元魔王の着せ替えと、検索する勇者魔法
夏の小樽の昼下がり。安アパートのリビングには、つい先ほどまで繰り広げられていた情事の熱気と、むせ返るような甘い匂いが充満していた。
「……よし、終わりだ。終わったんだから、さっさと離れろ」
ソファの上で重なり合っていた身体を無理やり引き剥がし、大暮陽は大きく息を吐き出した。
四十九歳のしがない高校教師であった彼の魂は、間違いなくレベル99の絶世の美少女勇者・クレアの肉体に定着してしまっている。
この身体は、少し動くだけでポルゥンと暴力的な重みを主張してくる。
「はひぃっ……ご主人様ぁ、もう終わりですかぁ? もう少し、余韻というものを……」
足元にすがりついてくるのは、かつて異世界を恐怖に陥れた絶世の美女、元魔王アイリーンだ。
一八〇センチの長身で、うねるような深紅のロングウェーブヘアと、右目が赤、左目が青という猛禽類のように鋭いオッドアイを持っている。
魔王としての絶対的な威厳はどこへやら、今の彼女は完全に陽と妻の祭に服従する下僕であり、ドMの忠犬と化していた。
「余韻なんてねぇよ! エッチが終わったらすぐに風呂だ! お前、自分の身体と俺の身体をよく見てみろ!」
陽が声を荒らげると、アイリーンは不思議そうに自分の人間色になった肌を見下ろした。そして、ハッと息を呑む。
陽の抜けるように白い滑らかな肌にも、アイリーンの豊満な身体にも、さっきまでの激しすぎる情事の痕跡――赤いキスマークや、指で強く握られた青痣のような痕が、無数に刻み込まれていたのだ。
「いいか? 祭が仕事から帰ってきて、この痕を見られたらどうなると思う? あの真っ黒で分厚い鉄のフライパンが、俺たちの頭をカチ割りに来るんだぞ!」
陽の脳裏に、凄まじい風切り音を立てて空間を切り裂く祭の愛用フライパンの姿がフラッシュバックした。合気武道の達人である妻が本気でキレた時の殺気は、魔王の比ではない。
『ひぃぃっ! オクサマの、あの火を噴く鉄の台座よりも恐ろしい黒い円盤ですね!?』
念話で恐れおののくアイリーン。彼女は日本語が話せないため、会話は常に脳内に直接語りかけてくるスタイルだ。
「そうだ。だから急いで風呂に入って、この痕を消すんだよ。ほら、お前、回復魔法とか使えるだろ? 魔王なんだから」
『は、はいっ! お任せください、ご主人様! 私の魔力で、たちどころに……えーと、ヒーリング!』
アイリーンが胸の前で手をかざし、淡い光が二人の身体を包み込んだ。
しかし、数秒待っても、肌の赤い痕はうっすらと色が薄くなった程度で、完全には消えていなかった。
「……おい。全然消えてないじゃないのさ」
『あ、あうぅ……申し訳ありません、ご主人様……。私、攻撃魔法は全て極めているのですが、回復魔法は初歩的な擦り傷を治す程度のものしか使えなくて……』
「攻撃特化のバケモノめ……。使えねぇな、本当に。貸してみろ、俺のこの身体……勇者クレアの魔法を探してみるから」
陽は目を閉じ、自分の内側にある膨大なスキルの海へ意識をダイブさせた。チート級の魔法や勇者スキルを使いこなせない彼だが、必死に「回復」
「痕を消す」
「ヤバい」といったキーワードで頭の中を検索する。
(えーと、これか? 『エターナル・ホーリー・リザレクション』……いや、これ死者蘇生とかじゃないだろうな。もっとこう、お肌のトラブル的な……あ、これだ。『神聖なる完全修復(パーフェクト・リジェネレーション)』!)
