手につかない受験勉強と、魔法の弟子入り
八畳の居間のちゃぶ台に広げられた、分厚い高卒認定試験の参考書。
ノートにカリカリとシャーペンを走らせる音だけが、静かな部屋に響いていた。
「……くそっ、二次方程式の解の公式なんて、三十年ぶりに見たぞ。おっさんの脳みそにはキツすぎる……」
大暮ヨウは、絶世の金髪美少女の顔をしかめ、シャーペンの後ろでこめかみをトントンと叩いた。
四十九歳の元高校教師とはいえ、担当教科以外のこととなると、記憶の引き出しはすっかり錆びついている。
愛する妻、祭の負担を少しでも減らすため、そしてこの理不尽な状況でまともに生きていくためには、なんとしてもこの試験に合格して「学歴」を手に入れなければならない。
しかし、今日はどうにも集中できなかった。
『あははっ、アイリーンさん、くすぐったいです!』
『タマコの肌、本当にすべすべですネー! マツリ様とはまた違った弾力がありますヨ!』
薄い壁一枚を隔てたユニットバスから、キャッキャウフフという女子二人の楽しげな声が、シャワーの水音に混じって絶え間なく聞こえてくるのだ。
「……俺は、本当にダメな男だな」
自嘲気味に呟き、再び参考書に目を落とそうとした、その時だった。
ガチャリ、と脱衣所のドアが開く音がした。
「ふぅーっ、さっぱりしましたネ!」
「はい、とっても気持ちよかったです。ありがとうございました、アイリーンさん」
湯気と共に、二人の美女が居間へと戻ってきた。
ヨウは、動揺を隠すように参考書を見つめたまま「おう、風呂長かったな」と声をかけた。
だが、チラリと視界の端に入った珠子の姿に、ヨウの心臓がドキンと跳ね上がった。
ラフなTシャツと短パンという借り物の部屋着姿。風呂上がりの熱気で上気した白い頬。そして、濡れて束になった黒髪が首筋に張り付き、普段のクールなエージェントとは全く違う、無防備で色っぽい雰囲気を漂わせていた。
(いかんいかん、見るな俺。煩悩を捨てるんだ)
ヨウが必死に視線を参考書に戻していると、アイリーンが珠子の後ろに立った。
「さぁ、髪を乾かしましょう。タマコ、動かないでくださいネ」
「え? ドライヤーならそこにあ……」
珠子が部屋の隅を指差そうとした瞬間だった。
アイリーンが、濡れた自分の真紅の髪と、珠子の黒髪に向けて、パチンッと指を鳴らした。
フワァッ……!
その瞬間、部屋の中に心地よい温風が巻き起こった。
目に見えない柔らかな魔力の風が二人の髪を包み込み、まるでサロンの高級ドライヤーを何台も同時に使ったかのように、わずか数秒で濡れた髪がサラサラに乾いてしまったのだ。
「えっ……!?」
珠子は、自分の乾いた髪を触り、目を丸くして驚愕した。
「すごい……! 一瞬で乾きました……! これ、どうやったんですか!?」
「ふふんっ、簡単な生活魔法ですヨ。『温風乾燥』と言います。魔力で熱と風を操って、水分だけを効率よく飛ばすんです」
アイリーンは、自慢げに豊かな胸を張った。
珠子は、羨望の眼差しでアイリーンを見つめた。
神道系の結界や符術は使える珠子だが、こういったファンタジー世界特有の便利な魔法は使えない。
「あの……私にも、できませんか?」
珠子が恐る恐る尋ねると、アイリーンは腕を組み、元魔王らしい威厳のある(?)顔つきで真剣に考察し始めた。
「うーん……異世界では、魔力を持つ者なら、この程度の生活魔法は比較的簡単に覚えられました。タマコは、こっちの世界の人間ですが……」
アイリーンは、珠子を上から下まで値踏みするように見た。
「私との特訓でレベル55まで上がっていますし、何より、異世界の国宝である『聖剣カミール』を所持し、異世界のエネルギー(魔力)をその身に馴染ませています。……うん、教えれば、覚える可能性は十分にありますヨ」
「本当ですか!?」
珠子の顔がパァッと輝く。
エージェントとしての戦闘力向上だけでなく、純粋に魔法への憧れがあったのだろう。
アイリーンは、ウンウンと頷きながらヨウの方を見た。
「タマコには、私の戸籍やスマホを用意してもらったり、色々と借りしかありません。……ヨウお姉さん、タマコに魔法を教えても良いですか?」
ヨウは、参考書から顔を上げて、胡散臭そうにアイリーンを見た。
