念話しかできない下僕と、貯金三万二千円の現実
朝目を覚ます。
チュン、チュン、チュン。
どこか遠くで鳴く、呑気な雀の声。
そして、かすかに聞こえてくる、包丁がまな板を叩くトントントンというリズミカルな音。
「……ん、んん……」
薄手のリネンケットを跳ね除け、大暮陽は重たいまぶたをゆっくりと持ち上げた。
目覚めた瞬間、股間の奥でじんわりと疼くような甘い痺れと、胸元にかかる暴力的なまでの重みを感じる。
(……ああ、夢じゃなかったのかよ)
陽はベッドの中で、己の身体をそっと見下ろした。
抜けるように白い肌。重力に逆らって隆起する、規格外の巨大な双眸。金色の長い髪が、枕の上に散らばっている。
昨夜は、死の淵から奇跡の生還(ただし女体化)を果たしたことで、愛する妻の祭と、互いの存在を確かめ合うように激しく愛し合った。
魔王の快楽攻撃による後遺症のせいで、少しシーツが擦れただけでもビクンッと腰が跳ねそうになる。
「はぁ……。それにしても、よく寝たな……」
鈴を転がすような、甘くてエロティックな女の声が自分の口から漏れる。これにもまだ慣れない。
陽がベッドから身を起こそうとしたその時だった。
「――だから! 居候の身分で、夜中にコソコソ這い回るんじゃないわよ!」
リビングの方から、祭の鋭い怒声が飛んできた。
「はひぃっ! も、申し訳ございません、オクサマぁっ!」
続いて、情けない女の悲鳴。
陽は慌ててベッドから飛び降り、昨夜祭に着せられた薄手のTシャツ一枚の姿でリビングへ駆けつけた。
バミィィィィンッ!!
「ひぎぃぃっ!?」
リビングのフローリングでは、絶世の美女である元魔王アイリーンが、見事な土下座の姿勢で平伏していた。
その頭上数十センチの空間を、祭の愛用する「真っ黒で分厚い鉄のフライパン」が、空気を切り裂くような凄まじい風切り音を立てて通過したところだった。
「あ、おいおいおい! 祭、朝っぱらから何やってんだい!」
陽が慌てて割って入る。
「あら、陽。おはよう」
祭はフライパンを片手に、陽の顔を見るとパッと明るい笑顔を浮かべた。黒髪のストレートロングヘアに、切り揃えられた可愛い前髪。
日本人らしい童顔の可愛い系だが、その身体は驚くほどのセクシーボディで、大きなお尻と巨乳がタイトなジーンズとエプロンに包まれている。
「おはよう、じゃないよ! アイリーンのやつ、また何かやったのか!?」
陽が尋ねると、祭は呆れたようにため息をついた。
「このエロ魔王ね、昨日の夜、私たちが寝たあとに、こっそり寝室のドアの隙間から覗き見してただけじゃ飽き足らず、夜這いをかけようと這ってきてたのよ! 合気武道の達人の気配察知を舐めないでよね!」
「なっ……! お前、懲りてなかったのか!」
陽がアイリーンを睨みつけると、アイリーンは涙目で陽の足首にすがりついてきた。
『ご、ご主人様ぁっ! 違うんですぅ! 私、ご主人様たちの熱いエッチを見ていたら、どうしても我慢できなくなっちゃって……それに、この世界の夜は暗くて怖いですし……』
アイリーンは、日本語が話せないため、下僕印でつながった陽の脳内にだけ直接語りかける「念話」で必死に言い訳をした。
「嘘つけ! お前、魔族だろうが! 暗いのが怖いわけないだろ!」
『はひぃっ! ご主人様のキツいツッコミ、最高ですぅ!』
アイリーンは怒られているのに、なぜか頬を赤く染めて身をくねらせている。どうやら完全にドMの忠犬下僕として調教されてしまっているようだ。
陽にしか聞こえない言い訳に、陽が一人で言い返している。祭はしばらく不思議そうに二人を見比べていたが、やがてフライパンをコトッとテーブルに置くと、腕を組んでアイリーンを見下ろした。
