予言の調査員と、雪の運河のコーンスープ
夏の夜の小樽。
窓の外からは、運河の方角から吹き込む潮風に乗って、微かに響く波の音と遠くの車の走行音が聞こえてくる。
古びた安アパートの八畳のリビングには、あまりにも非日常的な光景が広がっていた。
ちゃぶ台の横の畳の上に、一人の少女が気絶して転がされている。
黒髪のストレートロングヘアが畳の上に美しく広がっている。
彼女は、陽の教え子、葉室珠子である。
「……なぁ、アイリーン」
陽は、自らの黄金に輝く長い髪を掻き上げながら、深い、本当に深いため息を吐き出した。
「魔法があって、この地球にもそういう裏の組織みたいなのがあるのは分かった。……あるのは良いけどさ。なんでわざわざ、俺たちのところに来たんだ? 小樽なんて、ただの田舎街だぞ」
陽の問いかけに、ちゃぶ台の向かいで正座していた元魔王アイリーンが、コテッと首を傾げた。
うねるような深紅のロングウェーブヘアが畳に擦れ、猛禽類のように鋭い赤と青のオッドアイが瞬く。
『んー……多分ですけど、私の魔力に引き寄せられたのではないでしょうか?』
アイリーンは、悪びれる様子もなく、念話でケロリと答えた。
「魔力に、引き寄せられた……?」
陽は眉をひそめ、アイリーンの姿をじっと見つめた。
今まで、祭が帰ってくるまでのバタバタや、エッチなハプニングの連続で気にする余裕がなかったが、意識を集中してよく見てみると――。
バチッ……バチバチッ……!
アイリーンの身体の周囲から、漆黒の陽炎のようなものが、とんでもない濃度で立ち上っているのが見えた。
今、意識して視覚を向けなくても、肌にピリピリと刺さるような、重く、息苦しくなるほどの『暗黒の魔力』がダダ漏れになっていたのだ。
「……おいおいおい。よく見ると、っていうか、今見なくても、すっげぇ暗黒の魔力が出てるじゃないのさ!」
陽が思わずおっさん特有のテンションでツッコミを入れると、アイリーンは豊満な胸を反らせて、誇らしげにフフフと笑った。
『ふふふっ、ご主人様。お気づきになりましたか? これだけの莫大で圧倒的な魔力を見せつけておけば、そこらの小物は震え上がって逃げていきます。ご主人様とオクサマとの、この尊い愛の巣を邪魔させませんよ!』
「……バカなのか、お前は」
陽は頭を抱えた。
「じゃあ、大物だったらどうすんだよ!」
『勿論、どちらが強いか、己の力を誇示するために挑戦してくるでしょうね! 魔族の本能です! でもご安心ください、私なら絶対に負けませんけどね!』
「それだよ! その大物が来るのが一番厄介なんだよ!!」
陽はガバッと立ち上がり、アイリーンの元へズンズンと歩み寄った。
「このバカ、すぐに魔力を抑えろ! 漏らすな! 完全に気配を消せ!」
『えーっ!? 魔族が自らの魔力を抑えるなんて、あり得ません! 強さを誇るのが魔王のアイデンティティですぅ! 隠すなんておかしいです、絶対に嫌です!』
「おかしくねー!! 俺は安全に、平和に、妻の祭と一緒に静かに暮らしたいの! 自分から争いの種をまいて大物を呼び寄せるな!!」
陽は、アイリーンの美しい顔の両頬を、両手でムニッと強く掴み、横に引っ張った。
「早く抑えろ!抑えて隠蔽!隠蔽!隠せ!!」
『ひぃぃぃっ、ごしゅじんさまぁっ、ほっふぇたがぁっ(ご主人様ぁ、ほっぺたがぁっ)』
アイリーンが涙目で抵抗するすが、陽は手を離さない。
しかし、魔王のプライドが邪魔してか、アイリーンの魔力漏れは一向に収まる気配がない。
「チッ、埒が明かねぇ! 俺がやる!」
陽は、自らの内側にある勇者クレアのスキルの海へ意識を潜らせた。
(えーと、検索、検索……気配を消す、魔力を隠す、結界……あった!)
陽は目を見開き、アイリーンの周囲を囲むように両手を広げた。
「これだ! 『空間封印(ディメンション・ロック)』!!」
ピカァァァァンッ!!
