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⑵ あの婚姻届は……

 仕事が終わったら、どこかで待ち合わせて一緒に帰ろうと約束していたのだが、明里は配属先の件で呼び出され、私は先に帰宅する事となった。


 バスルームを清掃し、バスタブにお湯を入れていると、玄関扉の開く音がした。


「ただいま」

「ああ、おつかれさま」


「おじさん」

「……はい」


「今日、昼食の後、水瀬部長に声をかけられまして……」

「碧が?」


「私達の会話が聞こえていたら、私の悪戯でしたので、ごめんなさい。気にしないで下さいって……」

「あ……ああ」

 明里の眼が笑っていた。


 そして通勤バックから、1枚のクリアファイルを取り出した。

「これ、お返しします」

 明里は私に、そのクリアファイルを手渡した。


 そのクリアファイルに挟まれていたもの。

 それは、6年前に私が明里に渡した婚姻届だった。

 そこには明里の名前が書かれており、その時、4年後を記載した届け出日には二重線が引かれ、明里の訂正印が押されていた。


「おじさんが6年前、私が大学院へ入れたら、届け出日は6年後に書き直そうって言われました」

「……ああ」


「実際私も、研究室に入ってからは余裕がなくて……」

「……ああ」


「無事、おじさんの職場に就職出来ましたので、おじさんの気持ちが整いましたら、届出日を書いて提出して下さい」


 この先の将来を預けた明里が、今度は私に、この先の将来を預けてきた。

 私は明里に言った。

「返してくれって言っても、返さんぞ」


 明里はにっこり笑って言った。

「はい。おじさんに、その気持ちがありましたら」


 ……そう。私はあの時、明里はまだ若いから、将来を見通せないから、この先の4年間で良く考えてくれ、と言ってこの紙を渡した。

 しかしそれは、判断を明里に押し付けて……本当に覚悟が出来ていないのは、私の方だった。


 明里はこの先も、私に連れ添ってくれるのだろうか。

 私は明里の心を、この先も繋ぎ止める事が出来るのだろうか。

 明里が離れていくこの先を、どうしてもイメージしてしまう。


 明里はそれを見透かしていたのだろう。

 だから、今度は私に預けてきたのだ。


「わかった。明里との将来、しっかりと預からせてもらう。私が自分の中で、明里との結婚に踏み切れるまで、待っていてくれ」

「はい。待ってます」

 明里は、そう言ってくれた。


「……で、大学院を卒業してから今まで、明里はどうしていたのだろう」

「荷物を実家に送って整理していました。会社へは、実家から通勤している事になってます。整理した荷物、またあの部屋へ持ち込んでいいですか」


「ああ、あの部屋はあのままずっと、明里の帰りを待っている」

 明里は私の胸に頭を押し付けてきた。


 そして、明里は今までの事を話してくれた。


「おじさんの職場に入れなかった時は、このままおじさんの前から消える覚悟で、私はこの部屋を出ました」

「……なんで?」


「おじさんが、職場で泊まり込んで仕事していた時、私はここで、おじさんの事を考えていました……そして私の頭の中では、いつもおじさんの隣に、碧さんがいるのです」

「……碧とは、仕事の上での仲間として」


「はい解っています。でも私の頭の中では、おじさんの隣に、私はいないのです」

「……」

「そして、おじさんが東北の研究所に赴任してからも、ここでおじさんの事を考えていました」

「……」


「でも、こんな事では、これからもおじさんの帰りを、ただ待つだけの毎日が続いてしまう。そう感じた時、私はこの部屋から逃げ出しました。この部屋の合鍵をお守りとして持って」

「……」

「私はこのお守りに誓いました。必ずここへ帰って来る」


 私は、その場で明里を抱きしめて言った。

「帰って来てくれて、ありがとう」


 ・・・・・・


 その後、久しぶりに明里と夕食を頂いた。

 入浴を済ませ、ベッドで横になっていると、明里が枕を抱いて扉をノックした。


 上向きに寝ている私の右側から布団の中へ入ってきて、小声で訊ねた。


「エッチは、いつ解禁になるのですか?」

 やばい、やばい、やばい。


 続けて明里が言った。

「まさか、婚姻届けを出すまでは、なんて事、言い出しませんよね」

「……」


「何か事情があるのですか?」

 私は、頭に浮かんだ懐かしい言葉を返した。

「どの様な想像しているか知りませんが、おそらく絶対違います」

 明里は、クスッと笑って私に体を寄せてきた。


 ……やばい。

 明里も社会人になった。

 さすがに……このままという訳にはいかない。


 私は、明里のきわどい所が目に入る度、途端に心拍数が跳ね上がり、私の私自身はとんでもない事になってしまう。


 しかし、どういった事だ。

 今の様に、いざという時になると、私の私自身は借りて来た猫の様におとなしくなってしまい、とても明里のお相手は出来ない。


 明里と交わろうとすると、まるで女神様を相手にするかの様に、淫らな欲情は浄化されて何も出来なくなってしまう。


 私の中で、明里を神聖化してしまったのか。

 それとも、今までの長年のプレッシャーが、私を抑え込んでいるのか。


 私は布団の中で考えた。

 明里の服を剥がして裸にしたら、私のエクスキャリバーは戦闘モードへ移行するだろうか。


 いや、神々しい裸を前に、ちっぽけな私自身は立ち直れなくなるだろう。


 どうしたらいい。

 ……どうしたらいいんだぁ。


 私は右手を明里の首から背中にまわして、手の平を明里の腋へ滑り込ませた。

 なんとかしなければ……。

 なんとかして、明里と交わる事が出来るようになったら……婚姻届を出そう。


次回:(第14章 終話)私に何をされているのでしょう

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