「……まぁ、いいわ。陽の急所を復活させてくれたことには、一応感謝してるし。それに、異世界からいきなりこんな狭いアパートに飛ばされて、不安なのも少しは分かるから」
祭は底抜けに明るく、そしてタフで度量が広い。嫉妬心は燃やしたが、基本的には優しい女なのだ。
「今回だけは、大目に見てあげる。でも、次勝手に寝室に入ってきたら、そのオッドアイの右目をこのフライパンで目玉焼きにするからね」
陽が念話でそのまま訳してやると、アイリーンは「ひっ……!」と息を呑んだ。
『あ、ありがとうございますぅ、オクサマぁっ! 私、オクサマの寛大な御心に一生お仕えしますぅ!』
アイリーンは歓喜の表情を浮かべ、今度は祭の足首にすりすりとおでこを擦り付けた。
「はいはい、わかったから。邪魔しないで。今朝ごはん作るから」
祭がキッチンに戻ると、すぐにコーヒーメーカーからポコポコという音と共に、香ばしいコーヒーの香りが漂ってきた。
「あぁ……この匂い。いつもの朝だ。俺、本当に帰ってきたんだな……」
陽はダイニングテーブルの椅子に腰掛け、深く息を吐いた。
絶世の美女の姿になってしまったが、妻がキッチンに立ち、朝食を作ってくれるこの日常。それだけで、涙が出そうになるほど嬉しかった。
『オクサマ! その、火を噴く鉄の台座はなんですか!? す、すごい魔力です! 無詠唱で炎を操るなんて!』
アイリーンが、ガスコンロの青い炎を見て目を丸くしている。
「バカ言え。あれはガスコンロっていう文明の利器だ。魔力なんか使ってねぇよ」
陽がおっさん特有のボヤキ混じりでツッコミを入れる。アイリーンにとっては、現代社会のテクノロジーの全てが初体験なのだ。
ジューッ、パチパチパチッ。
フライパンの上で、目玉焼きとソーセージが焼けるいい音が響く。
「はい、お待たせ! まずはコーヒーね」
祭が、マグカップに注いだブラックコーヒーを陽の前にコトンと置いた。
「おう、サンキュ。……ズズッ。ああ、うまい。やっぱり祭の淹れるコーヒーは最高だねぇ」
「もう、陽ったらバカなんだから! ただのインスタントよ」
祭はケラケラと笑いながら、朝食のプレートを並べていく。
メニューは、目玉焼き、こんがり焼けたソーセージ、千切りキャベツのサラダ、そして小鉢に入ったヨーグルト。
「ん? ヨーグルトにブルーベリーが入ってんな」
陽が気付いて言うと、祭は当然のように頷いた。
「当たり前でしょ。陽、昔から目が悪くてボクサー引退したくらいなんだから。ブルーベリー食べて少しでも視力回復させなきゃ」
「……お前、俺の今の姿、見えてるか?」
陽は自分の金髪を指差した。
「今の俺の肉体はレベル99の勇者様だぞ。視力なんかマサイ族よりいいんだよ。暗闇でも針の穴通せるくらいクッキリ見えてんの」
「あ……そっか。そうよね。中身はおっさんでも、身体は新品の美少女なんだもんね……。なんか、複雑だわ」
祭は少しだけ寂しそうな顔をした。十年間、近眼の夫の世話を焼くのが彼女の日常だったからだ。
「……いや、もらうよ。祭が俺のために用意してくれたんだから、残すわけねぇだろ。俺はこれが食いたいんだよ」
陽はスプーンでブルーベリーヨーグルトを掬い、パクリと口に入れた。
「あぁー、うまい! 勇者の身体になっても、舌の好みはおっさんのままだな!」
その言葉に、祭は再びパッと明るい笑顔を取り戻した。
『あ、あの……ご主人様、オクサマ。私の分は……?』
テーブルの端で、アイリーンがヨダレを垂らしながら物欲しそうに見つめている。
「ほら、あんたの分もあるわよ。食べなさい」
祭がもう一つのプレートを置くと、アイリーンは『おおおおっ!』と歓声を上げた。
