ひらがなを覚える魔王と、残された二つの願い
夏の小樽。斜めに差し込み始めた西日が、安アパートのリビングの薄いカーテンを茜色に染め上げていた。
遠くから、カモメの鳴き声と運河の方を走る車のエンジン音が、くぐもった生活音として微かに聞こえてくる。
扇風機が首を振りながら、ミィィィ、と安っぽいモーター音を立てていた。
「……よし、アイリーン。とりあえずこれでも見ておけ」
陽は、リビングのちゃぶ台の上に置いた古いノートパソコンを操作し、動画共有サイト『YouTube』を開いた。
画面には、ポップでカラフルな色彩の、幼児向けの知育アニメーションが映し出されている。
『あ、い、う、え、お! りんごの「り」!』
ピコピコという陽気な電子音と、かわいらしい動物のキャラクターが、画面の中でぴょんぴょんと跳ね回っていた。
『おおおおっ……! ご主人様、この光る板の中に、小さな生き物たちが封じ込められていますぅ! しかも、見たこともない奇妙な言語を喋りながら、狂ったように踊っているではありませんか!』
アイリーンは、ちゃぶ台の前に正座し、ノートパソコンの画面から数センチの距離まで顔を近づけて、赤と青のオッドアイをキラキラと輝かせていた。
うねるような深紅のロングウェーブヘアが、床にまで垂れている。絶世の美女であり、かつて異世界を恐怖に陥れた魔王の姿としては、あまりにもシュールな光景だった。
「封じ込めてねぇよ。これは動画って言ってな、あらかじめ記録された映像が流れてるだけだ。お前、日本語が全くわからなくてずっと念話頼りだろ? とりあえず、この幼児向けのアニメでも見て、少しはこっちの言葉を覚えろ」
『はひぃっ! ご主人様からの直々のお勉強の命令、身に余る光栄ですぅ!』
アイリーンは画面に釘付けになりながら、見えない尻尾でも振らんばかりの勢いで喜んでいる。
『あ、い、う、え、お!』
『あ! い! う! え! お! ……ですぅ!』
アイリーンが、アニメの音声に合わせてたどたどしい発音を繰り返す。
魔界を統べていた元魔王が、小樽の安アパートでひらがなの練習をしているのだ。
天井の隅でプカプカと浮いている神界特製の全方位カメラ――『光の玉』たちも、この異様な光景を前に沈黙しているようだった。
「……はぁ。本当に、ただのペットだなこいつは」
陽は、美しい金髪の長い髪をかき上げながら、おっさん特有の低い声でボソッとボヤいた。
四十九歳の元高校教師だった己の魂が、一七五センチの絶世の美少女勇者・クレアの肉体に入ってしまってから、日常のすべてが狂っている。
しかし、この非日常にも、不思議と順応し始めている自分が恐ろしかった。
ガチャッ。
「ただいまーっ!」
玄関のドアが開く音と共に、底抜けに明るい声が飛び込んできた。
愛する妻、祭である。
「おう、祭。おかえり」
「オクサマぁっ! おかえりなさいませぇっ!」
陽が立ち上がると同時に、アイリーンもパソコンからバッと振り返り、異世界の言葉でそう叫ぶなり、四つん這いになって玄関へ向かって猛ダッシュした。そして、靴を脱ごうとする祭の足元にスリスリと頬をすり寄せる。
「わっ! もう、アイリーンったら、犬みたいにくっついてこないでよ。汗かいちゃってるんだから」
祭は一瞬きょとんとしたが、意味は分からなくても出迎えの気持ちだけは伝わったらしい。苦笑いしながら、アイリーンの頭をポンポンと撫でた。
タイトなジーンズとTシャツ姿の彼女は、昼間の惣菜屋でのパート勤務を終え、うっすらと汗をかいていた。
「お疲れさん。外、暑かっただろ」
「うん、今日も小樽はいい天気だったわよー。あ、ごめんね、私すぐに出なきゃいけないの。夜はイタリアンのバイトがあるから」
祭は風のようにリビングを横切り、寝室へ駆け込んで着替えを始めた。ドタバタと慌ただしい足音が響く。
数分後、彼女はイタリアンレストランのシックな黒い制服とエプロン姿に着替えて飛び出してきた。
「はい、これ! 今日の惣菜屋の売れ残り! 廃棄になっちゃうからもらってきたの」
ドンッ、とちゃぶ台の上に置かれたのは、スーパーの透明なパックに入った大量の惣菜だった。
