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第44話 使わない選択

翌朝。


目を覚ましたレオンは、左手を握ろうとして動きを止めた。

指は曲がる。痛みもない。

だが、人差し指と中指の感覚が、ほかの指よりわずかに鈍かった。


机の引き出しには、昨夜受け取った紙が入っている。


『見せる糸に頼るな』


差出人も意図も分からない。

それでも、左手の異常まで無視することはできなかった。


レオンは朝の授業へ向かう前に、学院の治療室へ立ち寄った。


治療師は左手へ淡い光を流し、指先から手首までを何度も確認した。

レオンが昨日行った訓練を説明すると、眉間のしわが深くなる。


「細い魔力経路へ、短時間で負担をかけすぎています。今日は左手で魔法を使わないでください」

「明日なら使えるのか?」

「今日の状態が悪化しなければ、短時間からです」

「試合は4日後だ」

「なら、なおさら今日休むべきです」


治療師はレオンの左手へ薄い布を巻いた。

固定するためではなく、魔法を使おうとしたときに気づかせるためのものだった。


「痛みがなくても、感覚が鈍い間は正常ではありません」

「右手なら使っていいか?」

「あなたの魔法は左手から使うことが多いのでしょう?」

「ああ」

「今日は使わないでください。右手で無理に再現しようとするのも禁止です」


逃げ道まで先に塞がれた。


午前の実技は、魔法を使わない近接戦だった。

木製武器のみを使い、相手の肩へ3回触れた方が勝利する。

順位戦とは関係のない通常授業で、属性や魔法に頼らず、距離と姿勢を確認することが目的だった。


レオンの相手は、現在31位の男子生徒だった。

武器は互いに木製の短剣。

体格にも大きな差はない。


開始の合図が響く。

相手が正面から踏み込んだ。

レオンは右へ避け、短剣を伸ばす。

相手は身体を引き、すぐに左から回り込んだ。


普段なら、ゼロスレッドを地面へ固定して身体をずらす。

あるいは相手の手首へ糸を伸ばし、短剣の軌道を乱す。


今日は使えない。


レオンは自分の足だけで距離を外そうとした。

一歩目は間に合った。

だが、二歩目で姿勢が崩れる。

相手の短剣が肩へ触れた。


1回。


再開後、レオンは相手の足を見る。

右へ踏み込む動きに合わせ、先に左へ回る。

今度は相手の横へ入れた。


短剣を伸ばす。

届く直前、相手が急停止した。

レオンだけが前へ進み、肩を差し出す形になる。


2回。


3度目は、先に攻めた。

右手の短剣を低く構え、相手の足元へ踏み込む。

相手が後退する。

追う。

さらに一歩進んだ瞬間、相手は後ろへ下がるのをやめた。


肩がぶつかる。

レオンの身体がわずかに浮く。

そのまま木製の短剣を当てられた。


3回。


試合は短時間で終わった。


「勝者、31位」


教師が結果を告げ、次の組を呼ぶ。


レオンは開始位置から離れた。

負けた理由は明確だった。

ゼロスレッドを使わなかったからではない。

使えない状態で、普段と同じ距離と動きを選んだからだ。


「3回とも、糸を使う前の動きだった」


実技場の端で見ていたミナが言う。


「使っていない」

「使うつもりで動いてた」


レオンは先ほどの試合を思い返した。

最初の回避では、糸で身体を追加移動させる余地を残していた。

2回目は、相手の動きを糸で止められる距離まで近づいた。

3回目も、踏み込みすぎたあとに姿勢を戻せる前提で進んでいた。


魔法を使わなかったのではない。

魔法が使える動きをしたまま、最後の魔法だけを抜いていた。


「今日の放課後、付き合ってくれ」

「何をする?」

「糸を使わない動き」

「ガルドも?」

「ああ」


少し離れた場所で別の生徒を盾ごと押し返していたガルドが、こちらを振り向いた。


「俺の名前が聞こえたぞ!」


放課後。


第3実技場で、レオンはガルドと向かい合っていた。

ガルドは盾と槌を置き、両手を空けている。


条件は単純だった。

ガルドがレオンの肩へ触れる。

レオンは避けるか、先にガルドの腕へ触れる。

ゼロスレッドは禁止。


「本当に盾なしでいいのか?」

「盾があると近づけない」

「それを越える練習じゃなかったのか?」

「今日は違う」

「じゃあ行くぞ」


ガルドが踏み込む。

速くはない。

だが、大きな身体が正面から迫るだけで、左右の逃げ道が狭くなる。


レオンは右へ動いた。

ガルドも右へ向きを変える。

さらに右へ逃げようとして、足が交差した。


肩をつかまれる。


「今ので1回だな」

「ああ。もう1度」


2回目。

今度は大きく避けない。

ガルドが右手を伸ばした瞬間、半歩だけ左へずれた。


腕が目の前を通る。