陽の手から放たれたまばゆい光が、アイリーンを中心に部屋全体を四角く覆い尽くす、絶対的な透明のキューブ型の結界を作り出した。
結界の中からは、アイリーンの暗黒の魔力どころか、空気の振動すら一切外に漏れなくなった。
「よしっ! 完璧だ。これで誰にも気づかれない!」
陽が額の汗を拭って安堵の息を吐くと、結界の中にいるアイリーンが、結界の壁をペチペチと叩きながら呆れた顔で念話を飛ばしてきた。
『ご主人様……。その魔法、ただの魔力隠蔽じゃありませんよ。強力な『空間封印』です。これ、指定した座標を完全に外界から切り離す魔法なので……オクサマが帰ってきても、この部屋の中に入れませんよ?』
「……はっ?」
陽の顔から、一瞬血の気が引いたが、すぐに時計を見上げた。
現在の時刻は夜の十九時。
祭がイタリアンレストランのバイトから帰ってくるのは、だいたい二十二時頃だ。
「……いや、いい。もうやだ、このチートボディ、いちいち加減が難しすぎるんだよ! でも、祭が帰ってくるまではあと三時間もある。この結界は張ったままでいい」
陽は、結界を解除せずにそのまま維持することを決めた。
「祭が帰ってくる前に解けばいいだけの話だ。外に魔力が漏れるよりはマシだろ。それに、三時間もあれば、この倒れてる奴から事情を聞くには十分だと思われる」
陽が気絶している珠子を見下ろして息を整えていると、アイリーンが指を鳴らした。
パチン、という音と共に、珠子の長いまつ毛がピクリと震え、ゆっくりと瞼が開かれた。
「……ん、ここは……?」
珠子は身をよじり、上半身を起こした。
そして、目の前に立つ金髪巨乳の絶世の美女(陽)と、深紅の髪のオッドアイの美女(アイリーン)の姿を視界に収めた瞬間。
「ッ!!」
珠子の瞳に強烈な警戒の色が走り、弾かれたように後ろへ跳び退いて、緋色の袴の懐から鋭い呪符を何枚も引き抜いて構えた。
その身のこなしは、間違いなく厳しい訓練を積んだ者のそれだった。
「やめろ!」
陽が、スッと手を前に出して静止の声を上げた。
「戦ってもどうしようもない。実力に圧倒的な差があるのは、気配で分かっているだろう。俺たちは危害を加える気はない。穏便にな」
陽の落ち着いた、どこか威厳のある――しかし若い女性の鈴を転がすような声に、珠子は息を呑んだ。
珠子は、目の前の絶世の美女(陽)をまじまじと見つめた。
(……なんだろう、この人。金髪で外国人のような美少女なのに……どこかで、会ったことがあるような気がする……。あの瞳の奥の光、あの声のトーン……)
奇妙な既視感に戸惑いながらも、珠子の視線は陽の横に立つアイリーンへと向かう。
アイリーンは、珠子を冷たく見下ろしていた。
殺気は一切飛ばしていない。しかし、もしここでアイリーンが本気の殺気を飛ばせば、レベル10程度の珠子など、そのプレッシャーだけでショック死してしまうかもしれない。
それほどの絶対的な格の違いが、そこにはあった。
「……っ」
珠子は、額から冷や汗を流し、ギリッと唇を噛み締めると、ゆっくりと呪符を下ろした。
完全に、諦めの境地だった。
「よし。話が分かる奴で助かるよ」
陽は、ちゃぶ台の前に胡座をかいた。結界の中は不思議と空調が効いているかのように快適だった。
「単刀直入に聞く。何故、俺たちを……いや、この家を見張っていた?」
珠子は、警戒を解かないまま、しかし凜とした声で答えた。
「……葉室家の、古き予言です。この地、北の小樽の地に、強大な力を持った『魔王』が現れると、星詠みの書に記されていました」
「予言?」
「はい。ですが、現代において魔王の降臨など、本家の長老たちも含めて誰も信じてはいませんでした。だからこそ、葉室家の分家であり、下っ端である私だけが、形式的な調査としてこの地に飛ばされたのです」
珠子は、自嘲気味に薄く笑った。
「私自身、そんなオカルトじみた予言など信じていませんでした。だから、調査もそこそこに、せっかくの夏休みを利用して、札幌まで服やコスメを買いに行っていたんです。……そうしたら」
珠子の声が、微かに震える。
「札幌から帰ってきてみたら、このアパートから、世界を滅ぼすほどの規格外のバケモノの魔力がダダ漏れになっているではありませんか……っ! 至急見張りをつけ、現状を把握しようとしたところ、背後から一瞬で気配を絶たれ、捕まりました」
