言葉 ~インターミッション~
気にしない気にしない。
違いは命!
耳鳴りがひどくて、思わず泣いてしまう。
そんな僕を心配して、先生は連絡帳に様子を書いてくれた。
小学生の僕は、気持ちのすべてを言葉にできなかった。
感情は次々と現れて消えていく。
気持ちは?と聞かれても、気持ちになる前の感情はもう散ってしまっていた。
感情は鳥のよう。
胸の中に現れる鳥を網で捕まえて観察したいのに、それらは飛んでいってしまう。
心の奥の、その更にもっと奥のところからゆらっと浮かんで、淡く形になったとしても、感情は言葉に置き換える前に散ってしまう。
ましてや!文字など、全く遅くて話にならなかった。
この手が追い付かない。
淡いものが消えてしまう前に、感情の鳥たちが逃げていってしまう前に、何とか文字に残したい。
そう思うと鉛筆を持つ指が力んで、一文字書くだけで手が痛み、文章を書き終える頃には体がくたくたになった。
全体的に出力不能の感がある、小学四年生の僕。
そもそも、僕は三才の時の検診で腹をたてた。
医師がいて、おもちゃをぼくに振ってみせる。
おもちゃを振ると鈴の音がして、だからなんだと僕は思う。
少し腹も立った。
そんなものより、医師の胸に下がる銀色の丸い円盤を見せて欲しいと思った。
じっと円盤を見ていたら、医師は首を傾げながら帳面に判子を押して母親に渡した。
その時の母親の顔を忘れることはできない。
幼稚園に入り、そこでは先生が絵本を読んでくれるのが何より好きだった。
絵本の内容に合わせて部屋の明かりをつけたり消したりしていたら、先生がこの状況を心配して母親を呼び、話し合いをしたようだ。
皆もきっと喜ぶだろう、先生も読みやすくなるだろう、と思ってやったのだけど。
僕は体の使い方がよくわかっていなかったようだった。
体を持ち、いちいち体に指示を出し、体によって目的を完遂させる。
難しかった。
体を持つことそのものがとてももどかしくて、意思をそのまま叶えてくれない自分自身が嫌になった。
苦しさは足のふくらはぎの強張りとなって現れた。
周りの大人たちは、僕の苦しみややりづらさに名前を付けた。
その方が僕を助けてあげられるからという事だった。
その名前に合わせて、小学校では特別なカリキュラムを受ける事になった。
そしてこの日、僕の耳は雑音だらけでひどいものだった。
ザーザーと音が鳴りっぱなしで人の声が聞こえない。
そのうち耳の奥でキーンと鳴り出した。
苦しかったけども我慢していた。
だって、何て言っていいかわからないから。
頭のなかではいくらでも言葉は紡げるけど、それを声に置き換えることがその時の僕にはとても難しかった。
苦しさのあまり、とうとう僕はわあわあ泣きながら教室の床にひっくり返った。
教室の床に仰向けになり、天井を見ながら、母親の顔を思った。
ごめんね、お母さん。
そう思ったら、悔しくて悲しくて、自分を打ちたくなったけど、
母親が悲しむのでそれもできない。
僕は、出力不能の自分を好きではなかった。
耳の事で母親は僕を病院に連れていってくれた。
検査をするために、大きな機械の中に寝て過ごした。
機械が作動して、僕は顔をしかめた。
耳の奥で小さな小石が3つくらい、震えているように感じたからだった。
うっ、と声を喉で堪えた。
なんで、なぜ僕はこんなに、皆のようにすましていられないのだろう。
そう思ったら涙がこぼれた。
言葉にできたら、こんなに苦しくないのかもしれない。
何故なんだろう。
3才の時、おもちゃの鈴の音を面白いと思っていたら、
こんなに苦しくなかったかもしれない。
あの医師の先生の胸にあった、銀の円盤。
(あれは聴診器というんだ)
僕は、あれをよく見たかっただけなんだ!