『こ、この白くて柔らかい円盤(目玉焼き)と、茶色い肉の棒(ソーセージ)! 魔界の宮廷料理よりも輝いて見えますぅ!』
「陽、この子なんて言ってるの? ……え、宮廷料理より? 大げさねぇ。ただのスーパーの特売ウインナーよ。今日の惣菜屋の売れ残り持ってきたの」
祭は苦笑いしながら、自分も席についた。
三人で仲良く、テーブルを囲んで朝食をとる。
カチャカチャと、食器の触れ合う音が心地よい。
いつもなら、朝のニュース番組を見るためにテレビをつけるところだが、今日はつけなかった。
その理由は、明確だった。
「おい、上級天使ども。お前ら、いつまでそこに浮いてる気だ?」
陽が、天井付近を睨みつけながらボヤいた。
そこには、ソフトボールほどの大きさの『光の玉』が二つ、プカプカと浮遊していた。神界特製の全方位カメラである。
『ガハハハハッ! いやぁ、大暮さん! 朝からいい絵が撮れてますよぉ! 異世界の魔王が、日本の狭いアパートでウインナーに感動してるなんて、最高のスピンオフ企画じゃないですか!』
頭の中に、チーフディレクターである上級天使フュジェモン(藤村D枠)の、傍若無人で腹立たしい笑い声が響く。
『カッカッカ……。人間の日常とファンタジーの融合。そして、女の身体になった夫に朝食を作る妻の哀愁……。人間の業の深さが出てますねぇ。カッカッカ』
もう一つの光の玉からは、メインカメラマンであるウレシリア(嬉野D枠)の、死んだような声が聞こえてくる。
「うるせぇよ! 誰がスピンオフだ! 俺のロケは終わったんだよ! 約束通り願いは叶えてもらった(半分詐欺だが)んだから、もうカメラ回すんじゃねぇ!」
陽は箸を振り回してキレたが、天使たちは意に介さない。
『まぁまぁ、陽さん。スポンサーの神々が、どうしても大暮夫婦のその後が見たいって言うもんですからねぇ。もうしばらく、密着ドキュメンタリー『小樽どうでしょう』にお付き合いくださいよぉ』
「ディレクターのバカヤロォォォッ!! プライバシーの侵害で天界を訴えてやるからな!」
陽がわめいている横で、祭はもぐもぐとソーセージを食べながら冷静に言った。
「まぁ、放っておきなさいよ陽。見えない相手に怒っても疲れるだけだし。それより、これからの事、ちゃんと考えなきゃいけないわね」
祭の言葉に、陽はハッとして姿勢を正した。
「……そうだな。俺の戸籍上の問題とか、お前の生活の事とか。話し合わなきゃならねぇ事は山積みだ」
「うん。でもね……」
祭はチラッと時計を見て、立ち上がった。
「私、これからお昼の惣菜屋のバイトがあるのよ。夜はイタリアンの掛け持ちだし。明日は奇跡的に昼と夜のバイトが両方休みだから、夜帰ってきたら、ゆっくり詳しく話しましょう?」
祭は、陽の入院費やギリギリの生活を支えるため、昼夜問わずバイトに明け暮れる大黒柱なのだ。
「祭……すまない。俺がこんな状態だから、お前にばかり苦労をかけて……」
陽が申し訳なさそうに頭を下げると、祭は笑って陽の金髪をポンポンと撫でた。
「いいのよ。陽が生きててくれるだけで、私は頑張れるんだから。さ、洗い物と簡単な掃除、チャチャッとやっちゃうから!」
祭は言葉通り、タフネス全開で光の速さで食器を洗い、クイックルワイパーで床をさっと拭き上げた。
「よし、完了! あ、そうだ陽。これ、お昼代。適当に食べてね」
祭がテーブルの上に千円札を置こうとした、その時だった。
「あっ」
祭の動きがピタリと止まった。
「……服、ないね」
祭の視線の先には、陽が着ているブカブカのTシャツ(陽の男時代のもの)と、異世界から着てきた白いドレス、それにアイリーンが着ているシワシワの漆黒のドレスしかなかった。
