小樽の夜――妻の折檻、そして繋がれない身体
小樽の閑静な住宅街。大暮夫婦の住む二LDKのアパートは、夏の夜でも窓を開けておけば運河のほうから湿った風が入り込む。
だが今夜、リビングに流れていたのは涼風ではなかった。
熱。汗。金属の残響。
そして、折檻が終わったあとの、重く湿った沈黙。
リビングのフローリングに、絶世の金髪美女が正座していた。黄金の髪は乱れ、碧眼は潤み、白色のシンプルなドレスは汗で肌に張り付いている。
中身は四十九歳の夫、大暮陽。合気も空手も喧嘩も強いはずの男が、今は膝の上に両手を置き、小さく肩を落としていた。
その隣には、同じく絶世の魔王アイリーンが正座している。漆黒のドレスはすでにしわしわで、額には冷たい汗。最強の魔王も、二十九歳の人妻の前ではただの下僕だった。
「……いい? アイリーンはそこで寝てなさい」
祭の声は冷たかった。リビングのソファ――引けばベッドにもなる、あの安っぽいソファを顎で示す。季節は夏。
薄いタオルケット一枚だけが、無造作にアイリーンの膝へ落とされた。
強制的にあてがわれた寝床。祭の言葉の意味は、隣の陽が小声で異世界の言葉に訳してやった。
「はひぃっ……ありがとうございますぅ……」
聞き慣れない響きの礼に、祭は一瞬だけ眉を寄せたが、何も言わなかった。すっかり下僕と化したアイリーンは、大人しくソファに丸くなる。タオルケットを頭まで被り、それでも耳だけは立てていた。
祭はそれ以上、魔王を見なかった。
「陽。来る」
短い命令。陽は「あぁ……」と喉の奥で答え、妻の後ろをついて寝室へ入る。扉が閉まる音が、リビングに残った。
寝室。エアコンの低い唸り。薄いカーテンの向こうに、小樽の街灯がにじむ。
ダブルベッドに腰を下ろしても、祭の機嫌は最悪のままだった。
陽が現世に無事帰還したことは、嬉しいはずなのだ。植物状態になって、もう死んでしまったと思っていた愛する夫が、こうして自分の元へ帰ってきてくれた。
それだけで、神様に土下座して感謝しなければいけない。
――なのに。
あんなエロそうな魔王を連れ込み、あまつさえ自分以外の女の匂いを全身に染みこませて帰ってきたのだ。
金髪美女の身体になった夫が、リビングで脚を撫でられて「あひぃっ」と女の声でイきそうになっていた光景は、祭の脳裏から剥がれない。
陽がおそるおそる、背中から触れようとする。
指先が肩に触れた瞬間、祭はピシャリ、と手を払いのけた。
「……触るな」
「祭……ごめんって。本当に、お前だけなんだよ」
陽の声は、教師時代から抜けないボヤキと、不器用な男の言葉が混ざっていた。美少女の甘い声帯を通しても、中身のおっさんの拙さだけは隠せない。
何度も手を伸ばす。そのたび、払われる。
それでも陽は止まなかった。最後には強引に、しかし優しく、祭の身体を背後から抱きしめることに成功する。
「っ……」
温かい体温。懐かしい匂い。四十九歳の魂が覚えている、二十九歳の妻の感触。
陽は祭の肩越しに顔を埋め、汗ばんだ首筋にそっと唇をつけた。ちゅっ。小さく、湿った音。
柔らかな肌を、不器用な掌が撫で始める。肩。二の腕。
肋骨のライン。十年一緒に寝てきた女の、凹凸を手のひらで確かめるように。
「陽……っ」
久しぶりに触れる愛妻の生身の身体に、陽の碧眼からボロボロと涙がこぼれ落ちた。金髪が祭の黒髪に混ざり、雫が鎖骨を伝う。
それに呼応するように、祭もまた泣いていた。枕に顔を埋めず、ただ静かに、喉の奥で嗚咽する。
(生きてる……本当に、生きて帰ってきた……っ)
いつもなら照れ隠しで軽口を叩き合う二人だ。今夜ばかりは無言で、互いの身体を確かめ合うように触り合った。
祭は、自分を抱きしめる夫の新しい身体を撫でる。身長一七五センチ。誰もが憧れるような絶世の美女のセクシーボディ。
耳元で囁く声も、甘くエロい女の声になっている。豊かな胸が、自分の背中に押し当たって、熱い。
それでも、その不器用な撫で方――少しリズムが悪い、ぽん、ぽん、という癖。自分を包み込む魂の温度。それは間違いなく、愛する四十九歳の夫、陽のものだった。
