豚づくしの夕食と、姉妹のような二人
「ヨウお姉さぁぁん! ただいまもどりましたぁぁぁーっ!! 見てください、豚肉が半額でしたよぉぉっ!!」
ガチャァァァンッ!!という景気の良い音と共に、古い安アパートの玄関ドアが勢いよく開かれた。
両手にスーパーのビニール袋を提げ、赤と青のオッドアイをキラキラと輝かせているのは、元魔王のアイリーンだ。
180センチの長身を屈めるようにして八畳の居間に入ってきた彼女は、部屋の中の異様な空気に首を傾げた。
「……? お二人とも、お顔が真っ赤ですが、暑いのですか?」
「あ、暑い! 今日はなんだかやけに蒸し暑いな! なぁ、珠子!」
「は、はいっ! 熱気が、すごいです! 扇風機だけじゃ足りないくらいで……っ!」
ヨウと珠子は、お互いにあらぬ方向を見ながら、パタパタと必死に手で顔を扇いでいた。
ほんの数秒前まで、お互いの胸が潰れるほど強く抱きしめ合い、唇が触れ合う寸前だったのだ。
ドクン、ドクン、ドクン……。
ヨウの胸の奥では、四十九歳のおっさんの心臓とは思えないほど、激しい鼓動が鳴り響いている。
視線の端に映る珠子も、耳の裏から首筋にかけて真っ赤に染まっており、膝の上に置かれた両手がかすかに震えていた。
(危なかった……! あと一秒アイリーンの帰りが遅かったら、俺は確実に珠子に手を出してたぞ……!)
冷や汗と、得体の知れない熱が入り混じった汗が、ヨウの背中を伝う。
「……そうですか? 外は涼しい海風が吹いていましたが……」
アイリーンはビニール袋を床に置くと、ジトォ……と、半眼になって二人を交互に見つめた。
元魔王の鋭い直感なのか、それとも同じヨウを慕う女としての勘なのか。
言葉には出さないが、明らかに『何かあった』と察しているような、ねっとりとした視線だった。
その視線に耐えきれなくなった珠子が、バンッと勢いよく立ち上がった。
「あ、あの! アイリーンさん! おかえりなさい!」
「……ハイ。タマコ、お疲れ様です」
「今日は、アイリーンさんに改めてお礼を言いたくて、お邪魔させていただいたんです!」
珠子は、真っ赤な顔を必死に引き締め、エージェントとしての凛とした声を出そうと努めた。
「先日、異世界の国宝級マジックアイテムである『聖剣カミール』を私に譲っていただき、本当にありがとうございました! それに、私の実力不足を見かねて、厳しいレベル上げの特訓まで手伝ってくださって……。あの力がなければ、今日の遺跡調査もどうなっていたか分かりません。本当に、感謝しています!」
珠子は深々と、九十度の角度で頭を下げた。
ヨウも、動揺を隠すように咳払いを一つして、それに同調する。
「お、おう! 俺からも礼を言うぜ、アイリーン。お前が珠子を鍛えてくれたおかげで、今日はずいぶんと助かった。本当にサンキューな!」
ヨウが親指を立てて爽やかに笑いかけると、アイリーンのオッドアイが細められた。
「…………分かりましたヨ」
アイリーンは、小さくため息をつくと、それ以上は追求しないというように肩をすくめた。
そして、床に置いたビニール袋を両手で持ち上げる。
「まぁ、ヨウお姉さんもタマコも、お仕事でお腹が空いているでしょうから。私が夕食を作りますね。今日は特売の豚肉フルコースですヨ!」
アイリーンが自慢げに胸を張る。
その言葉に、ヨウは罪悪感を少しでもごまかそうと、勢いよく立ち上がった。
「おっ、マジか! よし、俺も手伝うぜ!」
「わ、私も手伝います!」
珠子も慌てて申し出る。
しかし、アイリーンはピシャリと言い放った。
「ヨウお姉さんは、座っていてください」
「え?」
「ヨウお姉さんは、家では今まで一度も料理を手伝ったことないでしょう? マツリ様がいらっしゃらない時も、私が作っています。それに……」
アイリーンは、ヨウを上から下までジロリと眺めた。
「ヨウお姉さんが作れるのは、茶色い『男メシ』だけです。繊細な味付けはできません。それに、このアパートのキッチンはとても狭いので、ヨウお姉さんのようなダイナミックな動きをする人がいると、本当に邪魔です」