陽は絶世の金髪美女、アイリーンはファンタジー全開の魔王である。そんな格好で、しかも服もない状態で小樽の街を歩かせたら、一発で職務質問である。
「やばい、買いに行く時間もないし……ちょっと待ってて!」
祭は財布を掴むと、玄関から弾丸のように飛び出していった。
数分後。
「はぁっ、はぁっ……!」
ダッシュで近くのコンビニまで走り、戻ってきた祭の手には、温められたコンビニ弁当が二つ握られていた。
「これ食べて! 服は明日、一緒に買いに行こう! じゃ、行ってきます!」
嵐のように弁当をテーブルに置き、祭は再び風のように仕事へと出かけていった。
バタン、とドアが閉まる音が響く。
リビングには、陽とアイリーンの二人(と、二つの光の玉)が残された。
「……何から何まで、すまないなぁ〜、祭……」
陽は、妻の底抜けの優しさとたくましさに、情けなさと愛おしさで胸を熱くしながら、ボソッとボヤいた。
「よし、とりあえず現状把握だ」
陽は気を取り直し、リビングの隅にある古いノートパソコンを立ち上げた。
『おおっ! ご主人様、その光る魔導板は一体!? 指で盤面を叩くと、中に文字が浮かび上がりますぅ!』
アイリーンが物珍しそうに覗き込んでくる。
「魔導板じゃねぇよ、パソコンだ。お前は黙って見てろ」
陽は慣れた手つき(指が細くてタイピングに少し違和感があるが)で、経理ソフトや銀行のネットバンキングを開き、領収書や家計簿、現在の貯金残高を確認していった。
カタカタカタ……。
やがて、陽の手が止まった。
画面に映し出された数字を見て、陽の美しい碧眼からスッと光が消える。
「……なんだい、これは。ゼロが少なすぎるじゃないのさ」
陽は、おっさんの限界がそのまま出たような、裏返った声でボヤいた。
「……えーと、貯金残高……三万二千円? 来月の家賃と光熱費払ったら、完全にマイナスじゃねぇか。いや、俺が植物状態になってた間の入院費で、祭の貯金がスッカラカンになってるのは分かってたけど……」
陽は頭を抱えた。
戸籍上は死亡扱い。無職。絶世の美女の姿では、元の高校に復職などできるはずもない。
そのうち生命保険金が下りる予定だが、手続きには時間がかかるし、そもそも「死んだはずの人間が女になって帰ってきた」ことをどう保険会社に説明するのか。
家計はまさに火の車。借金がないだけマシだが、裕福とは程遠い、極限のギリギリの生活だ。
「おいおいおい、勘弁してくれよぉ……。俺、レベル99の勇者なのに、現世じゃただの金食い虫のニートじゃねぇかよ……」
陽はキーボードに突っ伏して、深く、深く落ち込んだ。
そんな陽の背中に、アイリーンが心配そうに寄り添ってきた。
『どうしたのですか、ご主人様? そんなに暗い顔をして……。この魔導板に、何か呪いの言葉でも記されていたのですか?』
アイリーンの豊満な胸が、陽の背中にムニュッと押し当てられる。
「呪いより怖い現実だよ。……アイリーン、金がないんだ。俺たち、このままじゃ祭に迷惑かけるだけで、生きていけねぇ」
陽が悲痛な声で告白する。
すると、アイリーンはパチクリとオッドアイを瞬かせ、ふふっと得意げに笑った。
『なんだ、そんな事ですか! お金なら心配ご無用ですぅ!』
「は? お前、何か持ってんのか?」
『はい! 私、これでも魔界を統べていた元魔王ですからね! ご主人様とオクサマを養うくらいの財宝、いくらでもありますぅ!』
アイリーンは立ち上がると、虚空に向かって手をかざした。
『開け、我が宝物庫!』
空間魔法、収納魔法の発動である。
空間に黒い穴が開き、そこから何かがとめどなく溢れ出してきた。
ゴトッ。ジャラジャラジャラッ!ドサァァァッ!!