戸惑いはある。女の身体になった夫を、どう抱けばいいのか、祭にも分からない。
けれど、失ったと思っていた命が戻ってきてくれた。それだけで、神様に感謝しなければいけないと、祭は心から思った。
「祭……お前の匂いだ。病院の消毒液じゃなくて、お前の匂いだ……」
陽の唇が、祭の耳たぶをそっと含む。ちゅっ、と小さな音。右手が前に回り、薄い夏のネグリジェの上から、祭の豊かな胸を包んだ。
「んっ……陽、いきなり……」
「十年間、毎晩触ってた場所だろ……。忘れてなんか、いない」
掌がゆっくりと胸を揉む。ネグリジェの薄い生地ごしに、先が硬くなっていくのが分かる。祭の身体は、怒っていても、夫の手を覚えていた。
陽もまた、愛しくてたまらない可愛い妻を、これでもかと愛撫し、甘やかす。一五八センチと小柄ながら、豊かな胸と大きなお尻を持つ祭の柔らかさを、慈しむように手のひらで味わい尽くす。
ネグリジェの裾が捲れ、素肌の太腿に、女の身体になった夫の腿が密着する。
「はぁっ……陽の手、大きい……今は細いのに、触り方だけ昔のまま……っ」
「お前のこと、俺が一番知ってる。……知ってるつもりだった」
指が太腿の内側を滑り、付け根のあたりを布ごしに撫でる。祭の吐息が乱れる。陽の吐息も、美少女の声帯で甘く上擦った。
「んぅっ……そこ、優しく……っ、久しぶりなんだから」
「分かってる。急がない。お前を壊したくない。俺は……お前を、愛したいだけなんだ」
キス。深く、舌を絡める。ちゅっ、ちゅるっ、んむっ。女同士の口づけに見えて、中身は十年の夫婦そのものだった。
陽は無意識に腰を動かし、後ろから祭の大きなお尻に押し付けた。熱。
――しかし。
「あっ……」
今の陽は、完全な金髪美少女の身体である。妻と繋がるための「男のアレ」が、存在しなかった。
現実に直面し、陽の美しい顔がシュンと悲しみに染まる。男として祭を抱いてやれない現実。四十九歳の夫としての最後のプライドが、音を立てて折れた。
「……ねえ、ないんだ。俺、お前を抱くものが……ない」
声が裏返る。碧眼から、さっきとは別の涙が落ちる。
「世界は救った。魔王も倒した。なのに、妻を抱くことだけができねえ。……俺、何のために帰ってきたんだよ」
その悲哀を察した瞬間、祭の中で何かが弾けた。嫉妬。怒り。安堵。愛。全部が混ざって、胸の奥で熱く溶ける。
そして、一番底から、自分でも知らなかった色が滲み出た。
「陽……いいよ。私が、気持ちよくしてあげる」
祭は身を翻し、金髪の長い肢体をベッドに押し倒した。ばねがぎしっと軋み、陽の大きな胸が弾む。
今度は、妻が上だった。
「ま、祭……? お前、上に……」
「いいから、黙ってて。今日は私が、夫を甘やかす番」
合気の達人の膝が、陽の腿を開かせる。抵抗しようとすれば関節を取られるのが分かるから、陽は抵抗できない。
祭がネグリジェを肩から落とす。陽の白いドレスは、あっさりと胸の上まで捲り上げられた。魔王に開発され尽くした勇者の身体は、夜の空気に触れただけで、小さく震えた。
「ひっ……あ、あんまり見るなよ、祭……っ、こんな身体、俺のもんじゃ……」
「見てるわよ。綺麗。……腹立つくらい、綺麗」
祭の指が胸に落ち、先を摘まむ。もう片方に唇が吸いつく。ちゅっ、ちゅうっ。
「あひぃっ!?」
「……今の、声」
祭の目が細くなる。怒りの色の奥に、初めて見る光。
「女の声で、そんなに出るの。陽、ここ弱いんだ?」
「んぎぃぃっ! ま、祭、胸、ダメだぁっ……! 敏感すぎて、イキそうになる、そこばっかり……っ」
「可愛い声出しちゃって」
祭自身にも自覚はなかった。どうやら彼女には、天性のドSの才能があったらしい。
男の心を持つ夫を、女の声で啼かせる。その背徳感。十年「抱かれる側」だった身体が、今夜は攻める側に回った興奮。指使いは、みるみる大胆になっていく。
指がお腹を滑り、捲れたドレスの裾の奥へ潜り込む。
