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第3話 鉱山行きの前夜

最初は無口な良い親父だと思ってた。



26/07/23 修正

あの日から、七年が過ぎた。


月明かりの届かない森の中を、一人の少年が駆けていた。伸びた黒髪が風に揺れる。背丈はこの七年で大きく伸びたが、身体つきは同年代の少年と比べても細い。


レオン・アーヴェル。


十五歳になった彼の手には、刃こぼれした短剣が握られていた。


背後から、枝の折れる音が響く。


レオンは振り返らない。


音の間隔。地面を踏む重さ。荒い呼吸。


帳面に記録してきた過去の経験と照らし合わせ、追ってくる魔物の動きを頭の中で組み立てる。


速い。


だが、走ることだけに集中している。


こちらとの距離は、およそ十歩。次に右足を踏み込んだ瞬間、飛びかかってくる。


レオンの意識に、習得したスキルの感覚が重なった。


一般(コモン)(クラス)危機察知(デンジャーセンス)


背中に、冷たいものが走る。


来る。


レオンは足を止め、左へ身体を倒した。


直後、頭があった場所を巨大な爪が通り過ぎる。


灰色の獣が、レオンの横を飛び越えた。体長は大人の男の身長ほど。灰色の毛に覆われた身体と、口元から突き出した鋭い牙。


灰牙狼。


群れで獲物を襲う魔物だが、目の前にいるのは一頭だけだった。


灰牙狼は地面を滑りながら着地すると、すぐに向きを変えた。低い唸り声が森の中に響く。


レオンは短剣を構えた。右手には短剣。左手は何も持たず、わずかに前へ出している。


灰牙狼が地面を蹴った。真正面から向かってくる。先ほどよりも速い。


レオンは逃げなかった。


「無属性魔法」


左手の指先から、透明な糸が伸びる。


七年前は、小石すら持ち上げられなかった細い糸。今は月明かりがなくても、レオンにはその位置が分かる。


糸は木々の間に張られ、突進してきた灰牙狼の前脚へ絡みついた。


「ギャウッ!」


灰牙狼の体勢が崩れる。


しかし、倒れない。


前脚に絡んだ糸を力任せに引きちぎり、そのまま牙を剥いて迫ってくる。


想定よりも力が強い。


糸を太くすれば切られなかったかもしれない。だが、太くすれば魔力の消費が増える。最初から足を止めるのではなく、踏み出す位置をずらすだけでよかった。


失敗の原因を理解する。次に変えるべき部分を決める。


戦いの最中でも、レオンが行うことは変わらなかった。


灰牙狼の牙が迫る。


レオンは右足を引いた。


歩法(フットワーク)


重心を後ろへ移し、牙が届く直前に半歩だけ身体をずらす。灰牙狼の口が空を噛んだ。


その首へ、レオンは短剣を振り下ろす。


刃が毛皮に触れた。


だが、浅い。


灰牙狼は首を振り、レオンの身体を弾き飛ばした。背中から地面へ叩きつけられる。肺から空気が抜けた。


すぐに起き上がろうとしたが、右腕に鋭い痛みが走る。爪がかすったらしい。服が裂け、その下から血が流れていた。


灰牙狼がこちらを見ている。


傷を負った。短剣も通らなかった。


それでも、レオンの頭は冷えていた。


毛皮に阻まれた。力が足りない。


ならば、同じ場所を狙えばいい。


レオンは立ち上がり、短剣を握り直す。


灰牙狼が再び駆け出した。


同じ突進。


だが、先ほどとは踏み込みが違う。今度は途中で方向を変えるつもりだ。


レオンは左手を前へ出した。


無属性魔法ゼロスレッド


透明な糸が伸びる。


灰牙狼の前脚ではなく、右側に立つ木の根元へ巻きついた。もう一方の端は、左側の木へ。糸の位置は、地面すれすれ。


灰牙狼が直前で左へ跳んだ。


予想通りだった。


その前脚が、透明な糸に引っかかる。


足を止める必要はない。踏み込む位置を、指一本分ずらすだけでいい。


灰牙狼の身体が傾いた。


レオンは地面を蹴る。


歩法(フットワーク)で最短の距離を進み、灰牙狼の首元へ潜り込む。


先ほど短剣で傷をつけた場所。


そこへ左手を添える。


無属性魔法(ゼロエッジ)


