第45話 水滴の檻
順位戦当日。
第2実技場の観客席には、Dクラスの生徒が集まっていた。
授業の一部として見学を許可された者だけでなく、次にレオンやノアへ挑む可能性がある生徒も混じっている。
ガルドとミナは、開始線に立つレオンの正面に見える位置へ座っていた。
対面には、細身の訓練剣を抜いたノアが立っている。
周囲に水球は浮かべていない。
足元も乾いたままだった。
担当教師が2人の間へ進む。
「武器と魔法の使用を許可する。相手が戦闘不能になった場合、降参した場合、または私が続行不可能と判断した場合に決着とする」
教師はレオンとノアを順番に見る。
「始め」
ノアが先に動いた。
訓練剣を正面へ構え、真っすぐ距離を詰めてくる。
水ではない。
レオンは右へ半歩ずれた。
ノアの剣先が胸元を通過する。
その腕へ短剣を伸ばすが、ノアは剣を引きながら身体を回し、刃を弾いた。
金属音が響く。
レオンは追わず、すぐに距離を戻した。
ノアも深追いしない。
「糸を使わないのか?」
「必要になれば使う」
「いつ必要になるかは、俺が決める」
ノアが左手を開いた。
背後に3つの水球が現れる。
1つ目がレオンの顔へ飛ぶ。
レオンは右へ避けた。
2つ目は足元へ落ち、弾ける。
地面が円形に濡れた。
3つ目はレオンへ向かわず、頭上で細かく砕けた。
雨のような水滴が、実技場へ降り注ぐ。
レオンはすぐに左手を身体の後ろへ隠した。
ゼロスレッドは出していない。
水滴は髪や制服へ付着しただけで、空中に糸の形を浮かばせることもなかった。
ノアが踏み込む。
剣が左肩を狙う。
レオンは足だけで斜め後ろへ下がった。
以前なら、同時に糸を地面へ固定してさらに距離を取っていた。
今日は動かない。
剣先が制服をかすめたが、身体には届かなかった。
続く横薙ぎを短剣で受ける。
衝撃が右腕へ伝わる。
レオンは受け止めず、刃を滑らせて外側へ流した。
ノアの身体がわずかに開く。
懐へ入る。
短剣の先が、ノアの脇腹へ近づいた。
直前で、水球が間へ割り込む。
短剣が水へ突き刺さった。
球体が崩れ、右手と刃が濡れる。
ノアはその間に後退し、剣先をレオンの喉元へ向けた。
レオンも距離を取った。
「足だけでも動けるようになったな」
ノアが言う。
「見ていたのか?」
「昨日だけじゃない」
ノアの周囲に、新しい水球が4つ現れた。
今度はすべてが小さい。
同時に飛ぶ。
レオンの顔、胸、両足。
直接当てるには威力が足りない。
避けさせるための水だった。
レオンは左へ動いた。
顔へ向かう水球を避け、胸元の1つを短剣で弾く。
足元へ来た2つは地面へ落ち、水を広げた。
踏み込んだ左足が滑る。
すぐに腰を落とし、転倒を防いだ。
ノアの剣が迫る。
下から斜めに振り上げられる。
レオンは短剣で軌道をずらした。
完全には避けられず、剣先が制服の胸元を切り裂く。
訓練用に潰された刃でも、まともに受ければ試合を止められる。
レオンは濡れた地面を蹴り、後ろへ下がった。
靴底が再び滑る。
姿勢が乱れたところへ、別の水球が飛ぶ。
今度は左腕だった。
水球が肘へ当たり、崩れる。
冷たい水が袖を濡らし、手首から指先まで流れた。
ノアの視線が、レオンの左手へ固定される。
狙われている。
レオンは左手を握った。
感覚は正常。
魔力も流せる。
だが、ここで糸を伸ばせば、指先の水がそのまま表面へ付着する。
見えない糸でも、出した瞬間から水滴をまとい、軌道を晒すことになる。
匿名の紙に書かれていた言葉が浮かぶ。
『見せる糸に頼るな』