「もうこんなに……。魔王に触られたあと、まだ残ってるの?」
「ち、違う……これは、お前を触ってて……っ、あひっ!」
十年の記憶で、祭の指は陽のいちばん弱いところを正確に探り当てた。くちゅっ、と湿った音。陽の腰が、勝手に浮いた。
「んあぁっ! そこ、そこダメ……っ、すぐイク、身体が覚えちゃってるんだよ、イクって感覚を……っ」
「覚えてるんだ。いいわよ、イきなさい。夫が妻の指でイくところ、私、見ててあげる」
指の動きが、遅く、速く、浅く、深く、リズムを変える。合気で培った「相手の力を読む」感覚が、そのまま夫の弱点探しに転用されていた。陽の跳ねる腰、喉の鳴り方、震え方。全部を読んで、一番崩れる場所だけを執拗に攻める。
くちゅ、くちゅくちゅっ……。
「ま、祭っ、待って、指だけで、そんな……っ、音が、恥ずかしい……っ」
「聞こえてるわよ。陽の、女の音」
「言うな、そんな……っ、俺は男だ、中身は男なんだから……あひぃっ!」
陽の胸が揺れ、金髪が枕に張り付く。碧眼はとろけ、四十九歳の高校教師の魂が、美少女の身体の快楽に追いつけず、ただ啼いている。
「イク、イクっ、祭、俺、イッちゃうぅぅっ!」
「イきなさい。顔、見せて」
「あ゛ぁぁぁぁっ!! イく、イぐぅぅっ……びくんっ、びくんっ!!」
陽の長い脚が祭の腰に絡み、背中が弓なりに反る。一度では止まらない。余韻でまた、小さく跳ねる。
「はひっ、はひっ……終わんない、止まらないっ……祭、もう、許して……っ」
「まだよ。一回で許すと思った?」
祭の声は、甘いのに、容赦がない。祭は陽の脚の間へ顔を沈めた。ちゅっ、ちゅるっ、と熱い唇の音。
「んぎぃぃぃっ!? 舌、吸わないで……! あひ、あひぃっ、また来る、またイクっ!!」
「んっ……陽の味、女の子の味になってる」
「言うな、そんなこと……っ、頭、白い、白いぃぃっ!!」
二度目。三度目。陽は狂ったように腰を跳ねさせ、何度も激しく果てていく。枕がずれ、シーツが濡れ、美少女の嬌声が壁を薄く叩く。夏のアパートの壁は、あまり厚くない。
それでも祭は止めなかった。男の心を持つ夫を女として啼かせる背徳が、折檻の残りの怒りを、別の熱に変えていた。
だが、その様子を、寝室のドアの隙間から覗き見している者がいた。
リビングで寝かされていたはずの魔王アイリーンである。
ソファのタオルケットはすでに床に落ち、アイリーンは四つん這いで扉に張り付いていた。黒い瞳が細められ、唇が濡れている。
(ご主人様が、妻と繋がれなくて泣いている……! 身体はイかされ続けているのに、愛する方と一つになるものがなくて泣いている……! ここは私の出番ですね……!)
アイリーンは、超絶ドSでフタナリ薬を使いこなす魔王としての矜持と、下僕としての忠誠心を同時に燃やした。
こっそりと指を鳴らす。魔王の魔法が、鍵穴から糸のように寝室へと滑り込む。
ポワァァァンッ!
「えっ!?」
「な、なに……!?」
陽と祭が同時に声を上げた。淡い紫の光が陽の下腹部を包み、熱く脈打つ感覚が、かつての男の身体の記憶を強制的に呼び戻す。
布の下で、何かが急速に持ち上がる。大きく。熱く。
美少女の身体に、「男のアレ」が復活したのだ。しかも、現世のおっさん時代とは比べものにならない立派さで。
「アイリーンのやつ……余計な気を回しやがって……」
陽は、まだ震えの残る腰の上で、美少女の顔に乗ったおっさんのニヤリを浮かべる。涙はまだ乾いていない。それでも、声の底が少しだけ戻った。
「……でも、ナイスだ」
陽は体勢を返し、再び祭の上に覆い被さった。一七五センチの長い肢体が、一五八センチの妻を覆う。
「祭、今度こそ……俺の全部で、お前を愛する」
「うん……陽……っ。いいよ。来て。……夫で、いて」
陽はゆっくりと腰を沈めた。祭の喉から、長く、甘い声がこぼれる。
「んあぁぁっ……! 大きい……っ、陽の、こんなに……ゆっくり、ゆっくりね……っ」
「分かってる。十年ぶりに、お前のところに帰るんだ」
