寝不足の教習所と、金髪女神の噂
九月の小樽。抜けるように高い秋空の青さとは裏腹に、自動車教習所のロビーの隅にあるベンチで、大暮ヨウは完全に死んだ魚の目をしていた。
「……ねむぃ。マジで、脳みそが溶けそうだ……」
手にした微糖の缶コーヒーはすでに二本目だというのに、カフェインなど全く効く気配がない。四十九歳の元高校教師の魂と、レベル99の絶世の金髪美少女勇者・クレアの肉体。その二つが同居するヨウの身体は今、深刻なエラーを吐き出しそうになっていた。
原因は明白である。
昨夜――いや、つい今朝の明け方まで、小樽の安アパートの八畳の居間で繰り広げられた、愛妻・祭と、居候の元魔王・アイリーンによる『女としての徹底的な可愛がり』のせいだ。
本来ならアイリーンの魔法で男根を顕現させ、男として二人を抱くはずだったのだ。しかし、ヨウが教え子の珠子にうつつを抜かしかけたという疑惑(半分事実なのが痛いところだが)をアイリーンに見抜かれ、二人が結託。合気武道の達人である妻と、レベル150の魔王という、現世でも異世界でも最強クラスの二人に両腕を押さえ込まれてしまえば、ヨウに逃げ場などあるはずもなかった。
『ダメだ、やめ……ひぐっ! 俺は男だっ、そんなところ……っ!』
『ふふっ、ヨウ、身体はすっかり女の子になってるくせに。ほら、ここ、すごく熱いよ?』
『マツリ様、ご主人様にはこの身体が本当はどれだけ快感に弱いか、骨の髄まで教えてあげましょうネ』
思い出そうとするだけで、全身の筋肉がゾワリと震え、下腹部の奥がツンと疼く。
一晩中、数え切れないほどの絶頂を強制され、嬌声を上げ続け、男としての尊厳を粉々に打ち砕かれた挙句、一睡もさせてもらえなかったのだ。勇者の超回復力のおかげで肉体的な筋肉痛などはないものの、精神的な疲労と睡眠不足は限界を突破していた。
(あいつら……絶対に許さねぇ。今夜こそ、俺が主導権を握って……いや、無理か。祭の関節技からはどうやっても抜け出せないしな……おいおいおい、俺の人生どうなってんだよ。勘弁してくれよホントに……)
虚ろな碧眼でロビーの床の模様を数えていると、不意に、元気な若い声が降ってきた。
「大暮さん! おはようございます!」
重い頭をゆっくりと上げると、そこには見慣れた爽やかな長身のイケメン――北口翔太が立っていた。北海道大学の学生である翔太は、いつも通りの白いシャツに清潔感のあるジャケットを羽織り、好青年そのものの笑顔を向けてきている。
「……おう、翔太。おはよ」
ヨウは気の抜けた声で返し、小さく欠伸を噛み殺した。しかし、今日の翔太は一人ではなかった。彼の隣には、見たことのない男が立っていたのだ。
「あのさ、大暮さん。いきなりで悪いんだけど……紹介するよ。俺の大学の同級生で、南川誠也」
翔太に紹介され、その男――南川が一歩前に出た。
「ウェーイ! 初めまして、ヨウちゃん! 俺、誠也! 翔太からいつも話は聞いてたけど、マジでやっと会えたっしょ!」
ヨウは、半開きの目で南川をまじまじと見つめた。
身長は翔太と同じくらい高く、優に一八〇センチはあるだろう。しかし、その雰囲気は翔太の爽やかさとは対極にあった。アッシュブラウンに染められた髪は無造作にセットされ、少しオーバーサイズのハイブランドのシャツに、細身のダメージデニム。首元にはシルバーのアクセサリーが光り、足元は限定物のスニーカー。
いわゆる『洗練されたチャラ男』というやつだった。
しかし、そのチャラい外見とは裏腹に、南川の目には、どこか知的で頭の回転の速さを思わせる鋭い光が宿っている。ただの遊び人ではない、気配りや状況判断に長けたタイプの人間だと、元教師であるヨウの直感が微かに告げていた。
「あー……初めまして。大暮だ」