「よし、いくぞ。……パーフェクト・リジェネレーション!」
陽が唱えた瞬間、リビング全体が目も眩むような黄金の光に包み込まれた。
「うおっ!?」
『きゃあっ!?』
光が収まると、そこには奇跡が起きていた。
陽の身体にあった生々しい痕はもちろんのこと、おっさん時代から魂に刻まれていた見えない疲労までが完全に吹き飛んでいる。
さらにアイリーンの身体を見ると、彼女が魔王時代から魔力で隠していた古傷や、特訓の際についた細かな傷痕まで、文字通り「完全に」消滅し、生まれたての赤ん坊のように透き通った肌に生まれ変わっていた。
『す、すごいです、ご主人様ぁっ! 私の身体が、魔界の泉で沐浴したかのようにピカピカに……っ! ああ、ご主人様の聖なる力、なんて素晴らしいのでしょう!』
感動のあまり、アイリーンが陽に勢いよく飛びつき、その豊かな胸を押し当てて顔中に何度もキスを浴びせてきた。
「んむっ! ちゅっ! こら、やめろバカ! 離れろ!」
陽は必死にアイリーンの顔を押し退ける。
「せっかく痕が消えたのに、お前がそんなに激しく擦り付いてきたら、また新しい痕がつくじゃないのさ! お前は大型犬か!? いや、完全に愛玩動物、ペットだなコイツは!」
『はひぃっ! ご主人様のペット……最高の褒め言葉ですぅ!』
アイリーンは怒られているのに頬を赤く染め、オッドアイを潤ませて身をくねらせている。
「ハァ……ダメだこりゃ。さっさと風呂に行くぞ」
二人で狭いユニットバスに入り、身体を洗い流す。
風呂から上がると、陽は使い慣れた古いドライヤーをコンセントに差し込み、アイリーンのうねるような深紅のロングウェーブヘアを乾かしてやった。
ブォォォォォン。
『おおおおっ! ご主人様、この温かい風を吐き出す魔導具はなんですか!? 無詠唱で風と熱を同時に操るなんて、現世のアーティファクトは恐るべき性能ですぅ!』
アイリーンは、ガスコンロの青い炎を見た時と同じように、ドライヤーの風に目を丸くして感動している。
「ただの家電だよ。ドライヤー。お前、本当に何も知らねぇんだな」
『はい! 現世の知識は全て、ご主人様から教えていただきたいですぅ!』
アイリーンの長い髪を乾かし終え、自分自身の黄金の髪も乾かすと、次は着替えの問題が立ち塞がった。
「さて、服だが……」
陽がタンスを開けると、そこには四十九歳の男時代に着ていたシャツとジーパンが詰まっている。現在の陽の肉体は一七五センチ。
男時代は一八〇センチだったため、着れなくはないが、少しブカブカとしてしまう。
「俺はまぁ、これでいいとして。問題はお前だ、アイリーン」
陽は、一八〇センチの長身であるアイリーンに、自分の男物のシャツとジーパンを渡した。
「着てみろ」
『はいっ、ご主人様のお召し物、ありがたく頂戴いたしますぅ!』
アイリーンが服に袖を通す。
……それが、とんでもなく似合っていた。
元々誰もが息を呑む絶世の美女であり、高身長で手足が長いアイリーンが、ラフな男物のシャツとタイトなジーパンを身に纏うと、まるで海外のスーパーモデルのような洗練されたカッコよさと美しさが同居する姿になった。
シャツのボタンを少し開けているせいで、豊満でセクシーなプロポーションが絶妙に強調されている。
(……おいおいおい、なんだこのイイ女は。普通に街歩いてたら三秒でスカウトされるレベルじゃないのさ)
陽は思わずゴクリと唾を飲み込み、下腹部の奥で小さく疼くムラムラを必死に理力で抑え込んだ。
(いかん、俺には祭がいるんだ。こんな大型犬に発情している場合ではない。)
「……まぁ、似合ってていいんじゃないか。次は下着だ」
下着問題は、さらに深刻だった。
男物のトランクスを美少女と元魔王が履くわけにはいかない。
タンスの奥を探ると、妻である祭のパンティがいくつか出てきた。祭は身長一五八センチと小柄だが、大きなお尻を持つセクシーボディの持ち主だ。
そのおかげで、一七五センチと一八〇センチの長身である陽とアイリーンでも、サイズ的にはなんとか履くことができた。
「とはいえ、祭のお気に入りの勝負下着を俺たちが履いて伸ばしちゃったら、後で絶対殺されるからな……。よし、この古そうな、安そうなやつにするぞ」
陽は慎重に、一番ダメージが少なそうなヨレヨレのパンティを選び出し、二人で身につけた。
問題は、ブラジャーである。
祭は巨乳であるため、カップのサイズ自体は陽やアイリーンの規格外の胸にもなんとか収まる。だが、アンダーバストのサイズが決定的に違った。
『ご主人様……この布、胸は入るのですが、アンダーがきつすぎて呼吸が苦しいですぅ……』
アイリーンが涙目で胸の下を押さえている。魔王の骨格には、小柄な祭のアンダーサイズは少々窮屈だったようだ。
「そうか。俺は……あ、つけれたわ。アンダーもギリギリいけるな」
陽は、祭のブラジャーを自分の胸に装着し、ホックを留めた。
鏡を見て、陽は深くため息をつく。
(……この身体、マジで反則だろ。ウエストは細いのに、乳だけは重力に逆らって隆起する規格外の巨大さだぞ。おっさんの魂が入ってるってのに、なんでこんなにエロいんだ)
男の魂としては、ブラジャーなどという拘束具は絶対につけたくなかった。ノーブラでシャツ一枚のほうが、開放感があって楽に決まっている。
だが、現実はそう甘くなかった。
(ノーブラだと、シャツの生地が乳首に擦れるたびに、この魔王に開発され尽くした超絶感度の身体がビクンビクン反応しちまうんだよ……!)