唐揚げ、ポテトサラダ、メンチカツ、ひじきの煮物、そして特大のオムライス。
「うおっ、すげぇ量だな」
「炊飯器にご飯セットしてあるし、お湯注げばできる簡単なインスタントのお味噌汁も作っておくからね。二人でちゃんと食べてね!」
祭は玄関で黒いパンプスを履きながら、振り返って太陽のような笑顔を向けた。
「じゃあ、行ってくるね! 二人とも、いい子でお留守番していてね!」
バタン、とドアが閉まる。
「……おいおいおい」
陽は、閉まったドアに向かってボヤいた。
「俺は子供じゃないっての。中身は四十九歳のおっさんだぞ……」
だが、そのボヤキとは裏腹に、陽の心の中にはじんわりと温かいものが広がっていた。
自分が植物状態になっていた間、祭は一人でこの家計を支え、絶望の中で働き続けていたのだ。
そして今も、女の身体になった夫と、居候の魔王を食わせるために、昼も夜も身を粉にして働いてくれている。
かつての教え子であり、二十歳も年下の妻に、どこまで苦労をかければ気が済むのだろうか。
「……本当に、頭が上がらねぇよ」
陽はちゃぶ台に戻り、山積みにされた惣菜のパックを見下ろした。
「それにしても……多すぎるだろう、これ。何人前だよ」
カサカサとパックを開けながら、陽は中身を確認する。
唐揚げはニンニクがガツンと効いた醤油味。メンチカツは手のひらほどのサイズがあり、ポテトサラダには厚切りのベーコンがゴロゴロと入っている。
どれもこれも、四十九歳の男だった陽の、大好物ばかりだった。
「……祭のやつ、俺の好みを完全に把握してるからって、こんなにいっぱい出されたら太るだろうが。だから俺は、毎年健康診断の脂質異常で引っかかるんだよ……」
陽は、おっさん特有のねっとりした口調でボヤきながらも、割り箸を割った。
今の身体は、レベル99の勇者である。どれだけ食べても太らないし、内臓脂肪がつくこともないファンタジーボディなのだが、四十九歳のおっさんの魂は、カロリー計算を怠らない。
『ご主人様! これは、あの「そーざい」という現世の至高の料理ですね!?』
アイリーンが、ちゃぶ台の反対側でヨダレを垂らしながら身を乗り出してきた。
「ああ、そうだ。お前も食え。ただし、フォークでな」
陽がフォークを渡してやると、アイリーンは『いただきますぅ!』と念話で叫び、唐揚げに豪快に食らいついた。
サクッ、ジュワァァッ。
『……っ!? ひぎぃぃっ!!』
唐揚げを噛み締めた瞬間、アイリーンのオッドアイがカッと見開き、全身を震わせた。
「おい、どうした? 骨でも刺さったか?」
『ち、違いますぅ! この、衣のサクサクとした食感の後に、中から溢れ出す熱い肉汁……! そして、鼻に抜ける香ばしいニンニクの香り……! お、美味しい、美味しすぎますぅぅっ! 魔界のオークの丸焼きなど、ただの泥水ですぅ!』
アイリーンは、涙をポロポロと流しながら、感動的な表情で唐揚げを貪り食っている。
「大げさなんだよ、お前は……。ただのスーパーの惣菜だぞ」
陽も、メンチカツをつまみながら、ほかほかの白飯をかき込んだ。
「……うん、美味いな。やっぱり、祭が持ってきてくれた飯は最高だ」
結局、陽はボヤきながらも、アイリーンと一緒に山のような惣菜をペロリと平らげてしまった。勇者の肉体の燃費は、おっさんの想像以上に良いらしい。
食後の温かいインスタント味噌汁をズズッとすすりながら、陽は天井を仰ぎ見た。
(とりあえず、俺の戸籍の取得だな……)
自分が『大暮陽』であると証明できなければ、仕事もできないし、銀行の口座も動かせない。現世では完全に「死亡扱い」になっているのだ。
(天界のディレクター連中と女神が、魔王を倒した報酬として、あと二つ願いを叶えてくれると言っていたな……)
一つ目の願いは『祭の元へ帰る』ことだったが、ディレクターの横暴でこんな女の身体のまま送り返されてしまった。
(あとの二つの願い……。どう使うべきか)
陽は、ちゃぶ台の上で腕を組んだ。
自分の元の男の身体を取り戻すことも考えたが、すでに現世の肉体は消滅してしまったと言われていた。
(だったら、俺の願いは……ただ、安らかに過ごしたい。それだけだ)