ヨウがぼんやりと挨拶をすると、南川はパッと顔を輝かせ、右手をごく自然に差し出してきた。
ヨウは完全に寝ぼけており、いつもなら初対面のチャラ男とのスキンシップなど適当に躱すところだが、思考力が著しく低下しているため、差し出された手をスッと握り返してしまった。
「うおおおっ!」
南川が、大げさな声を上げて目を見開いた。
「マジか! 手、めっちゃ柔らかいし、すっごい良い匂いする! なんだこれ、フローラル系? それともシャンプーの残り香!? ヤバい、翔太、俺もう手洗えないわ! SNSで『小樽の教習所にいる金髪女神』って噂になってたけど、写真の千倍ヤバいじゃん!」
南川がヨウの手を両手で包み込むようにして大興奮しているのを見て、ヨウは首を傾げた。
「……なぁ。なんで俺の下の名前、知ってるんだ?」
ヨウは教習所では「大暮」と呼ばれている。翔太たち仲間内でも、ヨウが「大暮って呼べ」と言っているため、基本的には苗字呼びだ(結衣だけは勝手にヨウちゃんと呼んでいるが)。
翔太が慌てて割って入り、南川を引き剥がした。
「おい誠也! 気安く触んなって言っただろ! 大暮さん、ごめん。どうして会わせろってコイツうるさくって……。悪いやつじゃないんだけど、ノリが軽くて面倒なヤツでさ」
翔太が申し訳なさそうに頭を下げるが、南川は悪びれる様子もなく、ニカッと白い歯を見せて笑った。
「大暮さんさ、俺、いつも翔太をここまで車で送ってきてるんだよ。だから、これくらいの役得はなきゃダメでしょ?」
南川がウインクを飛ばす。ヨウは、ぼんやりとした頭でその言葉を反芻した。
「送ってきてる? ……ってことは、お前、もう免許持ってるのか?」
「そうそう! 翔太と一緒に合宿じゃなくて通いで入ったんだけど、俺の方が先にサクッと取っちゃってさ。今は親の車借りて、翔太のアッシーやってるってわけ」
南川が自慢げに車のキーを指の先で回してみせる。
それを聞いたヨウは、四十九歳のおっさんの感性で、純粋に感心してしまった。わざわざ免許取り立てで、友達のために小樽の教習所まで毎日のように車を出して送迎してやっているのだ。チャラい見た目に反して、なんて義理堅い奴なのだろうか。
「へぇ……お前、友達思いのいいヤツなんだな」
ヨウが、深い碧眼を細めて優しく微笑みかけた。それは、絶世の金髪美少女が、慈愛に満ちた聖母のような笑みを浮かべた瞬間だった。
「ッ……!!」
南川の動きが、ピタリと止まった。数多くの女性と遊んできたであろうチャラ男の余裕が、一瞬にして消し飛んだ。顔がカァッと熱くなり、心臓が跳ね上がるのを自覚する。
「そ、そうそう! 俺の良さ、わかってくれるんだ! ヨウちゃん、美人なだけじゃなくて人を見る目があるって、最高だね!」
南川は照れ隠しのように早口でまくしたてた。
「おい誠也、もう帰れよ! 大暮さんに迷惑だろ!」
翔太が、明らかに焦った様子で南川を追い出そうとする。翔太にしてみれば、自分が思いを寄せるヨウに、要領が良くてモテる誠也を近づけたくなかったのだ。
しかし、南川は翔太の牽制を軽やかに躱し、スマホを取り出した。
「ちょっと待ってよ! ヨウちゃん、記念に一緒に写真撮っていい? 俺のSNSに載せたいんだけど!」
「写真? あー……いいぞ」
「えっ、マジで!? やった!」
普段のヨウなら、「ネットに顔晒すのは勘弁してくれ」と絶対に拒否するところだ。しかし、今日のヨウは本当に思考力がゼロだった。(まぁ、友達の友達だし、一枚くらい減るもんじゃないしな……)と、完全に判断を誤っていた。
南川がスマホをインカメラにして、ヨウの隣にスッと並ぶ。チャラ男らしく、絶妙な距離感で肩が触れ合うか触れ合わないかの位置をキープする。
「じゃあ、いくよー! はい、チーズ!」
カシャッ!
