新しい戸籍『大暮ヨウ』と、お揃いのブレスレット
夏の朝。抜けるような青空から、ジリジリと焦げるような陽射しが降り注いでいる。
午前十時。小樽の安アパートの前に、一台のスタイリッシュなSUV――流麗なフォルムと重厚感を併せ持つマツダ・CX−60が、静かに滑り込むように停車した。
運転席でハンドルを握っていた葉室珠子は、エンジンを切って小さく息を吐いた。
(……昨日の夜、あの金髪の綺麗な女性を見た時、どうしてあんなに懐かしい気がしたのか、不思議だった)
珠子は、ルームミラーで自分の顔を確認しながら、昨夜の出来事を反芻していた。
世界を滅ぼす魔王の気配を追って辿り着いた先で出会った、絶世の美少女。彼女の瞳の奥の光、少し不器用な手の動き、そしておっさん特有の独特のボヤキ口調。
(あれが、大暮先生だったなんて……)
最初は信じられなかった。しかし、高校時代の自分しか知らない秘密の記憶を語られた時、珠子の心にストンと落ちたのだ。
身体は変わってしまっても、その中には間違いなく、自分がずっと憧れ、淡い恋心を抱いていた不器用な恩師がいるのだと。
(……私は、先生の教え子。先生には奥さんがいる。だから、絶対にその関係を壊すようなことはしない。……でも、今はもう卒業したし、教師と生徒じゃないわ)
珠子は、両手でパシンッと自分の頬を叩いて気合を入れた。
(これを機に、もっと先生と……陽さんたちと、協力者として関係を築いていこう。困っている先生を助けるの!)
自分に言い聞かせるように心の中で繰り返した珠子は、車を降りてアパートの階段を上った。
「おお、珠子。時間通りだな」
玄関のドアを開けたのは、白いTシャツにデニム姿の陽だった。相変わらず、息を呑むほど美しい。
「おはようございます、先生……いえ、今日は外に出ますから、陽さんですね」
珠子が微笑むと、陽の後ろから、エプロン姿の小柄な女性がひょっこりと顔を出した。
陽の妻である、祭だ。
「初めまして! 陽の妻の、祭です。陽から話は聞いてるよ。珠子ちゃん、今日は本当にありがとうね!」
祭は、底抜けに明るい太陽のような笑顔で珠子に頭を下げた。
珠子と祭は、これが初対面だった。しかし、お互いに陽から事前に話を聞いていたため、妙な警戒心はなく、むしろ親近感を抱いていた。
「初めまして、祭さん。葉室珠子です。……いえ、お礼を言うのは私の方です。高校時代、先生には本当に数え切れないほどお世話になりました。ですから、少しでも恩返しをさせてください」
珠子は、丁寧に深々と頭を下げた。
「おう、ありがとうな、珠子。助かるよ」
陽が頭を掻きながら笑うと、奥のリビングから、ドタドタと大きな足音がして、アイリーンが顔を出した。
彼女は、昨日から一生懸命練習していた日本語を、得意げに披露した。
『タマコ、アリガトウ!』
念話ではなく、自身の声帯を使った片言の日本語だった。
「ふふっ。どういたしまして、アイリーンさん」
珠子が微笑み返すと、アイリーンは『えへへ』と嬉しそうに陽の背中に隠れた。
***
四人は珠子のCX−60に乗り込み、まずは小樽市役所の市民課へと向かった。
葉室家の裏ルートを駆使し、事前に書類はあらかた用意されていた。窓口での手続きは驚くほどスムーズに進む。
「はい、これで完了です。新しい戸籍の謄本ですね」
市役所の駐車場に戻った車内で、珠子が陽に書類を手渡した。
「おお……すげぇ。マジで戸籍ができてる」
ヨウは、まじまじと書類を見つめた。
そこに記されていたのは、『大暮 ヨウ』と『大暮 アイリーン』の文字。
そして、続柄の欄には――祭の『妹』と記載されていた。
「ヨウ……カタカナになっただけか。まぁ、元の名前が残っただけマシだが。にしても、妹っていうのがどうにも気に入らないな。しかも俺だけじゃなくて、アイリーンまで妹かよ」
ヨウが、口を尖らせておっさんのようにボヤく。
「仕方ないじゃない、陽。今の陽の身体は完全に女の子なんだから、私と『夫婦』として登録することは日本の法律上難しいのよ」
祭が笑いながらヨウの肩を叩く。
「それにですね」珠子が補足した。