「なっ……!?」
痛いところを突かれ、ヨウは絶句した。
確かに、男時代は料理など全くしなかったし、今の身体になっても、祭やアイリーンに任せきりだったのは事実だ。
「お、お前……! ご主人様に向かって『ホントウにジャマ』って、そこまで言うか!?」
「事実です。ヨウお姉さんは、大人しく麦茶でも飲んでいてください」
アイリーンはヨウの抗議を完全に無視すると、珠子の方を向いてふわりと微笑んだ。
「タマコ。キャベツの千切りと、お味噌汁の準備、手伝っていただけますか?」
「あ……はいっ! ありがとうございます!」
珠子は、ヨウのいる居間から逃れられる安堵と、アイリーンから頼りにされた嬉しさが入り混じった顔で、パタパタとキッチンへと向かっていった。
「よし、じゃあエプロンを着けましょうね」
「はい。私、包丁の扱いは得意ですから、千切りは任せてください」
「頼もしいですネ。ふふっ」
トントントントン……という軽快な包丁の音と、楽しげな女子二人の話し声が、狭いキッチンから聞こえてくる。
「…………なんだよ、俺だけ仲間外れかよ」
一人取り残されたヨウは、ちゃぶ台の前にドカッと座り、いじけたように麦茶をあおった。
なんだか、ものすごく理不尽な扱いを受けている気がするが、先ほどの「キス未遂」の負い目があるため、強く出ることもできない。
すると、キッチンからアイリーンの声が飛んできた。
「ヨウお姉さん! いじけてないで、先にお風呂に入ってきてください! あ、入る前に、お風呂の掃除もお願いしますネ!」
「はぁ!? なんで俺が風呂掃除まで……!」
「いいから、早く行ってください! ヨウお姉さんは汗くさいです!」
「くさくねぇよ! 俺の身体は美少女特有の良い匂いがするんだよ!」
「はいはい、分かりましたから。お風呂用の洗剤は、洗面台の下ですヨ!」
アイリーンの有無を言わさぬ指示に、ヨウは「なんだよ今日は……なんか当たりがきついぞ……」とブツブツ文句を言いながら、立ち上がった。
洗面台の下からスポンジと洗剤を取り出し、狭いユニットバスの浴槽をゴシゴシと洗い始める。
「……あいつ、絶対さっきの空気察して怒ってやがるな。魔王のくせに、妙に人間くさいというか、女の勘が鋭いというか……」
ため息をつきながら、浴槽にお湯を張る。
服を脱ぎ、シャワーで汗を流してから、熱めのお湯にゆっくりと肩まで浸かった。
「……ふぅぁぁぁ……」
思わず、おっさん臭い声が漏れる。
温かいお湯が、遺跡調査の疲労と、先ほどの極度の緊張をゆっくりと解きほぐしていく。
しかし、身体がリラックスすればするほど、頭の中は冷静さを取り戻し、先ほどの自分の行動に対する後悔が波のように押し寄せてきた。
(……俺は、何をしようとしてたんだ?)
ヨウは、お湯の中で自分の両手を見つめた。
(珠子は、俺たち家族の恩人だ。金銭面でも、身分の偽造でも、どれだけ世話になったか分からない。何より、大切な友達で……俺が教師だった頃の、大事な元教え子だぞ)
目を閉じると、涙をこぼしながら「うらやましいです」と訴えた珠子の顔が、鮮明に蘇る。
恋する少女の、痛いほどの純粋な想い。
それにほだされて、あわや一線を越えそうになった自分。
(手を出してはダメだ。絶対に)
ヨウには、愛妻の祭がいる。
年齢差があるとはいえ、自分のような冴えないおっさんを心の底から愛してくれた、世界で一番大切な妻だ。
そして、強引にとはいえ、今ではアイリーンという責任を持たなければならない存在までいる。
(そうだ。俺は祭を裏切るわけにはいかない。珠子の気持ちに応えることはできないんだ)
ヨウは、湯船の中でギュッと拳を握りしめ、自分自身に強く言い聞かせた。
大人として、元教師として、これ以上彼女を振り回してはいけない。正しい距離を保たなければならない。
頭では、完全に理解している。
それが正解だと分かっている。
「……なのに」