「……は?」
陽はポカンと口を開けた。
アイリーンがリビングの床にぶちまけたのは、まばゆい光を放つ『純金の金塊(延べ棒)』の山、ソフトボールほどもある巨大なダイヤモンド、そして禍々しい魔力を放つ伝説の魔法武具や、王冠の数々だった。
アパートの安っぽいフローリングの上に、国宝級、いや世界遺産級の財宝の山が出来上がったのだ。
『どうですか、ご主人様! これを換金すれば、オクサマもあんなに忙しく働かなくて済みますよぉ!』
アイリーンが、褒めて褒めてとばかりに胸を張る。
しかし、陽の顔は引き攣っていた。
「……あのなぁ、アイリーン」
「はいっ!」
「お前、バカなのか?」
「はひぃっ!? な、なぜですかご主人様!?」
アイリーンがショックを受けた顔になる。
陽は、金塊の一つを拾い上げ、プルプルと震える手でアイリーンに突きつけた。
「すごいよ! すごいけどさぁ! こんな出処の分からないファンタジー全開の金塊や、ソフトボールみたいなダイヤ、どこで売ればいいんだよ!!」
『えっ? それは……えーと、街の商人ギルドとかに……』
「ねぇよそんなもん! ここは小樽だよ! 質屋にこんなもん持ち込んでみろ、『アンタどこでこれ盗んできたんだ』って一発で警察呼ばれるわ! 足がつくというか、完全に犯罪者と思われるんじゃ無いか!」
陽の的確すぎるツッコミに、アイリーンは『あわわわっ』とパニックになり始めた。
「しかも、この王冠とか伝説の剣とか、あからさまにオーラ放ってて怪しすぎるだろ! 税務署も黙ってねぇよ! 税金どうやって申告すんだよ! 『魔王の宝物庫から出しました』で通るわけねぇだろぉぉっ!」
陽は頭を抱え、床の財宝の山を見てさらに絶望を深めた。
売れば大金持ちだが、売るルートがない。まさに宝の持ち腐れである。
「ハァ……ダメだ、頭痛くなってきた……。どうすりゃいいんだ、これから……」
陽がソファにへたり込み、眉間を揉んでいると。
アイリーンが、するすると蛇のように近寄り、陽の隣に座ってその細い腕に絡みついてきた。
『ご、ご主人様ぁ……お役に立てなくて申し訳ありませんぅ……。でも、そんなに怖い顔しないでくださいよぉ』
アイリーンは、漆黒のドレスの胸元をはだけさせ、規格外の巨乳を陽の腕に執拗に押し当ててくる。
「おい、やめろ。今は真面目に考えてるんだ」
『んふぅ……ご主人様、身体がこわばってますよぉ。そんなに悩んでいても、すぐに答えは出ませんよ?』
アイリーンのオッドアイが、ねっとりとした情欲の色に染まる。
『とりあえず……エッチしてから、また考えましょう? 私の身体、ご主人様に開発され尽くして、もう疼いて疼いて仕方ないんですぅ……』
「バ、バカ! 祭が仕事頑張ってんのに、家でエッチなんかできるか!」
陽は拒絶しようとしたが、アイリーンの白魚のような指が、Tシャツの下から陽の太腿の内側をそっとなぞった。
「あひぃっ!?」
陽の口から、意志とは無関係に甲高い嬌声が漏れた。
魔王の快楽攻撃による後遺症。陽の勇者ボディは、少しの刺激で限界を突破する『超絶感度』を抱え込んでいるのだ。
『あはっ。ご主人様、口では嫌がっても、身体は正直ですねぇ……。さあ、オクサマが帰ってくるまで、私といっぱいいっぱい、気持ちよくなりましょう?』
「だ、だめだっ、触るな、そこは……っ、んほぉぉぉっ!!」
夏の昼。カーテンから差し込む光が、リビングを隅々まで照らしていた。
魔王城の玉座の間は、いつも瘴気と灯火で暗かった。表情も、汗の筋も、影に溶けて見えにくかった。
今は違う。小樽の安アパートの昼間である。フローリングの木目も、金塊の鈍い輝きも、アイリーンの漆黒のドレスの皺も、陽のTシャツの下で揺れる胸の輪郭も、全部が見える。
隠しようがない。