見えることを恐れて使わなければ、ノアの狙いどおりになる。
だからといって、考えずに伸ばせば水滴に捕まる。
ノアは待たなかった。
5つの水球が、レオンを囲むように浮かぶ。
正面だけではない。
左右と背後にも配置されている。
ノアが剣を構えたまま前へ出る。
レオンが下がれば、背後の水球が弾ける。
横へ避ければ、左右の水が進路を塞ぐ。
レオンは前へ踏み込んだ。
残された道を進むのではなく、ノアのいる場所を通る。
短剣を低く構え、剣の内側へ入る。
ノアが突きを放つ。
レオンは頭をずらして避け、右手で剣の腹を押した。
ノアの腕が外へ流れる。
肩まで、あと一歩。
背後で水が弾けた。
細かな水滴がレオンの背中から頭上を越え、ノアとの間へ降り注ぐ。
水滴の一部が、空中で細い線へ付着した。
レオンは糸を使っていない。
そう考えた瞬間、左手に微かな感触が走る。
無意識に伸ばしていた。
ノアの剣を押し流した直後、姿勢を戻すために、左手から短いゼロスレッドを地面へ伸ばしていた。
長さは30センチにも満たない。
それでも水滴が付着し、陽光の下へ輪郭を浮かべている。
ノアの目が細くなる。
「やっぱり使ったな」
水球が糸へ飛ぶ。
レオンはすぐに糸を切った。
その一瞬、左手への意識が逸れる。
ノアの膝が腹部へ入った。
息が詰まる。
続けて剣の柄が右肩へ打ち込まれた。
レオンは地面を転がり、水のない場所まで離れた。
教師は止めない。
まだ立てる。
レオンは片膝をつき、呼吸を整えた。
右肩に鈍い痛みがある。
短剣は手から離れていない。
ノアは追撃せず、水球を作り直していた。
「糸を使わずに戦う練習はした」
「見れば分かる」
「それでも使わせた」
「お前は崩れた姿勢を、糸で直す」
ノアは剣先を下げた。
「攻撃するときだけじゃない。避けたあと、踏み込んだあと、着地したあと。お前は失敗を糸で消している」
「観察したのか?」
「お前が他人にしていることだろ」
レオンは立ち上がった。
ノアの言葉は正しい。
糸を使わない動きを覚えた。
だが、追い詰められた瞬間には、身体がこれまで繰り返した動きを選んだ。
無意識に使う糸。
自分で選んでいない糸。
それこそが、最も読みやすい。
ノアが左手を上げる。
実技場に散っていた水が、少しずつ浮き上がった。
地面の水たまり。
レオンの制服に付着した水滴。
切り落としたゼロスレッドに残っていた小さな粒。
すべてが空中へ集まり、細かな霧となって広がっていく。
観客席から、どよめきが起きた。
霧は濃くない。
ノアの姿も見えている。
だが、実技場のどこへ糸を伸ばしても、水滴が付着する。
見えない糸を隠せる場所がなくなった。
「これが、お前のために用意した場所だ」
ノアが言う。
レオンは左手を開いた。
濡れた袖から、指先へ水が落ちる。
振動させれば、短い糸の水滴は落とせる。
だが、何度も繰り返せば左手が持たない。
水滴を落としても、周囲の霧が再び付着する。
使えば見える。
振るわせれば消耗する。
使わなければ、ノアの剣へ対抗できない。
水球が左右へ分かれた。
ノアが中央から近づいてくる。
レオンは後退する。
背後には、実技場を囲う壁。
右には水球。
左にも水球。
正面には、剣を構えたノア。
逃げ道は残っていなかった。
ノアが一歩踏み込む。
左右の水球も、同時に距離を詰める。
水滴が空中を満たし、レオンの左手を覆っていた。
まるで、見えない檻だった。
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