
レオンは鉤爪猿の首を見る。
魔導具の光は消えている。
黒い金属板の一部が割れ、細かな部品が露出していた。
その中に、透明な小石のようなものが埋め込まれている。
レオンの視線に気づき、ローガンが金属板を布で覆った。
「調査が終わるまで、今見たものをほかの生徒へ広めるな」
「理由は?」
レオンが尋ねる。
「不確かな情報で混乱を起こさないためだ」
「学院からの指示ですか?」
「現時点では、実習責任者である俺の判断だ」
答えは間違っていない。
ローガンは異常がなかったとは言っていない。
レオンはそれ以上尋ねなかった。
森を出るまで、鉤爪猿が再び動くことはなかった。
学院へ戻ったのは、予定より2時間早かった。
Cクラスの生徒たちは教室へ集められた。
教卓の前にはローガンが立っている。
「管理森林で、事前の調査に含まれていない魔物が確認された」
教室がざわつく。
「現在、教員が森林内を再調査している。安全が確認されるまで、同区域での学院外実習は中止する」
鉤爪猿の名前は出なかった。
魔導具についても説明されない。
「質問は、調査結果が出てから受け付ける。今日は装備の手入れと、各班の行動記録を提出して解散しろ」
ローガンが教室を出る。
「隠すつもりか?」
ガルドが小声で言った。
「異常があったことは話したわ」
ユリアが答える。
「でも、何がいたかは言ってない」
「調査前に断定しないためかもしれない」
セイルは実戦用の剣を布で拭きながら、窓の外を見る。
「完全には隠してない」
「何を話さないかは決めている」
レオンは教室の後ろに座り、実習中の動きを思い返した。
鉤爪猿は、最初からレオンを狙った。
ゼロスレッドを受けたあとは、左手の動きを警戒した。
4人の連携も、1度見るたびに反応を変えていた。
偶然森へ入り込んだ魔物に、あの魔導具が付いていたとは考えにくい。
放課後、レオンはクラリスに呼ばれた。
案内されたのは、管理棟の小さな調査室だった。
部屋にはクラリスとローガン、そしてミナがいる。
机の中央には、鉤爪猿の首から外された黒い魔導具が置かれていた。
「どうしてミナが?」
レオンが尋ねる。
「この魔導具には、通常の属性魔力とは異なる流れがある」
クラリスが答えた。
「あなたのゼロスレッドと同じ、という意味ではない。ただ、学院の一般的な測定器では読み取れない部分がある」
「だから私が呼ばれた」
ミナは魔導具を見たまま言う。
「何が見える?」
「細い線。魔導具の内側から伸びて、途中で切れてる」
「どこかへつながっていたのか?」
「たぶん」
第7実技棟の適応型魔導兵も、戦闘記録を外部へ送っていた。
「実習中、この個体は戦うたびに行動を変えました」
レオンが言う。
「最初に糸を受けたあとは、俺の左手を警戒した。4人の動きも見ていた」
「適応型魔導兵と似ていた、ということか」
クラリスが尋ねる。
「魔法の模倣はありませんでした。でも、相手の反応を記録しているように見えました」
ローガンが黒い金属板を裏返す。
「学院の備品番号ではない。王国魔法師団で使われる識別番号とも違う」
クラリスが表面の煤を布で拭き取った。
金属板の端に、小さな文字が刻まれている。
製造者の名前ではない。
横線で区切られた、1つの英字と2桁の数字。
B―31。
レオンは文字を見つめた。
同じ番号を、以前にも見ている。
第0研究室の観察室。
リゼットとの比較試験。
模倣人形の核に刻まれていた番号。
「森にいた魔物は、俺を観察するために放された?」
クラリスは、すぐには答えなかった。
「その可能性はある」
「実習先を知っていた?」
「Cクラスの実習予定は、学院内では機密ではない」
ローガンが答える。
「教員、生徒、管理職員、馬車や物資を準備した者も知ることができる。管理森林を使用する申請も事前に行っている」
「誰が知っていても不自然ではない」
「ああ。だから、予定を知っていたことだけでは相手を絞れない」
魔導具の透明な石が、微かにひび割れた。
ミナが顔を上げる。
「まだ何か残ってる」
クラリスが魔導具へ手を伸ばす。
その前に、透明な石の内側で白い光が点滅した。
1回。
少し間を空けて、もう1回。
光は消えた。
調査室の扉も、窓も閉じている。
外から魔力を流した様子はない。
ローガンがすぐに短い杖を構えたが、魔導具はそれ以上反応しなかった。
最後の光は、残っていた魔力が漏れただけかもしれない。
それでもレオンには、誰かへ合図を返したように見えた。
観測は、森で終わっていなかった。
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