「あーっ!! 何してるのーっ!!」
シャッター音が鳴った直後、ロビーの入り口の方から甲高い声が飛んできた。見れば、巻き髪にバッチリメイクを決めた結衣と、その後ろから控えめに小走りでついてくるボブカットの紬だった。
「南川くん、抜け駆けはずるい! 私もヨウちゃんと写真撮るー!」
結衣が、凄まじい勢いで突進してきて、ヨウの右腕にガシッと抱きついた。豊かな胸の感触が、ヨウの腕にむぎゅっと押し付けられる。
「あ、あの……私も、大暮さんと一緒に……いいですか?」
紬も、結衣に負けじとヨウの左側にピタッと寄り添い、上目遣いでヨウを見上げてきた。
「ちょ、お前ら、朝から元気だな……」
ヨウが困惑していると、翔太も「俺も混ぜろ!」とヨウの背後に陣取った。
結果として、ヨウを中心にして、右に結衣、左に紬、背後に翔太、そしてスマホを構える南川という、謎の集合写真の構図が出来上がってしまった。
「よしよし、みんな入ってるねー! いくよ、はい、チーズ!」
カシャッ! カシャカシャカシャッ!
南川が連写モードで何枚も写真を撮る。結衣がピースサインを作りながら「ヨウちゃん、もっとこっち来て!」と頬をすり寄せてきたり、紬が照れくさそうにヨウの服の袖をギュッと握ったり、翔太がなんとか南川より目立とうとポーズを決めたり。
「おい、お前ら! 俺の許可も取らずに勝手にくっつくなよ!」
翔太が結衣と紬に文句を言う。
「いいじゃない! 私たち、女同士なんだから! 翔太くんこそ近すぎ!」
結衣が舌を出して反論し、紬も「そ、そうです! 女子特権です!」と珍しく強く言い返す。
ワイワイ、ガヤガヤ。
教習所のロビーの片隅で、彼らは本当に楽しそうに笑い合っていた。
ヨウは、押しつぶされそうになりながらも、そんな彼らの様子を見て、ふと口角を上げた。教習所に通い始めた当初は、結衣と紬が牽制し合い、翔太が割って入ろうとして、常にバチバチと火花が散るようなギスギスした空気があった。しかし、共に学科の勉強会をしたり、技能教習の失敗談を笑い合ったりしているうちに、いつの間にか彼らの間には確かな友情が芽生えていた。
それに、南川は前からの知り合いだったようで、四人は実に自然に笑い合っている。
(……なんか、いいな。こういうの)
四十九歳の元高校教師の魂が、ジンワリと温かくなった。利害関係も何もない、ただ同じ場所で同じ目標に向かって笑い合う若者たちの眩しい時間。「仲間」として扱ってもらえることが、少しだけ嬉しかった。
(若いって、いいな〜……)
温かい気持ちに包まれ、さらに周囲から漂ってくる結衣の甘い香水や、紬の爽やかなシャンプーの香りに安らぎを覚え、ヨウの瞼は重力に負けて、スーッと閉じそうになっていた。立っているのに、本気で寝落ちする五秒前だった。
そんなヨウの限界状態など知る由もない若者たちは、写真撮影を終えると、次の話題へと移っていた。
「そういえばさ」
南川が、スマホをポケットにしまいながら言った。
「ヨウちゃんたちも、そろそろ卒業間近でしょ? 仮免も受かって、あとは路上と卒検くらいだし。どう? 免許取れる前に、景気づけにみんなでどっか遊びに行かない?」
「遊びに!?」
結衣がパッと目を輝かせた。
「行く行く! 私、ヨウちゃんと遊びに行きたい!」
「私も……行きたいです」
紬も、控えめながらもしっかりと賛同の意思を示した。
「お前らなぁ、まだ卒検残ってんだぞ……って、まぁ、気分転換にはいいか。誠也、お前が車出すのか?」
翔太が腕を組んで尋ねる。