“はやく大きくなれ”
声が、聞こえた気がしたんだ。
お父さんのような、男の人の声。
でもお父さんじゃない。
“肉体の成長が優先だな”
機械の中で、何かが速く廻るような音がした。
“我らが会うのは、初めてでは、ないぞ”
円盤が廻る。医師の胸の円盤が高速で廻る。
右に左にまわって銀の珠になる。
夢を、見ているのだろう。
銀の珠、発光して、目の前が明るい。
銀の珠は大きくなって僕を包む。
僕、もう、帰りたいよ
帰りたいんだよ
涙がこぼれた。
“君は君だ”
銀の珠の奥、声のする方を見ると、僕くらいの背丈の子供がいた。
“使って”
行ってしまう。誰なんだろう。
“君は、つよいよ”
その子は笑った。
待って。行かないで。僕、さみしかったんだ!
“君が君であることが大切なんだ”
その子は光輝きながら輪郭が熔けていって、いなくなってしまった。
また、男の人の声がした。
“肉体の成長が優先だ”
かっこいいなあ。
戦隊ヒーローのブルーみたいだ。
僕もあんなふうになれるのかな。
でも僕は変だから、もう大きくなれないかもしれない。
そう思った直後、「でも待てよ」と、
なにやらムムムと苛立って来た。
そうだ。
僕は悪いことなどしてなかった。
変わっているけど悪くなんてないじゃないか。
ムカムカしてきた。
繊細?
精巧にできているだけだよ!
守ってくれなくてもいい!
そう。
僕はもう、鉄壁の守りは要らない。
自分で選べる。
選べるんだ。
一時間くらいかかるよと説明を受けていたから、
50分くらい寝ていた事になる。
MRI検査の最中に見た夢を、僕は思い出していた。
結局、耳に異常は無かった。
生まれついての血管と神経の配置。そこにわずかなものはあったが、僅かであるから原因とは考えないという事だった。
そんなもんか、と思った。
あれから何年も経って、僕は自分の事がだいぶわかってきた。
耳鳴りは疲れたときに出る。
耳鳴りが収まると、できなかったことができていたりするから、
何か調整をしているのだと思うようになった。
足の強張りは、呼吸を止めていたから起きていた。
息を止めて、緊張させることで力を出そうとしていた。
今は、呼吸は意識して吐く。
緩めば緩むほど、パフォーマンスは上がる。
文字を書く作業は変わらず、思いに追い付かない。
それだけたくさんのものを、僕は出せていない。
文字を手で書くことは、僕にとって最適な表現方法、ツールではない。
文字は音声で入力した方がまだまし。
映像で表現するのもいいみたいだ。
肉体の成長が優先。
確かにそう聞こえた。夢の中の声。
君は、つよいよ。
あの子は言ってくれた。
あの頃、誰にも言われたことのない言葉だった。
だから、僕もそうだと思い込んでいたんだな。
玄関の片隅に座って靴の紐を結び終わり、仕上げにきゅっと蝶の形にする。
よいせ、と立ち上がったら、後ろで僕を見送る母さんが笑った。
心の奥から淡いものが立ち上って来るのを待つ。
感情が生まれ、形になる。
感情は色と形を持って現れて、僕はそれに音を当てる。
心で生まれた思いが喉を通って音声になる。
喉から波を発する。
この感情にふさわしい音で喉を震わそう。
「ありがとう、お母さん」
母親の、母さんの顔を見た。
僕は何もしていないのに、なんて嬉しそうなんだろう。
「行ってきます」
僕は思いを音にすることに慎重なんだ。
ただ、それだけだったんだよ。
僕は家を出て、駅まで歩く。
風が吹いて、心地よかった。
僕は僕なんだ。
ただそれだけなんだ。
「本当に、それだけなんだ」
僕は胸を張る。
そして、子供の頃の自分に「ありがとう…」と言った。
わかり会えないところから始めてみる。
仲良くしなくても良いようですよ。