「普通なら、こんな急な戸籍処理はできません。葉室家の古い記録と、いくつかの特殊な手続きを組み合わせた結果、戸籍上は『陽さんのお父様が外国でもうけた子』、つまり祭さんの義理の妹として二人を登録するのが一番処理しやすく、自然だったんです」
『オネエサマ! オクサマ、オネエサマ!』
陽が念話で話の中身を伝えてやると、アイリーンは、『妹』というポジションがよほど嬉しかったのか、覚えたての単語を叫んでバンザイをして喜んでいる。完全に祭に懐いているようだ。
「まぁ、背に腹は代えられないか。葉室、色々と動いてくれて本当にありがとうな」
「いえ。ただ、正式な身分証であるマイナンバーカードなどが手元に届くまでには、裁判所の手続きも挟むので、一〜二週間ほどかかると思います」
珠子はそう言うと、コンソールボックスから新品のスマートフォンを二台取り出し、ヨウとアイリーンに渡した。
「それまでは、この携帯電話を使ってください。名義は私で契約してあります。私の連絡先も登録しておきましたから、何かあればすぐに連絡してくださいね」
「おっ、最新機種じゃねぇか! ありがてぇ!」
スマホを受け取ったヨウの碧眼が輝く。これでようやく、現代人としての最低限のインフラが整ったのだ。
「よし! これで身分もスマホも手に入ったし、次は服を買いに行こうか!」
祭が、パンッと手を叩いて提案した。
現在、ヨウは男時代のブカブカの服、アイリーンもヨウのシャツを借りている状態だ。
「近くのユニクロでいいよね。あんまりお金ないし、あそこなら安くて質がいいから。珠子ちゃん、ユニクロまで車出してもらえるかな?」
祭が申し訳なそうに言うと、珠子はフッと優しく微笑んで首を振った。
「祭さん。せっかくですから、札幌まで行きませんか?」
「え? 札幌?」
「はい。服は、私に買わせてください。先生には本当にお世話になりましたから……教え子からの、ささやかなプレゼントです」
珠子の提案に、祭は目を丸くした。
「ええっ!? だ、ダメだよそんなの! ただでさえ戸籍のことでお世話になったのに、服まで買ってもらうなんて申し訳ないよ!」
祭が遠慮して断ろうとするが、ヨウが祭の肩にポンと手を置いた。
「祭、ここは甘えようぜ」
「陽……?」
「珠子の気持ちだ。それに、今の俺たちにはマジで金がない。変に遠慮するより、素直に甘えさせてもらう方がいい。……借りは、後で俺が必ず返す。出世払いだ!」
中身がおっさんだからこその、割り切った大人の判断だった。
『フクホシイ! アタラシイ、フク、ホシイ!』
服の話だと陽が念話で教えてやると、後部座席で、アイリーンも覚えたての単語を並べて参戦してくる。
「……そっか。珠子ちゃんがいいって言うなら、甘えちゃってもいいのかな?」
「はい、甘えてください。先生の奥様をエスコートするのも、私の役目ですから」
珠子がニッコリと笑うと、祭も「ありがとう!」とパァッと顔を輝かせた。
「よし、それじゃあ札幌に向けて出発しますね」
珠子がアクセルを踏み込む。
CX−60の滑らかで力強い加速が、四人を乗せて夏の高速道路を札幌へと向かって走り出した。
***
札幌駅エリア。
巨大な商業施設『ステラプレイス』と『大丸札幌店』が隣接する、北海道随一のショッピングエリアである。
休日の昼下がり、大勢の買い物客で賑わうコンコースに、四人が足を踏み入れた瞬間――周囲の空気が、ピタリと止まった。
「……ねぇ、ちょっと見て。あの子たち……」
「嘘でしょ、なにあのスタイル……スーパーモデル?」
「金髪の子、ヤバいくらい美人なんだけど! 隣の赤髪の子もスタイルえっぐ!」
ざわ……ざわざわ……!
行き交う人々の視線が、一斉にヨウとアイリーンに釘付けになった。
一七五センチのヨウと、一八〇センチのアイリーン。
二人とも、息を呑むほどの絶世の美女でありながら、規格外の巨乳と長い手足を持っている。
そんな二人が並んで歩いているだけで、まるでそこだけパリ・コレクションのランウェイになったかのような圧倒的なオーラが放たれていた。
パシャッ、パシャパシャッ!