珠子の説明を聞いて、陽はジト目でアイリーンを睨んだ。
「お前、魔力漏らしすぎじゃねぇか……」
『てへっ』
アイリーンが可愛らしく舌を出してウインクするが、陽は完全に無視した。
「じゃあ……」
陽は、声のトーンを一つ落とした。
「まだ、その『葉室』っていうお前の組織や、本家には連絡していないんだな?」
珠子は、ゴクリと唾を飲み込み、こくりと頷いた。
「よし。じゃあ、このまま黙っていてくれ」
陽の提案に、珠子は目を丸くした。
「黙って……? 何を言っているのですか?」
「だから、魔王がいたとか、そんなこと上に報告しなくていいってことだ。俺たちは何も悪さはしない。小樽でひっそりと暮らしていくつもりだ。コイツ(アイリーン)は、俺が管理している限り、完全に無害だ!」
陽は、ドンと胸を叩いて保証した。
珠子は、信じられないというように陽をまじまじと見つめた。
「お前は……何者だ?」
珠子の視線が、陽の黄金の髪と、透き通るような碧眼に向けられる。
「お前を取り巻く魔力は、清廉で、温かく、光のように美しい魔力だ。決して魔に属する者ではない。それほどの清浄な力を持っていながら、何故、そんな邪悪の化身たる魔王と一緒にいるんだ!」
真っ直ぐに向けられた問いに、陽は少しだけ言葉を詰まらせた。
だが、隠し立てしてどうにかなる相手でもない。何より、目の前にいるのはかつての教え子なのだ。
(教え子に、こんな女の身体になった姿を見せることになるとはな……。情けねぇが、言わないと話が進まねぇ)
陽は一つ息を吐き、誤魔化さずに説明することにした。
「……俺は、お前の知っている大暮陽だ」
「……え?」
珠子の目が点になる。
「俺は、以前高校教師をしていて、お前の担任だった大暮陽だ」
「…………先生?」
珠子の声がひっくり返った。無理もない。目の前にいるのは、誰がどう見ても外国人のスーパーモデルのような、豊満な胸を持つ一七五センチの絶世の美女なのだ。
どう見ても、クルクル天然パーマでメガネをかけた四十九歳の近視のおっさんではない。
「色々あって、この勇者の身体になった。俺自身にも全部説明できない。……神とか天使の番組の都合だの、異世界の魔王だの、信じられないだろうが。ただ、中身は間違いなく大暮陽だ」
珠子は、まだ信じられないというように首を横に振った。
「そんな……バカな。先生が、こんな……こんな金髪の外国人の美女に……? いくらなんでも、冗談が過ぎます!」
「だろうな。すぐには信じられないよな」
陽は苦笑し、頭を掻きながら続けた。
「じゃあ、これでどうだ。お前、高二の冬休みの前に、進路のことで本家と揉めて家出したことがあったよな。あの時、雪の降る小樽運河のベンチで一人で泣いてたお前を見つけて、缶のコーンスープを二つ買って隣に座ったの、俺だろ。その時、お前が『巫女になんてなりたくない、普通にコスメや服を買う女子高生になりたい』って愚痴ったの、俺しか知らないはずだ」
「ッ……!」
珠子の顔が、一気に真っ赤に染まった。
それは、絶対に他人には漏らしていない、珠子と担任教師だけの秘密の記憶だった。しかし、それでも珠子の表情にはまだ迷いがあった。
陽は、さらに言葉を重ねた。
「俺がよく言ってた口癖、覚えてるか? あの時、泣きじゃくるお前に俺は言ったはずだ。『正解なんてねぇんだよ、とりあえず腹いっぱい飯食って寝ろ。話はそれからだ』って。でお前、泣きながら俺のネクタイで鼻かんだよな。あれ、クリーニング代請求しようか迷ったんだぞ」
「…………っ」
珠子は、息を呑んだ。
信じられない。目の前の絶世の美女の口から、あの時の、あの不器用で泥臭い先生の言葉が、当時のままの温度で紡がれたのだ。
十秒ほどの、重い沈黙が流れた。
珠子の大きな瞳から、ぽろりと涙がこぼれ落ちる。
「……先生の、口癖。それに、あのネクタイのことも……。本当に、大暮先生なんですね……」
「ああ。信じてもらうしかないんだがな。俺は、妻の祭と静かに暮らしたいだけなんだ」
珠子は、その言葉にようやく、目の前の絶世の美女の瞳の奥に、かつての恩師の優しい光を完全に見出した。
「先生……どうしてこんなことに……」
その感動の再会に水を差すように、アイリーンが冷ややかな念話で陽に語りかけてきた。