陽の脳裏に、ボロボロになって働く祭の姿が浮かぶ。教え子だった彼女と結婚して、幸せにしてやると誓ったあの日。
(妻を、しっかりと養いたい。今まで、俺が倒れてる間に苦労をかけた分、いっぱい旅行に連れて行って、美味いものを腹いっぱい食べさせたい。宝石とか、オシャレな服とかも、山ほど買ってあげたい……)
結婚して十年。元高校教師の平凡な男だった陽は、祭に贅沢なんて一つもさせてやれなかった。
(俺は、ダメな男だ……。妻に苦労ばっかりかけて。……って、今は女の身体なんだけどな!)
陽は、自分の規格外の巨乳をぽすんと叩き、自嘲気味に笑った。
その時だった。
『……ご主人様』
食器を片付けていたアイリーンが、ピタリと動きを止めた。
彼女の猛禽類のようなオッドアイが、鋭く細められ、窓の外の暗闇を睨みつけている。
「ん? どうした、アイリーン」
『覗き見している奴がいます。ご主人様! 二人の愛の巣に、不届き者が!』
念話の声が、元魔王としての冷酷な響きを帯びていた。
「おい、待て待て。お前との愛の巣ではないぞ! 勘違いすんな!」
陽が即座にツッコミを入れる。
『当たり前じゃないですか。ご主人様とオクサマの、尊い愛の巣です。私は、そのお二人の足元でおこぼれを頂戴する、しがない愛玩動物ですから!』
アイリーンは、真顔で胸を張って言い切った。
「……お前、分かっているんだっていうか、それに完全に納得しているんだな?」
『はい! ご主人様のことも、いつもご飯をくれて世話を焼いてくれるオクサマのことも、お二人とも愛しています! だからこそ、この神聖な領域を覗き見している奴は万死に値します。……殺してきて良いですか?』
アイリーンの手の中に、漆黒の魔力がバチバチと音を立てて収束し始めた。彼女は本気だった。
「いや、殺すな!! ここは日本の小樽だぞ! 殺人事件なんか起こしたら、俺たち一発で刑務所行きだ! 警察の厄介になったら戸籍がないのがバレて終わりだ!」
陽は慌ててアイリーンの両腕を押さえ込んだ。
「ていうか、俺には全く気配が分からないぞ。……どこだ?」
アイリーンは、陽の手をギュッと握り返した。
『ご主人様、私の感覚を共有します。念視です』
スゥッ……。
陽の脳裏に、アイリーンの視覚情報が直接流れ込んできた。
アパートの外。街灯の光が届かない電柱の陰に、ジッとこちらを見上げている『何か』の気配が、赤い輪郭としてぼんやりと浮かび上がっている。
はっきりとした人物像までは見えないが、確かにそこに『意識』が存在していることがわかった。
「……なるほどな。確かにいる。でも、俺にはこの距離じゃ誰かわからねぇ」
陽はアイリーンから手を離し、真剣な顔で問いかけた。
「殺さないで、傷つけずに捕まえてこれるか?」
『簡単ですぅ。あの気配の淀み方……魔力波長からして、レベルはあの程度なら10くらいでしょう。赤子の手をひねるより容易いです』
「レベル10……?」
陽は首を傾げた。
「そういえば、俺のこの身体、勇者クレアのレベルは99だよな。お前はいくつなんだ?」
アイリーンは、ふふん、と自慢げに胸を張った。
『私ですか? 私はレベル150です』
「……はぁ!?」
陽は素っ頓狂な声を上げた。
「お前、俺よりもめちゃくちゃ上じゃねぇかよ!! なんでレベル99の俺がお前に勝てたんだよ!」
『元魔王ですからね、ステータスの限界突破くらいしていますよ。人間がいくら徒党を組んで強くなっても、普通はレベルの暴力で圧倒できるんです。誰も1人では向かっては来ないでしょ。……でも、ご主人様には倒されましたけどね』
アイリーンは、少し頬を染めてモジモジとし始めた。
「俺が倒したんじゃねぇよ! お前がエッチバトルなんてふざけたこと仕掛けてきたからだろ!」
陽は、あの玉座の間での、フタナリ化からの極限の快楽合戦を思い出して顔を赤くした。
『あれしか、ご主人様たちに勝ち目はなかったんですよぉ……! レベル99の、しかも異常に特化したバケモノが4人ですよ!? まともに物理で殴り合ったら、魔王城ごと粉砕されてました! ……やめときましょう。私は今、最高に幸せですから。では、とっ捕まえてきますね!』
シュンッ!!