ヨウは、右手をゆっくりと自分の胸に当て、ギュッと強く握りしめた。
豊満な双丘の奥底で、トクトクと脈打つ心臓。
珠子の涙を思い出し、彼女の震える小さな唇を思い出すだけで、どうしようもなく胸が苦しくなるのだ。
これは、四十九歳の男としての情なのか。
それとも、この若く美しい勇者の肉体に引っ張られているのか。
(……苦しいな)
ヨウは、お湯に顔を半分沈め、ブクブクと泡を吐き出した。
答えの出ないモヤモヤとした感情が、狭いユニットバスの中に澱みのように溜まっていく。
「ヨウお姉さぁーん! 夕食できましたヨ! 長風呂すぎです、早く上がってきてくださーい!」
ドアの向こうから、アイリーンの大きな声が響いた。
「お、おう! 今出る!」
ヨウは、顔をパシャパシャと洗って未練がましい思考を断ち切ると、勢いよく湯船から立ち上がった。
***
生活魔法で一瞬で髪を乾かしリビングに戻ると、ヨウの目に飛び込んできたのは、ちゃぶ台の上に所狭しと並べられた『豚肉の祭典』だった。
「おおおっ……! すげぇ!!」
ヨウの碧眼が、これ以上ないほどに輝いた。
中央には、黄金色にサクサクと揚がった特大のトンカツ。その隣には、山盛りのキャベツの千切り。
さらに、ごま油の香ばしい匂いが漂う具沢山の豚汁。
さっぱりとしたポン酢ダレがかかった冷たい豚しゃぶと、彩り豊かなトマトとレタスのサラダ。
そして、それぞれの前には、炊き立てのツヤツヤとした白米が、どんぶりに山盛りによそわれていた。
「どうですか、ヨウお姉さん! スーパーで豚肉のブロックが半額だったので、色々作ってみましたヨ!」
「珠子さんがキャベツの千切りと、お味噌汁を作ってくれました。すごく手際が良くて助かりましたヨ」
エプロン姿のアイリーンが誇らしげに胸を張り、珠子も少し照れくさそうに微笑んでいる。
「いや、マジで最高だ! めちゃくちゃ美味そうじゃねぇか!」
先ほどまでの深刻な悩みなど一瞬で吹き飛び、ヨウの頭の中は『食欲』という原始的な欲求で埋め尽くされた。
「それじゃあ、冷めないうちに……いただきます!」
「「いただきます!」」
ヨウは、まずはトンカツにたっぷりとソースをかけ、一番分厚い真ん中の一切れを箸で掴んだ。
そのまま、大きな口を開けてガブリと噛み付く。
サクッ!という小気味良い音と共に、ジューシーな豚肉の脂と甘みが、ソースの酸味と絡み合って口の中いっぱいに広がる。
「……うんまァァァッ!!」
ヨウは感動のあまり目を剥き、そのままどんぶりの白米をワシワシと掻き込んだ。
米の甘みと豚肉の脂が、最高のハーモニーを奏でている。
すかさず豚汁をすすると、根菜の旨味と豚バラ肉のコクが溶け込んだ味噌の風味が、胃の奥まで染み渡る。
「美味い! アイリーン、お前、料理の腕また上がったんじゃないか!? この豚しゃぶもさっぱりしてて、トンカツの合間に食うと無限にいけるぜ!」
「エヘヘ……マツリ様に教えていただいたレシピを、忠実に再現しましたからネ!」
ヨウが夢中でモリモリと食べていると、先ほどまで沈んでいた気持ちが、嘘のようにスカッと晴れ渡っていくのを感じた。
(美味しいものを食べて、お腹いっぱいになれば機嫌が良くなる……。俺って、本当に単純な生き物だな)
心の中で自分にツッコミを入れながらも、箸は止まらない。
ふと前を見ると、アイリーンと珠子も、ニコニコと笑い合いながら食事を進めていた。
「アイリーンさん、このトンカツの衣、すごくサクサクですね。どうやったらこんなに上手に揚がるんですか?」
「ふふっ、それは企業秘密ですヨ。……と言いたいところですが、特別に教えてあげます。卵に少しだけ油を混ぜるのがコツなんですヨ」
「なるほど……勉強になります!」
二人は、すっかり打ち解けた様子で、まるで本当の姉妹のように仲良く言葉を交わしている。
ヨウは、トンカツを頬張りながら、その不思議な光景をまじまじと見つめた。
(……なんか、この二人、すげぇ仲良くなってないか?)