『ご主人様。こんな面倒な説明をするくらいなら、私がパパッと精神支配の魔法をかけて、絶対の忠誠を誓わせましょうか? 記憶も都合よく書き換えられますし、簡単に下僕にできますよ』
アイリーンの提案に、陽の表情が一瞬にして険しくなった。
「やめろ、アイリーン」
陽は、教師としての強い矜持を持って、アイリーンを鋭く睨みつけた。
「俺は、教え子の人格を奪うようなマネは死んでもやらねぇ。……魔法で無理やり従わせるなんてことは、できるからこそ、絶対にやらないんだ。俺たちの秘密を守ってもらうために、こいつの心を壊す必要はない」
陽の揺るぎない意志に触れ、アイリーンは少し驚いたようにオッドアイを瞬かせた。しかし、すぐに嬉しそうに微笑んだ。
『……ふふっ。ご主人様がそう望むなら、私は従いましょう。それがご主人様の美学なら、私もそれに敬意を払います』
「協力してくれるなら、それでいい。珠子を、下僕になんてしたくないんだ」
陽のその言葉に、珠子の胸の奥が熱くなった。
かつて、落ちこぼれだった自分を見捨てず、いつも不器用な優しさで導いてくれた恩師の姿が、間違いなくそこにあった。
珠子は、ゆっくりと立ち上がり、姿勢を正して袴の埃を払った。
「……分かりました、先生。それなら、私を協力者にしてください」
「珠子……」
「ただし。先生だから信じたい。でも、その魔王が本当に危険なら、私は止めます」
珠子は、鋭い眼差しで陽とアイリーンを交互に見据えた。
「魔王を無条件で見逃すわけではありません。私が自分の目で、先生たちが人間に害を与えないか確かめます。もし……人間に危害を加えた場合、魔王として本格的に破壊活動を始めた場合、あるいは葉室家に隠しきれない異常が発生した場合は、そのときは私が葉室家に全てを報告し、討伐隊を呼びます。……それが、私が協力する条件です」
珠子の凜とした宣言。
それは、巫女としての責任感と、陽への個人的な信頼を両立させた、彼女なりの譲れないラインだった。
陽は、ふっと笑みをこぼした。
「ああ。それでいい。お前のそういう真面目なところ、昔から嫌いじゃないぞ。俺たちの行動を見張って、危なくなったら止めてくれ。条件、呑もう」
珠子は、ホッと肩の力を抜き、ようやく微かに微笑んだ。
「ありがとうございます、先生。では、葉室家には『異常なし。予言に該当する存在は確認できなかった』と報告しておきます」
珠子は袴の懐から、現代的なスマートフォンを取り出した。
「何かあったら、私に連絡してください。これが私の連絡先です」
珠子がスマホの画面を見せながら言った。
しかし。
「…………」
『…………』
陽とアイリーンは、そのスマホを見たまま、完全に沈黙して固まってしまった。
「え? どうしました、先生?」
陽は、気まずそうに頭を掻いた。
「……悪い、珠子。俺たち、スマホ持ってない」
「……え?」
珠子の目が点になる。
「正確には、持ってたけど色々あって使える状態じゃないんだ。俺の元の身体は消滅しちまったから、契約もどうなってるか分からない。それ以前に、今の俺たちには……金がないんだよ」
陽が情けなく肩を落とすと、アイリーンが胸を張って念話を飛ばした。
『魔王に金など必要ありません! 欲しければ奪うのみ! あるいは、私の宝物庫から黄金を適当に換金すれば……!』
「現代日本では絶対に必要なんだよ!! 強盗なんて論外だし、その金塊も出所不明で質屋に入れられねぇって何度言ったら分かるんだ!」
陽が即座にツッコミを入れる。
珠子は、ポカンと口を開け、やがて呆れたようにため息をついた。
「……待ってください。先生、身分証になるようなものは?」
「ない」
陽が即答する。
「免許証は?」
「ない」
「マイナンバーカードは?」
「ない」
「銀行口座は?」
「ない」
珠子は額を押さえた。
「……世界を救う勇者と、世界を滅ぼす魔王が、現代社会の基本インフラを何一つ持っていないんですか?」
「そういう事情なんだよ……」
陽は、絶世の美女の顔で苦笑するしかなかった。
珠子は、スマホをしまいながら、やれやれと首を横に振った。
「先生、いくらなんでもそのままでは生活できません。家を借りることも、働くこともできませんよ」
「うっ……」
痛いところを突かれ、陽は言葉に詰まった。
実際、今は祭のパート代に頼りっきりで、極貧生活を送っているのだ。