アイリーンの姿が、空気を切り裂くような音と共にリビングから完全に消滅した。
空間移動の魔法だ。
「お、おい! 本当に殺すなよ!」
陽が窓に向かって叫んだ、そのわずか二秒後。
シュンッ!!
再び空気が歪み、アイリーンがリビングのど真ん中に戻ってきた。
その肩には、気を失ってぐったりとしている一人の人物が担がれていた。
ドンッ。
ちゃぶ台の横の畳の上に、その人物が無造作に転がされる。
『捕獲完了ですぅ。少し抵抗しようとしたので、魔力で眠らせておきました。無傷です』
「お、おう……仕事がえらい早いな。で、誰なんだこいつは?」
陽が恐る恐る、転がされている人物の顔を覗き込む。
年齢は十代後半といったところだろうか。黒髪のロングヘアがストレートに床に広がり、身長は一七〇センチほどあるだろう、非常にスタイルの良い美少女だった。
しかし、その服装が、あまりにも異常だった。
上は白の小袖、下は緋色の袴。
……どう見ても、神社にいる『巫女』の格好だった。
「み、巫女服……? なんで小樽の住宅街に巫女が……」
陽は、その少女の顔をまじまじと見つめた。
どこかで見たことがある。いや、知っている。
「あれ……? この子は……」
陽の脳裏に、高校教師時代の記憶が蘇ってきた。教壇から見下ろしていた、真面目で少し影のある女子生徒の顔。
「……葉室珠子じゃないか!」
陽は驚愕の声を上げた。
間違いない。彼女は、陽が高校教師をしていた頃の教え子だった。
「いや、俺は今は教師じゃないから、元生徒か。でも、なんで珠子が俺の家を覗き見してたんだ? ていうか、なんでこんな格好してるんだよ! 小樽の街中で巫女服なんて、怪しすぎるだろうが!」
陽がおっさん特有のテンションで激しくツッコミを入れる。
アイリーンが、不思議そうに首を傾げた。
『怪しいですか? 彼女、私の気配察知に引っかかる直前まで、完全に自分の気配と姿を消す『隠密の魔法』を使っていましたよ? なかなか高度な術式でした』
「……はい?」
陽の思考が停止した。
「隠密の、魔法……?」
『ええ。魔力の波長を周囲の環境と同化させ、視覚と聴覚から逃れる術です。魔界の暗殺者がよく使う手ですね。レベル10にしては、見事な魔法のコントロールでした』
アイリーンが、専門家のような顔で解説する。
陽は、倒れている元教え子の巫女服姿と、絶世の魔王の顔を交互に見比べた。
「えっ……」
陽の口から、間の抜けた声が漏れる。
「この世界(地球)にも……魔法って、あるの?」
夏の夜の小樽。
ただでさえ異世界から魔王が押し掛けてきてカオスな状態だった大暮家に、現世の魔法使いの元教え子が乱入するという、新たな修羅場の幕開けであった。
(続く)