指先から伸びた魔力が、薄い刃の形を作った。


火の熱もない。風の勢いもない。


ただ、極限まで細く圧縮された魔力の刃。


灰牙狼の毛皮に触れる。最初の一撃で傷つけた部分へ、透明な刃が沈んだ。


短い抵抗のあと、硬い毛皮が裂ける。


灰牙狼の身体から力が抜け、そのままレオンの横を通り過ぎた。大きな音を立て、地面へ倒れる。


しばらく脚が動いていたが、やがて完全に止まった。


レオンはすぐには近づかなかった。呼吸を整えながら、離れた場所から様子を見る。


十秒。


二十秒。


灰牙狼は動かない。


ようやく警戒を解き、レオンは傷ついた右腕を押さえた。


「……二十七回目で、ようやく成功か」


灰牙狼と戦った回数ではない。今日、この魔物を仕留めるまでに行った攻撃の試行回数だ。


逃げながら糸を張る。動きを観察する。攻撃を誘導する。同じ場所へ傷を重ねる。


失敗するたびに方法を変え、二十七回目でようやく致命傷を与えられた。


レオンは腰につけていた小さな帳面を取り出した。暗闇の中、慣れた手つきで炭筆を走らせる。


『灰牙狼』


無属性魔法(ゼロスレッド)で完全に拘束するのは困難』


『脚を止めるのではなく、踏み込む位置をずらす』


『毛皮には短剣が通りにくい』


『同一箇所への攻撃は有効』


書き終えてから、レオンは灰牙狼の胸元へ短剣を入れた。魔物の体内から、小さな灰色の石を取り出す。


魔石。


これを町の冒険者組合や商人へ持ち込めば、金に換えられる。


レオンは魔石についた血を布で拭い、腰袋の奥へしまった。そこには同じような小さな魔石が、あと三個入っている。


七年間。


工房で働きながら、レオンは夜になると訓練を続けてきた。


無属性魔法で小石を持ち上げる。木の枝を折る。離れた場所にある道具を引き寄せる。糸を細く圧縮し、切断する。魔力を身体へ流し、動きを補助する。木の棒を剣に見立て、毎日振る。森を走り、足の置き方を修正する。


何度も転び。何度も魔力を使い果たし。何度も腕が上がらなくなるまで繰り返した。


その結果、レオンは新たなスキルを身につけていた。


一般(コモン)(クラス)魔力制御(マナコントロール)


一般(コモン)(クラス)剣術(ソードアーツ)


一般(コモン)(クラス)歩法(フットワーク)


一般(コモン)(クラス)危機察知(デンジャーセンス)