レオンは短剣を持たない右手で、ガルドの肘へ触れた。


「取った」

「今のは俺が雑だった」

「なら、次は変えろ」


ガルドは笑った。

3回目は途中で足を止め、反対の手を伸ばした。

レオンは反応して後退する。

距離は取れたが、そのまま実技場の境界線へ追い込まれた。


糸があれば、背後の杭へ固定して横へ逃げられる。

そう考えた瞬間、ガルドの手が肩へ触れた。


「また糸のこと考えたろ」

「ああ」

「顔で分かるようになってきたぞ」


ミナは実技場の端から、2人の足元を見ていた。


「下がりすぎ」

「どこで?」

「最初」

「最初からか」

「1歩目で決まってる」


レオンは開始位置へ戻る。

ガルドが動いたあとに逃げ道を探していた。

それでは遅い。

相手が来る前に、自分がどこへ動けるかを決める必要がある。


次は、右後方へ下がれる位置を残して構えた。

ガルドが正面から来る。

レオンは半歩だけ右へ動く。

ガルドが進路を変える。

その瞬間に右後方へ下がった。


肩へ伸びた手が届かない。

ガルドがさらに踏み込もうとして、姿勢が前へ傾く。

レオンはその腕へ触れた。


「今のは取られたな」


ガルドはすぐに開始位置へ戻る。


「でも、次は右後ろを塞ぐぞ」

「同じ動きを繰り返すつもりはない」

「いいな。もう1回だ」


その日の訓練で、レオンはガルドから12回触れられた。

レオンが先に触れられたのは4回。

勝敗だけなら、大きく負けている。


それでも最後の数回は、糸を使う前提で動かなかった。


翌日は、ミナが木製の短剣を持った。

ガルドより身体が小さく、足音も少ない。

ミナは正面から近づかず、レオンの視界の端を通って肩を狙った。


最初の5回は、触れることすらできなかった。

レオンが足音へ反応すると、ミナは動きを止める。

視線へ反応すると、別の方向へ進む。


「見すぎ」


ミナが言う。


「どこを?」

「全部」

「減らすなら?」

「近いところ」


視線、肩、足、武器。

すべてを同時に追おうとして、判断が遅れている。

レオンは見る場所を、ミナの腰へ絞った。


細かな動きは分からない。

だが、身体全体がどちらへ進むかは見える。


ミナが左へ動く。

レオンは追わず、右手の短剣が届く範囲だけを守った。

ミナが途中で切り返す。

肩を狙って踏み込んだ瞬間、レオンは短剣を伸ばす。


互いの武器が触れた。


初めて、ミナの短剣を止められた。


3日目には、左手の感覚は戻っていた。

治療室でも、短時間なら魔法を使ってよいと許可された。

ただし、細かな振動を何度も繰り返すことは禁止された。


レオンはゼロスレッドを使った。

だが、最初から伸ばし続けることはしなかった。


ガルドとの訓練では、糸を使わずに2回避け、3回目だけ地面へ固定して身体を引いた。

ミナとの訓練では、見える糸を1本伸ばしたまま、別の方向へ足で動いた。


糸を使えば動ける。

糸がなければ動けない。


その差をなくすことはできない。

だが、糸を使わない時間を相手に見せれば、次に使う瞬間を隠せる。


順位戦の前日。


レオンは第2実技場の観客席に座り、ノアの練習を見ていた。

ノアは細身の訓練剣を振りながら、周囲へ小さな水球を浮かべている。

剣を振るたび、水球の位置が変わった。

正面を塞ぐもの。

背後へ回るもの。

足元で弾け、地面を濡らすもの。


ノアは水だけで戦うつもりではない。

剣と水を同時に使い、レオンが糸へ意識を向けた瞬間を狙っている。


練習を終えたノアが、観客席を見上げた。


「隠れているつもりか?」

「隠れていない」

「対策はできたか?」

「候補はある」

「自信がない言い方だな」

「試していないものに自信は持てない」

「明日、試せる」


ノアは剣を鞘へ戻した。


「糸を使わなければ、俺に勝てない」

「そうかもしれない」

「否定しないのか?」

「使わないとは言っていない」


ノアの目が、レオンの左手へ向く。

布はすでに外れている。


「治ったようだな」

「ああ」

「なら、遠慮はいらない」

「最初から求めていない」


短い応酬のあと、ノアは実技場を出ていった。


レオンは誰もいなくなった訓練場を見る。

水に濡れた地面。

剣が届く距離。

水球が浮かんでいた位置。


匿名の紙には、見せる糸に頼るなと書かれていた。


見える糸を使わないという意味ではない。

見せた糸だけを、自分の選択肢にしなければいい。


糸を使う。

糸を使わない。

使えるのに、まだ使わない。


そのすべてが選べなければ、ノアの水からは逃れられない。


順位戦は、明日だった。

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