遠巻きに、何人かの若者がスマートフォンを向けて写真を撮り始めている。
「……おいおいおい。俺、これから外を歩くたびにこんな目に遭うのか?」
ヨウは、おっさん特有の引き攣った顔で、居心地悪そうに身を縮めた。四十九歳のおっさんの魂にとって、周囲から向けられる熱烈な羨望の眼差しは、ただただ恥ずかしく、苦痛でしかなかった。
『ヨウ、オネエサン、ユウシャ。モテモテ、デスネ』
一方のアイリーンは、周囲の視線などどこ吹く風で、むしろ片言の日本語で物騒な勘違いをして満足そうに頷いていた。
『ウザーイ。ケシマスカ?』
「消すな! 絶対に魔法使うなよ! 無視だ、無視!」
ヨウが慌ててアイリーンの頭を押さえつける。
そんな二人の様子を、祭と珠子はクスクスと笑いながら見ていた。
「ふふっ、陽、すっかり有名人だねぇ。それじゃあ、まずは服から行きましょうか!」
祭と珠子に手を引かれ、四人は大丸のブランド服のフロアへと乗り込んだ。
「これなんかどうですか、祭さん。ヨウさんの肌の色なら、このパステルカラーのサマードレスなんて絶対に似合うと思います」
珠子が、上品なデザインのワンピースを手に取って祭に見せる。
「あ、それ可愛い! 珠子ちゃんセンスいいなぁ。でも、こっちの少しカジュアルなオフショル系のブラウスも、陽のデコルテが綺麗に見えていいかも!」
「なるほど、確かに。では両方試着してもらいましょう」
祭と珠子は、完全に意気投合していた。
服を選びながら、珠子がふと祭に尋ねる。
「先生って……昔から、服には無頓着だったんですか?」
「そうなんですよー! 昔から困った人で。放っておくと、休みの日はヨレヨレのジャージとか着て歩こうとするんだから」
「あはは、分かります。高校の時も、いつも同じスーツでしたし」
「だよねぇ!」
ヨウを話題にして、二人はすっかり仲良しのスタイリストコンビになっていた。
「おーい、二人とも……俺、もう着替えるの五回目なんだけど。疲れたよ……」
試着室から出てきたヨウは、肩を落としてボヤいた。
しかし、その身に纏う服はどれも完璧に似合っており、試着室から出るたびに店員から「お似合いです!」と本気の歓声が上がっていた。
「陽、すっごく綺麗! はい、次はこれ!」
「お姉様、まだまだ行きますよ」
容赦なく次の服を押し付けられ、再び試着室へと押し込まれるヨウ。
一方で、アイリーンの服選びも進んでいた。
彼女は自分の好みが全くわからないため、祭と珠子が選んだ服を「コレ、キル!」と嬉しそうに着まくっている。
服の買い物がひと段落すると、次は女性にとっての最重要ミッション――『下着』のフロアであった。
「……おい。俺はここで待ってていいか? さすがに、下着売り場は……四十九歳のおっさんの魂にはキツい」
ヨウが、エスカレーターの前で後ずさった。
色とりどりのブラジャーやパンティが並ぶ煌びやかなフロア。男の理性が警鐘を鳴らしている。
「何言ってるのよ、陽! 一番買わなきゃいけないのは下着でしょ! 今の陽のサイズ、私じゃ測れないんだから、ちゃんとプロに採寸してもらわないと!」
祭が、ヨウの腕をガシッと掴んで引っ張った。合気の達人の腕力から逃れられるはずもない。
「うおぉぉっ! やめろ、俺は下着なんてユニクロのパンツで十分なんだよぉぉっ!」
情けないボヤキを上げながら、ヨウは下着売り場へと引きずり込まれた。
(くそっ……四十九歳の男の魂なのに、自分の身体の下着を妻と元教え子に選ばれるなんて……どんな羞恥プレイだよ……!)
ヨウは顔を真っ赤にして、試着室で頭を抱えた。
「陽、これも似合うと思う! ほら、着てみて!」
「そうです先生、妥協は許しませんよ」
結局、ヨウは祭と珠子によって、セクシー系から可愛い系まで、大量の高級下着をカートに入れられてしまった。
「……なぁ、アイリーンの下着は誰が選んでるんだ?」
ヨウが放心状態で尋ねると、祭がニヤリと笑った。
「アイリーンのはね、陽が選ぶのよ」
「……は?」
『ヨウ、オネエサン! エランデ! ワタシノ、シタギ!』
アイリーンが、嬉しそうにヨウの背中に抱きついてきた。
「なんで俺が!? お前たちで選んでやれよ!」
「だって、アイリーンったら、陽のほうばっかり指さして、陽が選んだのじゃなきゃイヤって顔するんだもん。ほら、陽の好みのエロい下着、選んであげなさいよ」
祭が、楽しそうにヨウの背中を小突く。
「……俺は、地味なのが好きなんだよ」
ヨウはブツブツとボヤきながらも、売り場を歩き回り、アイリーンのために下着を選び始めた。
(アイリーンは赤髪だから、やっぱり黒か赤が似合うか? いや、あんまり派手すぎると魔王感が強くなるし……少し落ち着いたネイビーのレースとかどうだ?)