最初から持っていた反復作業(ルーティン)を含め、合計五個。


数だけなら、この世界の平均をわずかに上回る程度だ。すべて一般(コモン)(クラス)。鑑定結果だけを見れば、優秀とは言えない。


だが、レオンは知っている。


スキルの階級は、所有者が積み重ねた技量のすべてを示すものではない。


剣術(ソードアーツ)を持っているだけで、剣の達人になれるわけではない。同じ一般級でも、昨日発現した者と、何万回も剣を振った者では扱い方が違う。


階級が同じなら、差がない。この世界の人間は、そう考えている。


レオンにとって、それは都合がよかった。


自分がどれほど訓練したのか。何ができるのか。


教会の記録だけでは、誰にも分からない。


灰牙狼の死体を茂みの奥へ隠し、レオンは町へ戻った。


城壁の門が閉まる直前に、レオンは中へ滑り込んだ。門番へ頭を下げ、石畳の道を歩く。


すでに市場の店はほとんど閉じている。酒場から漏れる笑い声と、家々の窓からこぼれるろうそくの明かり。遠くには、夜の町を見下ろす領主の城があった。


レオンは人通りの少ない裏道へ入り、小さな道具店の扉を三回叩いた。


しばらくすると、扉がわずかに開いた。


「遅かったね」


隙間から顔を出したのは、白髪の老女だった。


道具店の主人、マーサ。レオンが森で手に入れた薬草や小さな魔石を、素性を聞かずに買い取ってくれる人物だ。


「少し手間取りました」


レオンは腰袋から三個の魔石を取り出した。


灰牙狼の魔石だけは残してある。あれほど大きな魔石を十五歳の少年が持ち込めば、どこで手に入れたのか疑われる。


マーサは魔石を明かりに透かし、状態を確認した。


「小型魔物が三体分。銀貨二枚と銅貨七枚だね」


「お願いします」


硬貨を受け取ったレオンは、その場で枚数を確かめた。


マーサが片方の眉を上げる。


「相変わらず細かい子だ」


「確認は必要です」


「十五歳になったばかりとは思えないね。明日だったかい?」


レオンの手が止まった。


「何がですか」


「とぼけるんじゃないよ。北の魔石鉱山から迎えが来る日さ」


レオンは硬貨を袋へ入れた。町の中では、すでに知られているらしい。


「その予定です」


「あそこへ行けば、長くは生きられないよ」


「行きません」


マーサは目を細めた。


レオンは懐から、折りたたまれた紙を取り出した。紙の端は何度も開いたため、少し傷んでいる。中央には王家の紋章が押されていた。


王立魔法学院。


入学試験の受験許可証。


受験料は銀貨三十枚。レオンが七年間、工房の仕事とは別に稼ぎ、少しずつ蓄えてきた金の大半を使った。


「明日の朝、町を出ます」


「王都まで歩けば、二十日はかかるよ」


「試験までは二十八日あります」


「道中には盗賊も魔物もいる」


「準備はしました」


マーサは小さくため息をついた。


「本当に、昔から可愛げがないね」


そう言いながら、棚の奥から小さな革袋を取り出した。中には、乾燥させた薬草と包帯が入っている。


「持っていきな」


「代金は」


「いらないよ。帰ってきたら、そのとき払っておくれ」


帰ってきたら。


鉱山へ送られるレオンに、そんな言葉をかけた者は今までいなかった。


レオンは革袋を受け取った。


「……必ず払います」


「そこは、ありがとうございますと言うところだよ」


「ありがとうございます」


マーサは満足そうに笑い、扉を閉めた。


工房へ戻ると、炉の火はすでに消えていた。


レオンは音を立てないよう裏口から入り、屋根裏にある自分の寝床へ向かう。


古い毛布。木箱で作った机。七年間で書きためた帳面。壁際には、小さな旅袋が置いてある。


中に入っているのは、着替え、保存食、火打ち石、短剣、包帯。そして、王立魔法学院の受験許可証。


準備は終わっていた。


夜明け前に工房を出る。グレゴールには何も告げない。話せば、必ず止められる。


レオンを鉱山へ引き渡せば、グレゴールには紹介料が支払われるからだ。


レオンは机へ向かい、最後の帳面を旅袋へ入れようとした。


そのとき。


屋根裏へ続く階段から、重い足音が聞こえた。


一歩。


二歩。


三歩。


扉が乱暴に開かれる。


立っていたのは、グレゴールだった。その後ろには、見知らぬ男が二人いる。


革鎧を身につけ、腰には剣を下げていた。胸元には、黒い山をかたどった印。


北の魔石鉱山の紋章だった。


「荷物までまとめて、どこへ行くつもりだ」


グレゴールの視線が、旅袋へ向けられる。


「迎えは明日の朝だと聞いていました」


レオンが答えると、見知らぬ男の一人が笑った。


「逃げる奴が多いんでな。予定を早めた」


もう一人の男が、腰の剣へ手を置く。


「さあ、来てもらおうか」


レオンは男たちの立ち位置を確認した。


階段を塞ぐ者が一人。扉の横に一人。背後には窓。


地上までは、およそ五メートル。


逃げ道を考える。戦った場合の危険を考える。そして、荷物の一番上に置かれた受験許可証を見る。


十五歳になれば、鉱山へ送られる。


七年前から決められていた運命。


だが、その運命に従うつもりはない。


レオンはゆっくりと立ち上がった。


「グレゴールさん」


「あ?」


「七年分、育ててもらったことには感謝しています」


グレゴールの顔に、わずかな笑みが浮かぶ。レオンが諦めたと思ったのだろう。


「ですが――」


レオンは左手の指先へ、透明な魔力を集めた。


「俺の人生を決める権利まで、あなたに渡した覚えはありません」


この親父は絶対ハゲてる。

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