『ご主人様……昼間ですよ。全部、見えます。……見せてください。私も、全部見せます』
「お前なぁ……祭が帰ってきたら、フライパンじゃ済まねえぞ」
『帰ってくるまで、終わらせます。約束です』
アイリーンの指が、虚空で一度鳴る。ポワン、という小さな光が陽の下腹部へ沈む。
熱。脈。かつて男だった記憶が、身体の内側から押し上げられる。Tシャツの裾の下で、何もないはずの場所が急速に持ち上がり、布をテントのように突き上げた。
「……っ。やっぱり、お前の力がないと、出ねえんだな」
陽の声が、少し落ちる。昨夜、祭を抱けたのもアイリーンの魔法だった。男として妻を愛するための身体が、自分の意思だけでは戻らない。
寂しい。四十九歳のプライドが、そこだけは承服できない。
だが、今は仕方がない。逃げても、触られても、この身体はすでに火がついている。
『ごめんなさい。でも、今は私がいれば出せます。ご主人様の男の部分は、消えたんじゃなくて……私の魔力に、鍵を預けているだけです』
「鍵、預ける相手が元魔王とか、笑えないんだよな……。いい、一回だけだ。昼間だって分かってるんだから、カーテン閉めろ」
『閉めません。見えないと、意味がないので』
アイリーンは本当にカーテンを開けたまま、窓の外の閑静な住宅街に背を向け、陽の膝に跨った。昼光がオッドアイをはっきり映す。右と左で色の違う瞳。
額から後ろへ伸びる、艶のある黒い角。真白すぎて血の気が感じられない肌。魔王そのものの姿が、日本の安いソファの上に乗っている。
陽は、初めて「よく見る」ことができた。
角の根元に細い血管が走っていること。鎖骨の窪みに、朝の汗が残っていること。白いお腹の中央に、薄い筋が一本下りていること。
魔王城では見えなかったものが、全部、昼間の光の中にあった。
「……でけえな、お前の胸。城じゃ暗くて、こんなに見えなかった」
『見てください。ご主人様に、全部』
ドレスの肩紐が落ちる。解放された胸が陽の顔の前で揺れる。陽の細い指が、不器用にその重みを受け止める。
十年、祭だけを触ってきた掌が、別の女の温度を測る。アイリーンの肌は冷たいようで、内側が熱い。
「んっ……」
アイリーンの喉から、言葉ではない吐息が漏れる。念話の前に、身体が先に答える。
『ご主人様の手、不器用で……好きです。魔王を、雑に揉んでください』
「雑に扱うなよ、俺は高校教師だぞ……って、今はニートか」
陽はボヤきながらも、胸の先に唇を寄せた。ちゅっ。ちゅうっ。
アイリーンの背が反り、角がカーテンのレースに軽く引っかかる。
『ひぅっ……吸われると、お腹の下まで、すうっ、てなります……片方だけにしないで』
陽は言われた通り、左右を交互に含む。ちゅっ、ちゅるっ、んむっ。自分の胸もTシャツの中で擦れ、超絶感度が誤発して腰がびくん、と跳ねる。
「っち……俺のほうまで反応してんじゃねえか。この身体、マジで壊れ物だ」
『壊れ物を、壊してください。ゆっくりでいいので』
最初は、本当に遅かった。
陽はアイリーンをソファに寝かせ、ドレスを腰まで捲る。真白な太腿が、昼の光に晒される。陽の指が、太腿の付け根をそっと撫でると、くちゅ、と小さく湿った音がした。
『んぁ……そこ、なぞられると、お腹の奥が、きゅって……ご主人様、見てますか? 私の、蕩けていくところ』
「見てるよ。昼間だから、全部見える。……お前、城のときより恥ずかしい顔してんな」
『城は暗かったからです。今は、ご主人様の碧眼に、全部映っています。……見られるのも、好きです』
指先が、アイリーンの弱いところを探る。アイリーンのつま先が伸び、角がクッションに沈む。
『あひっ……そこ、ご主人様が城で覚えた場所……っ』
「お前が俺を開発したんだろ。借りを返してるだけだ」
くちゅ、くちゅっ。水音が、静かなアパートの昼に不釣り合いなほど大きい。