少し動くだけで、布の摩擦が電気信号となって脳髄を焼きに来る。
エッチ防止の為にも、そして自分の理性を保つ為にも、ブラジャーはどうしてもつけなければならない必須装備だった。
これ以上感度を刺激されたら、またアイリーンに押し倒されてセックスしてしまう危険性が高すぎる。
「おい、アイリーン。お前、あっちの異世界ではブラジャーどうしてたんだよ? まさかノーブラ派か?」
『いえ、ありますよ。一応下着のようなものはつけていましたが、現世のものほど機能的で美しくはありませんでした。魔界の技術は戦闘に特化しているので……人間の街では違ったかもしれませんが』
陽は、勇者クレアの記憶を探った。
(……あ、クレアの記憶だと、人間の街にはちゃんとブラジャーあったな。結構しっかりした作りだった気がする)
「いやいや、じゃあ出せよ。お前のその収納魔法から、あっちで使ってたブラジャーを」
『えっ? あ、はい! 開け、我が宝物庫!』
アイリーンが虚空に手をかざすと、黒い穴が開き、そこから見慣れない意匠の、少しゴツいが装飾の美しい魔界のブラジャーがポトッと落ちてきた。
アイリーンはそれを拾い上げ、シャツの下に手際よく装着する。
「おっ、いいじゃないか。サイズもぴったりだな」
何より、アイリーンのシャツの上から薄っすらと乳首の形が透けて見えていたのが、ブラジャーのおかげで完全に隠れた。陽のムラムラゲージが急激に下がる。本当に良かった。
これ以上刺激されたら、おっさんの理性が吹き飛ぶところだった。
「ついでに聞くけどさ、お前の服、その収納魔法の中にどのくらい入ってんの? そのシワシワでヨレヨレになった漆黒のドレス、もう着るのやめればいいだろう」
『ええっ!? だ、ダメですぅ! このドレスは魔王としての威厳を示すお気に入りなんです! それに、服なら宝物庫の中に山のように入っていますが、どれも戦闘用か儀式用ばかりで……』
「お気に入りって……それ、もう限界だぞ。向こうの世界では、服の洗濯とかクリーニングってどうしてたんだ? 専用の技能とか、生活魔法みたいなのがあったんじゃないのか?」
『はい、ありました。生活魔法ですね。消臭や汚れ落とし、乾燥など、下働きの魔族たちが日常的に使っていました』
「なるほどな。じゃあ、俺の……いや、勇者クレアの魔法の中にも、そういう生活魔法があるはずだ。ちょっと検索してみるか」
陽は再び、脳内のスキル一覧にアクセスした。
(えーと、「汚れ」「臭い」「綺麗にする」……おっ、なんかそれっぽいのがあるぞ。『浄化の清流(ピュリファイ・ストリーム)』とか、『清浄なる微風』とか)
「よし、ちょっと試してみるぞ」
陽は、アイリーンが脱ぎ捨てた漆黒のドレスに向かって手をかざした。
「ピュリファイ・ストリーム!」
バシャァァァァッ!!