「もちろん! 親のSUV借りてくるから、五人ならゆったり乗れるっしょ。でさ、どうせ行くなら……『肝試し』とかどう?」
「き、肝試し……?」
南川の提案に、紬がビクッと肩を震わせた。
「そう! 小樽の奥の方とか、札幌への山道とかに、有名な廃墟とか古いトンネルがあるじゃん。夜のドライブがてら、みんなでそこに行ってみるの。スリルあって絶対楽しいって!」
南川の目は、面白半分な若者特有の好奇心に満ちていた。それに加えて、肝試しとなれば、女の子が怖がって抱きついてくるかもしれないという、チャラ男らしい計算もしっかりと働いているのだろう。紬と結衣も、本当は肝試しに興味があったが行く機会がなかったため、内心ではかなり乗り気だった。
「えーっ、マジで!? 私、そういうの超苦手なんだけど!」
結衣が両手で頬を押さえて大げさに怖がる素振りをしつつ、チラリとヨウの方を見た。(でも、怖がってヨウちゃんにくっつくチャンスかも……!)という下心が、顔にうっすらと書いてある。
「わ、私も……オバケとか、本当にダメで……」
紬も、震える声で言いながら、ヨウの服の裾をキュッと握りしめた。(大暮さんが守ってくれるなら、行きたい……)という乙女心が漏れ出ている。
「お前ら、怖いくせに行く気満々じゃねぇか。まぁ、俺も男だし、何かあったらお前らを守ってやるよ!」
翔太が、ここぞとばかりに胸を叩いて男らしさをアピールする。
三人の視線が、最後にヨウへと集まった。
「ヨウちゃんはどう? 肝試し、行ける?」
結衣が上目遣いで尋ねてくる。
本来なら、ここでヨウの危機管理能力が働くはずだった。珠子から「最近、小樽周辺の霊脈がおかしい」と聞かされているのだ。素人が遊び半分で心霊スポットなどに行けば、本物の『怪異』に巻き込まれる可能性が非常に高い。それに、もし怪異が出た場合、ヨウは勇者の力を使わざるを得なくなり、一般人である彼らに秘密がバレてしまう危険性もある。
普段のヨウなら、間違いなくこう言うはずだった。
『バカ言え、そんな危ねぇところに行くわけないだろ。却下だ却下!』と。
しかし。
(……ドライブ……)
ヨウの泥のように疲れた脳髄に響いたのは、『肝試し』というキーワードではなく、『南川の運転する車に乗る』という部分だけだった。
(……誰かが運転してくれる車で……夜のドライブ……。つまり、後部座席で……ずっと座って寝てられる……最高じゃねぇか……)
睡眠欲。
今のヨウを支配しているのは、ただそれだけだった。怪異が出たらどうする、とか、珠子に怒られる、とか、そんな高度な思考は、睡眠不足による脳のシャットダウン機能によって完全に停止していた。
「……あー」
ヨウは、半開きの目で宙を見つめ、ふわふわとした声で言った。
「いいぞ。行こう」
「「「やったぁーーっ!!」」」
ヨウの快諾に、若者三人が歓声を上げた。南川も「よっしゃ! じゃあ日程と場所は俺がリサーチしとくから、LINEのグループ作ろうぜ!」と手際よく段取りを進めていく。
「おう……よろしくな……」
ヨウは、コクリコクリと舟を漕ぎながら、適当に相槌を打っていた。
この時のヨウは、自分がどれほど軽率な約束をしてしまったのか、全く理解していなかった。素人が集まる夜の肝試し。小樽の山奥に潜む、本物の闇。
後になって正気に戻った時、四十九歳のおっさんが「なんで俺、あんなこと了承しちまったんだぁぁぁッ!!」と頭を抱えて絶叫することになる未来が待っているとは、夢にも思っていなかったのである。