陽は自分でも驚くほど、丁寧だった。祭を抱いた昨夜の名残と、昼間だから全部見えてしまう緊張と、男の身体を他人の魔力に頼っている寂しさが、動きを遅くしていた。
腰を寄せ、触れるだけで、離す。また、少しだけ。
アイリーンのオッドアイが潤み、真白なお腹が呼吸のたびに上下する。
『ご主人様……じらさないで……私、下僕なのに、こんなに待たされると、壊れる』
「壊れる前に、言え。欲しいって」
『欲しいです。ご主人様の全部……私の魔力で出した、ご主人様の男のところ……ください』
陽は、ゆっくりと腰を沈めた。
『はひぃぃっ……! 来た、全部……っ、お腹のところが、ご主人様でいっぱい……っ』
「はぁっ……お前の中、城のときと同じで、締め方が悪質だ」
最初の十往復は、本当に遅かった。沈めるたびに、アイリーンの胸が横に流れ、角が小さく揺れる。陽の金髪が頬に張り、自分の胸がアイリーンの胸に重なる。
女の身体で女を抱いている絵が、昼間の窓際に晒されている。
『んっ……んぁっ……ゆっくりなのに、深い……ご主人様が奥に届くたびに、頭が白くなります』
「お前、吸いつくな……っ、感度おかしいこっちまで持ってかれる。んくっ」
陽の腰が、少しずつ速くなる。ぱん、ぱん、ぱん。肌の音が、雀の声と重なる。
カーテンの隙間から、隣家の物干し竿が見える距離。それでも止められない。
アイリーンの脚が陽の腰に絡み、踵で背を叩く。もっと、という合図。
『強く、していいです。私、もう温まりました。……ご主人様も、もう、限界ですね』
「見るな、そんな顔……っ、見えるんだよな、昼間は」
『見ます。ご主人様の、気持ちよさそうな顔。私の魔力で出した、大事なもの。……寂しい顔、しないでください。鍵は、いつでも開けます』
その一言で、陽の中の何かが切れた。
寂しさを、速さに変える。腰を引き、深く打ち込む。ぱんっ、ぱんっ、ぱんっ!
ソファがぎしぎしと軋み、アイリーンの胸が激しく揺れる。ぬちゅっ、ぬちゅっ、と濡れた音が部屋を満たす。
「あひぃっ! 奥、奥ばっかり……っ、声が、出てく……んほぉぉっ!」
『ご主人様の声、女なのに、腰は男です……最高です、壊してください、魔王を、昼間の人間の家で……ひぎぃぃっ!』
体位を変える。後ろから。アイリーンがソファの背に手をつき、角が壁にコツンと当たる。真白すぎる背中に、夏の汗が筋を描く。
「お前の背中、汗で光って……っ、締めんな、イク」
『イってください、中で。……私も、もう』
ずんっ、ずんっ、ずんっ。アイリーンのオッドアイが上を向き、舌がこぼれる。
陽の女の身体も限界で、下腹部が痙攣し、男の身体と女の身体が同時に頂点を求める。
「イク、イクっ、アイリーン、出る……っ、あ゛ぁぁっ!!」
『くださいっ、ご主人様ぁっ……! 中に、熱いの、くださいぃっ!』
陽の腰が大きく跳ね、アイリーンの奥で熱が弾けた。
アイリーンの身体が弓なりに反り、角がカーテンを巻き込み、長い悲鳴にならない声が喉から溢れる。
陽もまた、女の絶頂を同時に被る。腰がびくんっ、びくんっ、と跳ね、自分の胸を自分の腕で抱えてしまう。
「はぁっ、はぁっ……お前、まだ締めてる……っ」
『はひっ……まだ、足りない、けど……今の、満足、です』
余韻の中で、アイリーンは身体を離した陽を見つめ、ゆっくりと頷いた。
魔王としての姿のままでは、この世界を歩けない。角。真白すぎる肌。
漆黒のドレス。全部が、小樽の昼に対して非常識すぎる。
『ご主人様。私、満足しました。……約束どおり、人間の姿にします。角は引っ込めます。肌は、この真白から、ご主人様くらいの色にします。』
「目は?」
『目は、嫌です。オッドアイは、私です。変えたくない』
「……分かった。目はそのままでいい。変なオーラ出すなよ。隣のおばちゃんに見られたら終わりだ」