「教えるのは別にいいけど……お前、人に教えたりできるのか? 魔法の理論とか、ちゃんと説明できるんだろうな?」
そのヨウの疑いの眼差しに、アイリーンのオッドアイがカッと見開かれた。
「ヨウお姉さん! 私をなんだと思っているんですか!? これでも異世界では数百年間、世界を震撼させ、全種族から恐れられた大魔王ですよ! 魔法の知識と技術において、私の右に出る者などいません!」
アイリーンがバンッとちゃぶ台を叩いて抗議する。
しかし、ヨウは鼻で笑った。
「なんだと思ってるって……俺の下僕で、俺と祭の愛玩動物だろ?」
「~~~ッ!!」
アイリーンの顔が、茹でダコのように真っ赤になった。
「そうです! 今はそうですけどっ! それだけじゃ無いんです! ヨウお姉さんは、いつもいつも、そうやって意地悪な言い方をします!」
プンスカと怒りながら、両手を振り回して抗議するアイリーン。
そのあまりにも威厳のない、子供のような元魔王の姿に、珠子は思わず「ふふっ」と吹き出してしまった。
「あはは……アイリーンさん、本当にヨウのことが好きなんですね」
珠子がクスッと笑うと、先ほどまでの重く息苦しいモヤモヤとした空気が、嘘のように霧散していくのをヨウは感じた。
やはり、この賑やかでくだらないやり取りこそが、自分たちの日常なのだ。
ヨウは、苦笑しながらアイリーンに言い返した。
「お前こそ、ほんとさっきから文句ばっかり多いぞ! いつも『ゴシュジンサマァ〜』ってベッタリ甘えてきて、めんどくさいくせによ!」
「ふんっ!」
アイリーンは、そっぽを向いて鼻を鳴らした。
「ふん、だと?!」
ヨウが眉を吊り上げて言い返そうとした、その時だった。
ガチャリ。
玄関の重い金属ドアが開く音がした。
「ただいまーっ!! あー、疲れたーっ!!」
元気いっぱい、明るく太陽のような声。
深夜までイタリアンレストランでのアルバイトを終えた、愛妻・祭の帰宅だった。
「おっ、おかえり、祭! お疲れさん!」
ヨウが立ち上がって出迎える。
すると、先ほどまでヨウに「ふん!」と反抗的な態度をとっていたアイリーンが、まるで尻尾を振る大型犬のように態度を豹変させ、玄関へと飛んでいった。
「マツリ様ァァァ!! おかえりなさいマセェェェッ!! お疲れ様です、お荷物お持ちしますぅぅ!」
「あはは、ありがとうアイリーン。ただいま」
祭は、疲労の色を見せながらも、底抜けに明るい笑顔でアイリーンの頭を撫でた。
居間の空気が、彼女が帰ってきただけで、パッと華やかに、そして温かく変わる。
これが、大暮祭という女性が持つ、不思議な魅力だった。
珠子も、慌てて立ち上がり、居住まいを正した。
「あ、祭さん。夜分遅くに、お邪魔しています」
「あ! 珠子ちゃん! いらっしゃい!」
祭は、珠子を見るとさらにパァッと顔を輝かせた。
「今日は、陽に仕事くれて本当にありがとうね! おかげですっごく助かってるよ〜。うち、珠子ちゃんにはお世話になってばっかりだね」
「と、とんでもないです。お世話になっているのは、私の方です。……ヨウにも、アイリーンさんにも、たくさん助けていただいてますから」
珠子が恐縮して頭を下げると、アイリーンがエッヘンと胸を張って祭に進言した。
「マツリ様! 実は、タマコに魔法を教えることになったのですが、今後、そのためにこの部屋を使っても良いですか?」
「え? 魔法? すごいね! もちろんいいよ! 珠子ちゃんなら、いつでも大歓迎!」
祭は、何の躊躇いもなく即答した。
「おい、ちょっと待て!」
そこで、ヨウがたまらず口を挟んだ。
「なんで家長の俺に聞かないで、祭の許可だけで決まるんだよ!」
ヨウが正論をぶつけると、アイリーンは振り向き、これ以上ないほどのドヤ顔で言い放った。
「今、この家族で一番偉いのは、マツリ様です!!!」
「うっ……!」
昼も夜も身を粉にして働き、家計を支えてくれているのは間違いなく祭だ。
そして何より、先ほどの珠子とのキス未遂という「負い目」があるヨウは、アイリーンのその痛烈な一撃に、反論の言葉を飲み込むしかなかった。
(くそっ……俺の威厳、ゼロじゃねぇか……)
ヨウが肩を落としていると、祭がクスクスと笑いながらアイリーンを窘めた。