「うおぉぉっ!? 水が出すぎた!! リビングが水浸しになる!」
『ご、ご主人様! 威力が強すぎますぅ!』
慌てて魔法をキャンセルし、今度は『クリーン・ブリーズ』を弱めに発動させる。
温かい風と光がドレスを包み込み、数秒後には、シワシワで汗や怪しい体液の臭いが染み付いていたドレスが、まるで新品のようにパリッと仕上がり、フローラルな良い香りを漂わせていた。
「おお……! すげぇ。身体の汚れ落としだけじゃなくて、洗濯も一瞬かよ。魔法ってマジでやばいな!」
陽は感動に打ち震えた。
「でもよく考えたら、向こうの世界には電気がないから、その代わりに魔法が発達したんだな。魔法=家電って考えれば、しっくりくるわ。電気代を払う代わりに、自分の魔力が減る。魔力は個人的に持ってる量が違うから、使える容量が違う。……へぇ、なんか面白いなこれ」
おっさんらしい、妙に現実的で所帯染みた解釈に落ち着く陽。
しかし、その現実的な思考は、すぐに彼を深い絶望の淵へと引きずり下ろした。
「……電気代、か」
陽は、リビングのフローリングにドカッと胡座をかいた。
「金がねぇ」
ぽつりと漏れたボヤキ。
アイリーンが不思議そうに首を傾げる。
「金がないんだよ。戸籍もない。俺の身体は消滅して、戸籍上は死亡扱いだ。絶世の美女の姿じゃ、元の高校に教師として復職なんてできるわけがない。無職だ、完全な」
陽は、深いため息をつきながら指折り数え始めた。
「戸籍がないから、今まで苦労して取った資格も全部パーだ。今は何より、車の免許が一番欲しい。免許がないと身分証明すらできねぇ。それからスマホ。今時スマホがないとバイトの面接すら受けられないが、そのスマホを買う金がない」
ない。ない。ない。
見事なまでに何もない。
「幸先、真っ暗だな……」
陽が頭を抱えていると、足元からするすると這い寄ってきたアイリーンが、陽の膝に顎を乗せて甘えるようにすりすりとしてきた。
『ご主人様……そんなに暗い顔をしないでください。私、金塊ならたくさん持っていますよ?』
「だから、そのファンタジー全開の金塊は小樽の質屋じゃ売れねぇって昨日言っただろ! 警察呼ばれて終わりだ!」
陽はボヤきながらも、甘えてくるアイリーンのうねるような深紅の髪を、ぽん、ぽん、と少しリズムの悪い不器用な手つきで撫でてやった。
(……まぁ、でも。生きてるんだよな、俺)
陽は、窓から差し込む夏の光に目を細めた。
(生きていて、こうして触れられる温度がある。愛する妻の祭が、今も俺のために汗水垂らして昼も夜も働いてくれている。そして、足元には……アイリーンは、やっぱりペットだな。愛玩動物がいる)
「ほら、飯にするぞ。祭が仕事の合間に買ってきてくれた、コンビニの弁当だ」
陽はテーブルの上に置かれたコンビニ弁当のフタを開けた。
ハンバーグ弁当と、シャケ弁当。
「いただきます」
割り箸を割り、ハンバーグを一口かじる。
「……うん、美味いな。勇者の身体になっても、舌の好みはおっさんのままだ。なんか、いつもより上手く感じるぜ」
ふと横を見ると、アイリーンが割り箸を不器用に握りしめ、シャケ弁当のご飯をどうやって食べればいいのか分からずに苦戦していた。
『ご、ご主人様……この二本の木の棒は、どうやって操る魔導具なのですか? 滑って、丸い穀物がつかめませんぅ……』
「あー、お前には箸はハードルが高いか」
陽は立ち上がり、キッチンの引き出しからフォークを取り出してきた。
「ほら、これで食ってみろ。いや、貸してみろ」
陽はフォークでシャケとご飯をすくい、アイリーンの口元へ運んだ。
「あーん、だ」
『あ、あーん……ぱくっ』
アイリーンは恐る恐る口に含み、モグモグと咀嚼する。
次の瞬間、彼女のオッドアイがカッと見開かれた。
『お、美味しいですぅぅっ! このオレンジ色の魚の切り身、程よい塩気と旨味が凝縮されていて、白い穀物との相性が抜群です! 魔界の宮廷料理など足元にも及びません!』
「大げさなやつだな。ほら、もっと食え」
陽が次々とフォークで口に運んでやると、アイリーンは「美味しい、美味しい」とガツガツと食いついてくる。その見事な食べっぷりと、純粋な喜びにあふれた表情。
「……うん。完全に、愛玩動物だな、お前は」
陽は、自分の絶世の美女の顔に、おっさん臭い優しげな笑みを浮かべた。
金はない。戸籍もない。前途は多難すぎる。
それでも、小樽の安アパートの昼下がりには、確かに温かい日常が流れ始めていた。
天井の隅では、神界特製の全方位カメラである『二つの光の玉』がプカプカと浮遊し、この奇妙な昼食の風景を無遠慮に天界と魔界へ放送し続けている。
『ガハハハハッ! いやぁ、いい絵ですねぇ! 絶世の美女が魔王にフォークでシャケ弁当を食わせる! 新しいホームコメディの始まりですよぉ!』
『カッカッカ……人間の適応能力の高さと、元魔王の餌付け。スポンサーもほっこりしていますよ。カッカッカ』
「うるせぇよディレクター! 飯食う時くらい静かにさせろバカヤロォォォッ!!」
陽のキレのいいボヤキが、夏の小樽の空に響き渡った。
彼の、新しい(そしてエッチで騒がしい)第二の人生は、まだ始まったばかりである。