『はい』
アイリーンが胸の前で指を組む。魔力の膜が、角の根元から剥がれるように収束する。黒い角が、骨をしまう音もなく、額の中へ沈んでいく。
同時に、真白すぎた肌が、血の通った色へ変わる。北欧の夏のような、白いけれど人間の白。血管が薄く見え、唇に血色が戻る。
オッドアイだけが、同じ光を持ったまま残った。
漆黒のドレスはまだファンタジーだが、身体だけは、通りを歩いても「外国人の美女」で通る範囲に落ちた。
陽は、その姿を昼の光の中で見た。
角がない額は、意外なほど素直だった。人間の肌色になった胸とお腹は、さっきまで「魔王」だったものが、急に触っていい温度に変わったように見えた。
「……お前、これ、ありだな。魔王のままでも綺麗だったが、こっちはこっちで、普通にヤバい」
『気に入っていただけましたか? これでも、中身は同じですよ。ご主人様に開発された、下僕の身体です』
「これはこれで、良い……!! って、俺が言うな、その台詞」
『言いました。ご主人様が』
アイリーンは人間の肌色のまま、陽を押し倒す。陽の男の身体は、魔力の持続でまだ熱を失っていなかった。アイリーンはその上にゆっくりと腰を下ろし、今度は人間の色をしたお腹が、陽を受け入れて小さく震えるのが、昼間の光ではっきり見えた。
「中、同じ、かよ……っ、締め方、魔王のままじゃねえか」
『中は変えません。変えるのは、外だけです。……んぁっ、入ってる、また』
二度目は、最初から近かった。
高め合う必要は、もうない。互いの形を知っている。陽はアイリーンの人間色の胸を掴み、先を口に含み、下から腰を深く突き上げる。
ぱんっ、ぱんっ、ぱんっ。
『あひっ、あひぃっ……角がないと、頭が軽くて、快感が、顔に出ます……見ないで、いや、見て……ご主人様、見てください、人間の顔でイく、私を』
「見てるよ。オッドアイのまま、人間の顔で……っ、お前、そっちのほうが悪質だ」
『悪質、でいいです。ご主人様の、好きな顔、してください。私も、します』
正面のまま、額と額を合わせる。角のない額。陽の金髪と、アイリーンの長い髪。
胸と胸が汗で滑る。重なったところから、くちゅっ、くちゅっ、と音が立つ。窓の外で、誰かの自転車が通り過ぎる音。
それでも腰は止まらない。
「イク、また……っ、このまま、いいな」
『いいです。人間の身体に、ご主人様の、熱いの……んおぉぉっ、来る、来るぅっ!』
二人の身体が同時に跳ねた。アイリーンのオッドアイがとろけ、角のない額が陽の肩に落ちる。
陽もまた、女の身体の絶頂で声を裏返らせ、黄金の髪を振り乱す。
「はぁっ……はぁっ……。金は売れねえ。戸籍もねえ。男のアレは、お前の魔法がないと出ねえ。……最悪だ」
『でも、今は、気持ちよかったです。ご主人様』
「……最悪なのに、気持ちいいのが、一番最悪なんだよ」
天井で、二つの光の玉が、満足げに回転していた。
『ガハハハハッ!! 最高だァァッ! 昼間のリビング、財宝の山、魔王姿からの人間化、二回戦! 視聴率、歴代最高を更新しましたよぉ! 大暮さん、アイリーンさん、ありがとうございます!!』
『カッカッカ……。人間の理性と、魔王の変身と、昼間の光。全部撮りました。スポンサーも泣いていますよ。ありがとうございます。カッカッカ』
「撮るな! 消せよその玉! ディレクターのバカヤロォォォッ!!」
陽のボヤキが、夏の小樽の昼に溶けていく。
売れない金塊は床に転がったまま。コンビニ弁当はまだ温かい。祭が帰ってくるまで、あと何時間もある。
二LDKのリビングで、レベル99の美少女(中身おっさん)と、人間の姿になった元魔王は、抱き合ったまま、天井のカメラに中指を立てる気力すら残していなかった。
(――続く)




