第43話 濡れた糸
文章の書き方を変えました。
読みにくい、こうして欲しいなどあればご連絡ください。
順位戦の受付が始まった日の放課後。
レオンが教室を出ようとすると、背後から名前を呼ばれた。
振り返ると、細身の訓練剣を腰に下げた男子生徒が、申請用紙を片手に立っている。
青みがかった髪。細い目。乱れのない制服。
Dクラス24位、ノア・ウェルズだった。
「レオン・アーヴェル。俺と順位戦をしろ」
「俺は28位だ」
「だから申し込んでいる」
「理由は?」
「お前の糸が、水の中でも使えるのか確かめたい」
ノアは申請用紙を差し出した。
すでに挑戦者の欄には、ノアの署名がある。
順位が上の生徒から下の生徒への申請も認められている。ただし、その場合でも勝敗による順位の入れ替えは発生する。
ノアにとっても、安全な試合ではなかった。
「俺が勝てば、順位は入れ替わらない」
「分かっている」
「お前が負ければ、得るものは少ない」
「試したい相手と戦える」
ノアは迷わず答えた。
レオンは申請用紙を受け取る。
「水で糸を探すのか?」
「試合の前に答えると思うか?」
「思っていない」
レオンが承諾欄へ名前を書くと、ノアは用紙を受け取った。
「試合は6日後だ」
「ああ」
「それまでに、左手を壊すなよ」
ノアは教室を出ていった。
最後の言葉だけが、レオンの中に残った。
左手を多く使うことまで、すでに見られている。
翌日の昼休み。
レオンは中庭の端へ、水を張った小さな桶を運んでいた。
その隣には、訓練用の道具を手入れするための刷毛が置かれている。
ガルドは刷毛を水へ浸し、余分な水を桶の縁で落とした。
ミナは少し離れた場所に立ち、レオンの左手から伸びるゼロスレッドを見つめている。
長さは約2メートル。
陽光を受けても、意識して見なければ気づかないほど細い。
「やってくれ」
ガルドが濡れた刷毛を振った。
細かな水滴が空中へ散り、レオンの頬や制服へ降りかかる。
同時に、何もないはずの空間へ細い水の筋が浮かび上がった。
ゼロスレッドへ付着した水滴が陽光を反射し、糸の位置を露出させている。
「見えるな」
ガルドが糸へ顔を近づける。
「砂よりはっきりしてる」
「ミナ」
「全部見える」
ミナの目には、糸そのものだけではなく、内部を流れる魔力も映っている。
普段は空気の中へ紛れている細い糸が、水滴によって誰にでも見える状態になっていた。
「ノアは、これを狙うか?」
ガルドが尋ねる。
「使えるなら使う」
レオンは右へ移動した。
糸も指の動きに従って動く。
しかし、付着した水滴は残ったままだった。
糸を大きく振ればいくつか落ちるが、その動き自体が軌道を知らせてしまう。
「切れば?」
ミナが言う。
「張り直す間に使えない」
「なら、短くする」
「ああ」
レオンは糸を50センチまで縮めた。
左手の指をわずかに動かし、糸を細かく震わせる。
水滴が左右へ揺れた。
だが、落ちない。
「もっと強く振ればいいんじゃないか?」
ガルドの言葉に従い、振動を強める。
次の瞬間、糸が弾けるように切れた。
左手の人差し指へ、針を刺したような痛みが走る。
「失敗だ」
「今の音、聞こえたぞ」
「振動が大きすぎた」
レオンは新しい糸を伸ばした。
今度は20センチ。
先ほどより短く、太さもわずかに増している。
ガルドが刷毛を振り、水滴を付着させる。
レオンは左手の指先へ意識を集中した。
大きく揺らすのではない。
糸の根元から先端まで、同じ細かさで振動を伝える。
糸がかすかに震えた。
付着していた水滴の1つが弾かれ、地面へ落ちる。
続いて2つ目、3つ目。
数秒後には、糸の表面からほとんどの水滴が消えていた。
「落ちたな」
ガルドが声を上げる。
「もう1回」
「今ので成功じゃないのか?」
「同じ結果が出なければ使えない」
2回目も水滴は落ちた。
3回目も成功した。
だが、糸を50センチまで伸ばすと、先端付近の水滴が残った。
1メートルでは、途中から振動が乱れた。
2メートルまで伸ばした瞬間、糸が切れた。
レオンの左手が小さく震える。
指を閉じようとしても、動きが遅い。
「魔力の流れが乱れてる」