二人とも、声を失った。繋がっている。夫と妻として。魂と身体が、やっと同じ方向を向いた。
「陽……っ、いる……奥まで、陽がいる……っ」
「お前の中、熱い……。俺のこと、ちゃんと覚えてる……っ」
腰を引いて、また沈める。ぱんっ。また。ぱんっ、ぱんっ。ベッドがぎしっ、ぎしっと鳴る。
祭の豊かな胸が上下に大きく揺れる。覆い被さった陽の胸も、祭の胸に重なって汗で滑る。女の身体で妻を抱く背徳と、中身は夫婦であるという救いが、同時に音になる。
「んあっ、んあっ、陽、深い……っ、昔と、ちがう……ひぅっ!」
「お前が、さっき俺をイかせすぎたせいだ。……感度、おかしい。お前に締められるたびに、俺のほうまでイキそうになる」
「いいわよ、イきなさい……一緒に。……んくっ、奥、そこ、だめぇっ……」
ぱんっ、ぱんっ、ぎしっ、ぎしっ。濡れた音と、ベッドの音と、二人の息が重なる。陽の金髪が祭の顔に落ち、碧眼と黒い瞳が至近で重なる。
キス。ちゅるっ、んむっ。唇でも、身体でも、呼吸を奪い合う。
「陽の声、女の子なのに、動き方は旦那さんのまま……っ、おかしい、頭が、おかしくなるっ」
「お前の声も、いつもよりエロい。……俺をイかせた妻の声だ」
祭の脚を肩に担ぐ。角度が変わり、いっそう深く届く。ずんっ、ずんっ。
「あ゛っ、そこっ、深いっ――ひぎぃぃっ!!」
祭の背が反る。合気の達人の身体が、快感の前ではただの女になる。喉から甘い悲鳴が連続する。
「イク、イクっ、陽、イクぅぅっ……! 一緒、一緒に……っ」
「ああ、一緒だ……っ、んっ、締めるな、イク、イグゥッ!」
陽の腰が大きく震え、祭の奥で熱が弾けた。同時に、陽の女の身体も絶頂で跳ねる。上下両方で果てる奇妙な頂点。美少女の嬌声と、おっさんの魂の嗚咽が、一つの喉から出た。
「あ゛……あぁ……熱い……陽、愛してる、生きて帰ってきて、愛してるっ……」
「祭……俺もだ。お前だけだ。身体がどうなっても、お前だけだ……っ」
腰は、まだ止まらない。一回では足りない夜だった。再び沈める。ぱんっ、ぱんっ、ぱんっ。
祭の指が陽の背を掻き、陽の唇が祭の涙を舐める。怒りも嫉妬も悲哀も、重なった肌の熱で溶けていく。
「んあっ、また、イク、またイクっ、陽のせい、陽のせいよぉっ」
「お前が先に俺を壊しただろ……っ、責任、取れよ、祭っ」
「取ってるわよ……こうして、全部、受け取って……っ、んくっ、来て、また来てっ」
二度目。シーツは、もう元の色には戻らない。
三度目はゆっくりだった。キスを途切れさせず、浅い動きで互いを撫で合う。夏の汗。髪の匂い。十年分の「ただいま」と「おかえり」が、言葉にならない吐息になって重なる。
やがて動きは緩み、陽は祭の上で脱力した。繋がったまま。離れないまま、抱き合ったまま。
祭の指が、陽の金髪を、いつもの少しリズムの悪い癖で撫でる。ぽん、ぽん。
「……鼻、出せ」
「は? 今、それかよ……」
それでも陽は顔を上げ、祭の鼻をツンツンと二回突っつき、最後にギュッとつまんだ。
「ブタっぱな」
「痛い……っ。バカ」
祭は泣き笑いした。陽も、美少女の顔で、おっさんのように鼻をすすった。
「アイリーンのやつ、後で説教だ。……でも、今夜だけは、助けてくれた」
「次に覗いたら、フライパンよ」
「……聞こえてるだろ、あいつ」
ドアの向こうで、アイリーンは自分の指で達した直後、異世界の言葉で小さく「はひぃっ……おめでとうございますぅ、ご主人様……」と呟いていた。
ソファに戻り、タオルケットを被り、今度こそ耳を閉じるふりをする。下僕の仕事は、今夜は終わりだと思いたかった。
寝室では、ようやく男と女として交わることができた二人が、互いの心も身体も深く満たし合っていた。
激しく、そして甘く愛し合った夫婦は、すべての不安と悲しみを溶かし去り、幸福感に包まれながら、繋がったまま深い眠りについた。
エアコンの唸り。遠くの運河の風。濡れたいシーツの感触。
小樽の夜は、それでも静かで。
二LDKの一室だけが、熱を残して、朝を待っていた。
(――続く)