珠子は、大きく息を吸い込んだ。
「分かりました。私が、協力者として最低限の生活基盤を整える手助けをします。葉室家は表向きはただの神社ですが、裏では術者や異能者の身元保証や戸籍のロンダリングも扱っています。コネを使えば、新しい身分証の用意や、携帯電話の契約くらいならなんとかなるはずです」
「た、珠子……! お前、なんて良い奴なんだ……!」
陽が感極まって珠子の手を取ろうとするが、珠子はスッとそれを躱した。
「勘違いしないでください。これはあくまで、あなたたちを監視するための必要経費です。連絡手段がなければ、監視もできませんから」
そう言いながらも、珠子の顔は少しだけ赤くなっていた。
彼女は、戦闘要員としてではなく、葉室家との連絡役、日本の裏社会の情報提供者、そして現代生活の案内役兼、陽たちの『監視役』として、この場に留まることになったのだ。
陽は、しみじみと呟いた。
「……まさか、俺が昔の教え子に生活面の面倒を見てもらうことになるとはな」
珠子は、少しだけ口角を上げて笑った。
「先生。昔から放っておくと無茶をする人でしたから。生徒として、恩返しと監視を兼ねて、しっかり見張らせてもらいます」
「教師と教え子の立場、完全に逆転してないか?」
陽がボヤき、念話で話の中身を聞かされたアイリーンが、異世界の言葉で「現世の師弟関係は複雑ですね」と不思議そうに首を傾げる。聞き慣れない響きに、珠子がぽかんと二人を見比べた。
こうして、大魔王と元教師、そして元教え子の奇妙な協力関係が始まったのだった。
***
(先生だ……やっぱり、大暮先生だ!)
アパートを出た帰り道。珠子は一人で夜の小樽運河沿いを歩きながら、胸の奥で高鳴る心臓の音を必死に抑えていた。
(先生と、秘密を共有しちゃった……! 身体はあんなに綺麗な外国人の女の子に変わっちゃったけど、あの不器用で困った顔は、私の好きだった先生そのもの……! ああもう、やっぱり大好き!)
珠子は、高校時代からずっと陽のことが初恋の相手だった。
しかし、彼には祭という奥さんがいたし、何より絶対に越えてはならない『教師と生徒』という壁があったから、その想いを胸の奥に封じ込めていたのだ。
(先生には奥さんがいる。私はあくまで教え子。だから、奪うつもりなんてない。……でも、今はもう卒業したし、教師と生徒じゃない! これを機に、もっと先生と仲良くなれる!)
珠子は、ギュッと両手を握りしめた。
(そう、仲良くなって、困っている先生を助けるの! 協力者として!)
自分自身にそう言い聞かせながら、珠子の足取りは羽が生えたように軽かった。
***
一方、天界の最上層「モニタリングルーム」。
壁一面の巨大モニターには、小樽の夜道をスキップ気味に歩く珠子の姿が映し出されていた。
「――はい、カーーーーットォォォォッ!!」
上級天使にしてチーフディレクターのフュジェモンが、メガホンを振り回して大爆笑した。
「ガハハハハッ! 見たかオイ! 新しいヒロインの登場だぞ! まさかの元教え子! しかも先生にガチ恋勢!! 『小樽どうでしょう』の展開、最高じゃないか!」
「いやぁ、素晴らしいですねぇ」
最高位の女神エリシアが、肘掛け椅子で天界特製のスイーツをつまみながら、上品に――しかしどこか疲れた様子で微笑んだ。
「奥さんへの一途な愛を貫こうとするおっさん勇者と、彼を監視するという名目で近づいてきた初恋を拗らせた教え子の巫女。スピンオフ特番のレギュラーキャラとして申し分ありませんよぉ」
「カッカッカ……」
メインカメラマンの上級天使ウレシリアが、死んだような目をファインダーに向けたまま、不気味に喉を鳴らした。
「人間のオスの業の深さ……ですねぇ。女の身体になっても、過去の教え子を引き寄せてしまう。あの珠子という娘の葛藤、実にいい画が撮れそうです。カッカッカ」
「よし! 次回は『魔王と勇者、初めてのスマホ購入と金策』だ! 身分証を作り、魔力漏れを防ぎ、金を稼ぐ! あのポンコツ二人が現代日本でどう立ち回るのか、カメラ五台回しっぱなしでいくぞォ!」
天界のディレクター陣の悪ノリは止まらない。
身分証の作成、スマホの入手、生活費の確保、そしてアイリーンの魔力漏れ対策。
大暮陽の平和で安らかな日常への道のりは、まだまだ具体的な問題が山積みであった。