ミナが言う。
「どこだ?」
「指から手首」
「もう1度確認する」
「駄目」
ミナは短く言い切った。
ガルドもレオンの前へ腕を出し、糸を伸ばす場所を塞ぐ。
「ミナが駄目って言うなら、今日は終わりだ」
「まだ距離を確認できていない」
「左手が動かなくなったら、距離どころじゃないだろ」
レオンは左手を見る。
震えは少しずつ収まっている。
痛みは強くない。
それでも、指先と手首の間に細い熱が残っていた。
「20センチなら3回」
「それで十分だろ」
「ノアの水が届く距離は、もっと長い」
「だからって、今日全部できるようにする必要はない」
ガルドはいつになく真面目な顔をしていた。
「お前、前にも使いすぎて倒れただろ」
「今回は倒れていない」
「倒れるまでやるなって言ってるんだ」
レオンは反論せず、ゼロスレッドを消した。
午後の授業中も、左手の違和感は残っていた。
羽根ペンを握ることはできる。
文字も書ける。
だが、細い線を続けて書こうとすると、指先がわずかにずれた。
授業が終わる頃には震えは消えていたものの、普段と同じ状態ではない。
寮へ戻る前に、レオンは食堂へ寄った。
夕食の時間にはまだ早く、室内に生徒の姿は少ない。
厨房から流れてくる湯気が、窓際の光を白く曇らせている。
レオンは空いている席へ座り、湯気の中へ短いゼロスレッドを伸ばした。
細かな水滴が少しずつ糸へ付着する。
昼休みに刷毛で散らした水より粒は小さいが、糸の輪郭はゆっくりと浮かび上がった。
振動を加える。
20センチなら落ちる。
30センチでも、根元付近の水滴は落ちた。
40センチでは、先端に残る。
レオンはそこで糸を消した。
左手に痛みはない。
しかし、もう1度試せば、昼と同じ熱が戻る可能性がある。
できることと、繰り返せることは違う。
試合で使うなら、1度成功するだけでは足りない。
水滴を落とした直後にも、糸を張り、短剣を動かし、相手の攻撃を避ける必要がある。
今の方法は、対策ではなく候補だった。
「珍しいな。飯も食わずに湯気を見てるのか」
ガルドが食堂へ入ってきた。
両手には、パンと肉の載った大きな皿を持っている。
「水滴を確認していた」
「昼で終わりって言っただろ」
「3回しか使っていない」
「回数の問題か?」
「負担は出ていない」
「出てから止めても遅いぞ」
ガルドはレオンの向かいへ座り、皿を置いた。
「ノアは水属性だ。でも、お前を倒す方法が水だけとは限らない」
「分かっている」
「分かってる顔じゃない」
「どんな顔だ?」
「糸のことしか考えてない顔だ」
レオンは厨房から流れる湯気を見る。
ノアが水滴を使う可能性は高い。
だから水滴への対策を考える。
それ自体は間違っていない。
だが、ノアがそれを予想していないとは限らない。
糸に付着した水を落とすことへ集中させ、その間に別の攻撃を通す可能性もある。
「明日は糸を使わずに訓練する」
「極端だな」
「使えない場合を確認する」
「それなら付き合うぞ」
「盾は使うな」
「なんでだよ」
「糸なしで盾を越えるのは難しい」
「そこを練習するんじゃないのか?」
ガルドの声が食堂へ響いた。
夕食を終え、寮の自室へ戻る。
扉を開けようとしたところで、レオンは足を止めた。
床と扉の間に、細く折り畳まれた紙が挟まっている。
拾い上げ、周囲を見る。
廊下に人影はない。
近くの部屋から話し声は聞こえるが、こちらを見ている者はいなかった。
紙には、1行だけ書かれていた。
『見せる糸に頼るな』
署名はない。
筆跡にも特徴がなく、文字の大きさまで揃えられている。
ノアが置いた可能性。
順位戦を見ている別の生徒。
あるいは、学院のどこかでレオンを観察している者。
忠告なのか。
誘導なのか。
レオンは紙を裏返した。
何も書かれていない。
左手の指先に、昼間と同じ微かな熱が戻ったような気がした。
見える糸。
濡れた糸。
そして、誰かに見られている糸。
順位戦まで、あと5日。
レオンは紙を捨てず、机の引き出しへしまった。
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