ヨウは真剣にネイビーのランジェリーを選びながら、ふと、不思議な感情に包まれた。
(……こういうのを選ぶのも、夫婦ってことなのか?)
アイリーンとの関係は、ただの下僕と主人という枠を超え、奇妙な家族愛のようなものに変化しつつあるのを感じていた。
ヨウが選んで渡したネイビーのランジェリーを見て、アイリーンは『ゴシュジンサマ、センス、イイデスゥ!』と大喜びし、そのまま試着室へと駆け込んでいった。
買い物が全て終わり、四人が大丸のカフェスペースで休憩している時のこと。
「……ふぅ。もうたくさん買ったから、服も下着もいらないよ〜。俺、一生分の買い物した気分だ」
ヨウが、テーブルに突っ伏してアイスコーヒーのストローを咥えた。
『マダマダ、カイタイ! モット、タクサンカイタイ、デス!』
アイリーンは、完全に買い物の楽しさに目覚めてしまったようで、覚えたての単語を精一杯並べて、まだまだ元気いっぱいにアピールしている。
「アイリーン、もう持てないよ。珠子ちゃん、本当にごめんね、こんなにたくさん買ってもらっちゃって。いくらになったか、後でちゃんと教えてね。絶対に返すから」
祭が申し訳なそうに珠子に言うと、珠子はフッと微笑んで首を振った。
「気にしないでください。私にとっても、すごく楽しい時間でしたから。……あ、そうだ。最後に、これ」
珠子が、紙袋の中から小さな箱を取り出し、テーブルの上に置いた。
パカッと蓋を開けると、そこには、銀色の繊細なチェーンに、それぞれ異なる色の小さな宝石があしらわれた、四つの美しいブレスレットが並んでいた。
「わぁ……綺麗……!」
祭が感嘆の声を漏らす。
『キラキラ! キレイ!』
アイリーンも目を輝かせている。
「これ……いつの間に買ったんだ?」
ヨウが尋ねると、珠子は少しだけはにかむように笑った。
「さっき、皆さんが服を選んでいる時に。……せっかくですから、四人でお揃いのものを身につけたいなと思って」
珠子は、それぞれにブレスレットを手渡した。
ヨウには碧眼と同じブルーの宝石。祭には温かいオレンジ。アイリーンには深紅。
そして珠子自身には、深い紫の宝石。
「買ってきてしまいました。みんなで、つけましょう?」
「……珠子」
ヨウは、少しだけ目を細め、大人の――恩師としての優しい顔つきになった。
「ありがとうな。大事にするよ」
四人は、それぞれの左腕にブレスレットをつけた。
銀色のチェーンが、四人の手首でキラキラと光を反射する。
(初恋の大暮先生……)
珠子は、自分の手首のブレスレットと、ヨウの手首のブレスレットを交互に見つめた。
(先生と、こうしてお揃いのものを身につけて、秘密を共有している。困った顔でボヤくところも、身体は変わってしまったけれど、中身はあの時のまま。一緒よ! 可愛い、可愛い、可愛い……っ! やっぱり、先生のことが大好き!)
珠子は、胸に秘めた想いが爆発しそうになるのを必死に抑え込み、平静を装ってアイスティーを飲んだ。
ちなみに、今日一日の買い物代金は、全て珠子のクレジットカードの一括払いである。
(……今月、あと何件怪異退治の依頼を受ければいいんだろう)
珠子は、レシートの束の金額を思い出し、心の中で密かに決意を固めるのだった。
***
天界の最上層、「モニタリングルーム」。
壁一面の巨大モニターには、カフェで楽しそうに笑い合う四人の姿が映し出されていた。
「――はい、カーーーーットォォォォッ!!」
上級天使フュジェモンが、メガホンを振り回して大声を上げた。
「ガハハハハッ! お買い物企画、大成功じゃないか! 妻も知らないところで、妙な四角関係が完成しつつあるぞ!」
「いやぁ、素晴らしいですねぇ」
最高位の女神エリシアが、疲れ切った顔で天界のクッキーをかじりながら微笑んだ。
「珠子ちゃんの財力で何とか現代社会に馴染めそうですね。それにしても、あの子、先生のためにあんなにカードを切って……健気ですねぇ」
「よし! 明日は温泉回だ! 日帰り温泉で、ついに勇者と魔王の裸の付き合い! 特殊カメラの準備を急げェ!」
天界のディレクター陣の煩悩と悪ノリは、留まるところを知らない。
一方、小樽の空の下。
ヨウは、新しいスマホを眺めながら、ふと呟いた。
「明日は温泉ですね!」
祭が嬉しそうに言う。
「……なんで俺まで楽しみになってるんだ」
女の身体になったおっさんの、平和なようで騒がしい日常は、まだまだ始まったばかりであった。