「アイリーン、ダメよ。そういう時は、ちゃんと陽を立てなさい」
「えっ? でも……」
祭は、ニコッと笑っているが、その瞳の奥には有無を言わさぬ「正妻のオーラ」が宿っていた。
「ここで一番偉いのは、私の旦那様である陽なの。稼ぎとか関係なく、陽がこの家の柱なんだから。わかった?」
「……ハイ。分かりました」
アイリーンは、シュンと耳を伏せた犬のように頷いた。
「よろしい」
祭は、ニッコリと笑って、アイリーンの頭をよしよしと優しく撫でた。
「どうしたのアイリーン? いつも陽にベッタリくっついて甘えてるのに、今日はなんだかツンツンして。……さては、陽に何か意地悪でもされた?」
「エヘヘ……マツリ様ぁ……」
祭に優しく撫でられ、強張っていたアイリーンの顔が、ふにゃりとだらしなく柔らかくなる。
ヨウは、そのやり取りを見て、ようやく心の底からホッと息を吐き出した。
祭のこの懐の深さと、明るさ。
これがあるから、この奇妙な同居生活は成り立っているのだと、改めて実感する。
「あー、イタリアンは油の匂いがつくから嫌だなぁ。汗もすごいし……珠子ちゃんごめんね、私、先にシャワー浴びてきちゃう! ゆっくりしていってね!」
祭は、荷物を置くと、バスタオルを手に取って脱衣所へと向かった。
「おう、お湯まだ温かいから、ゆっくり浸かって疲れとってこいよ」
ヨウが優しく声をかける。
「あーん、嬉しい! お湯張っててくれたんだね。陽、ありがとう!」
祭は、くるりと振り返ると、満面の笑みでヨウに向かってチュッと投げキッスをして、脱衣所へと消えていった。
残された八畳の居間。
珠子は、小さく息を吸い込み、ビジネスバッグを手にした。
「……いえ、もう夜も遅いですし、私はこれで帰ります。お風呂上がりの祭さんのお邪魔をするのも悪いですから」
「え? もう帰るのか? せっかくなら、祭が上がるまで待ってても……」
「大丈夫です。……アイリーンさん、魔法の教授、これからよろしくお願いします。都合の良い日時は、またメールしますね」
「ハイ! 任せてくださいネ!」
アイリーンが元気に手を振る。
珠子は、ヨウに向き直り、深く頭を下げた。
「ヨウ。今日の仕事、手伝ってくれて本当にありがとうございました」
「おう。またいつでも声かけろよ。稼がせてもらうからな」
「はい。……それと、これから魔法の特訓で、お邪魔することが増えると思います。よろしくお願いします」
その言葉には、ただの協力者としてではなく、この温かい家族の輪の中に、少しでも関わっていたいという少女の切実な願いが込められていた。
脱衣所のドア越しに、祭の明るい声が響く。
『珠子ちゃん! そんなにお礼とか言わなくていいからね! 珠子ちゃんは私たち家族の恩人なんだから、気使わないで、自分の家だと思っていつでも遊びに来てねー! おやすみなさーい!』
「……っ」
その裏表のない、真っ直ぐで優しい祭の言葉に。
珠子は、胸の奥がギュッと締め付けられるような、温かくて、そして少しだけ苦しい感情を抱いた。
(祭さんは……本当に、敵わないな)
「……はい! お邪魔しました。みなさん、おやすみなさい」
珠子は、無理に笑顔を作り、深々と頭を下げて玄関へと向かった。
「おう、夜道気をつけて帰れよ。おやすみ」
「タマコ、おやすみなさい!」
ヨウとアイリーンの声に見送られ、珠子は古いアパートのドアを閉めた。
***
小樽の夜。
帰りのCX-60の車内は、行きとは違い、ひどく静かだった。
珠子は、一人でハンドルを握りながら、今日の出来事を反芻していた。
遺跡での調査、車内での嫉妬、そして、あの八畳の居間での、あわやキスをしてしまいそうになった瞬間。
ヨウの腕の温もりと、甘い匂いが、まだ肌に残っているような気がする。
(……私は、どうしたいんだろう)
ヨウのことが好きだ。
でも、あの温かい家族の輪を、祭さんのあの太陽のような笑顔を、壊したいわけじゃない。
むしろ、あの場所にずっといたいと、そう願ってしまっている自分がいる。
「……本当に、厄介だな」
珠子は、ポツリと呟き、小樽の夜景に向かって静かに車を走らせた。
胸の中のモヤモヤは、魔法の風でも吹き飛ばせないまま、夜の闇に溶けていった。