元々、珠子とアイリーンは元々仲は良かったが、今日はさらに親密さが増しているような気がする。
珠子がアイリーンを「頼れるお姉さん」のように慕い、アイリーンも珠子を「可愛い妹」のように可愛がっている。
普段、祭やヨウの前では「甘えん坊の大型犬」として可愛がられるばかりのアイリーンが、しっかり者のお姉さんぶっているのが、なんとも新鮮で不思議な感じだった。
(俺が風呂に入っている間に、キッチンで何があったんだろう……女同士の秘密の会話でもしてたのか?)
少しだけ疎外感を感じたが、まあ、二人が仲が良いのは悪いことではない。
ヨウは「美味い美味い」と相槌を打ちながら、食事の楽しい時間を満喫した。
***
「あー、食った食った! 腹パンパンだぜ。ごちそうさま!」
どんぶりの米一粒、キャベツの一欠片まで綺麗に平らげ、ヨウは満足げに息を吐いた。
アイリーンと珠子も、「ごちそうさまでした」と手を合わせる。
「よし! 飯作ってもらったし、ここは俺が洗い物するわ。アイリーン、お前お風呂入ってこいよ。俺が綺麗に洗ったばかりだし、お湯が勿体無いからな」
ヨウが食器を重ねながら言うと、アイリーンのオッドアイが丸くなった。
「……珍しいです」
「は? 何がだ?」
「ヨウお姉さんが、自分から洗い物をするなんて。明日は雪が降るかもしれませんネ」
アイリーンがからかうように言うと、隣で珠子が不思議そうに首を傾げた。
「え、珍しいんですか? こないだの塩谷海岸でのキャンプの時は、ヨウ、たくさん食事の準備も片付けもしてましたよ?」
珠子の言葉に、アイリーンは「チッチッチッ」と人差し指を振りながら、ドヤ顔で言い放った。
「タマコ、それは騙されていますヨ。ヨウお姉さんは、家の中では家事なんて一切しません!!! 昭和のガンコオヤジです。外でバーベキューとかやる時だけ、急に張り切るタイプなんです。それは、外だけデス!」
「なっ……!」
図星を突かれ、ヨウの顔がカァッと赤くなった。
確かに、四十九歳の男としての習性で、アウトドアの時は「俺に任せろ」と張り切るくせに、家の中の細々とした家事は祭やアイリーンに任せきりだったのだ。
「う、うるさいな! 今日はさっきから俺への文句が多いぞ! いいから早く風呂行け!」
照れ隠しで、ヨウは立ち上がったアイリーンの大きなお尻を、パーンッ!と平手で叩いた。
「ヒャンッ!?」
良い音が居間に響き、アイリーンがビクッと飛び上がる。
「もうっ! ヨウお姉さんのセクハラ! 訴えますヨ!」
「へいへい、好きにしろ。ほら、早く行け」
アイリーンは「プンプン!」と怒ったフリをしながらも、楽しそうに脱衣所へと向かっていく。
そして、振り返って珠子を手招きした。
「さぁタマコ、私たちも一緒にお風呂に入りましょう!」
「えっ……私、もですか?」
「当然です! 一緒にお背中流しっこしましょうネ!」
アイリーンが半ば強引に珠子の手を引く。
「お、おい! うちのユニットバスは狭いんだぞ! お前ら二人じゃ、絶対無理だろ!」
長身のアイリーンと、スタイルの良い珠子。二人が一緒に入るには、あの風呂はあまりにも手狭だ。
ヨウが呆れて止めるが、二人は聞く耳を持たなかった。
「大丈夫ですヨ! 密着すれば入れますから!」
「あ、アイリーンさん、引っ張らないでくださいーっ」
バタンッ、と脱衣所のドアが閉まる。
しばらくすると、シャワーの音に混じって、
「アイリーンさん、そこくすぐったいです!」
「ふふっ、タマコの肌、すべすべですネ〜」
といった、楽しそうなキャッキャウフフという黄色い声が、狭いアパートの壁を越えて聞こえてきた。
「…………」
シンクの前に立ち、スポンジで皿を洗いながら、ヨウは蛇口の水音では消せないその声を聞いていた。
(……なんだよ、あの二人。俺の知らないところで、すっかり意気投合しやがって)
さっきまでの、自分と珠子の間の、あの息が詰まるような切ない時間はなんだったのか。
二人が仲良くなったのは喜ばしいことのはずなのに。
そして、自分が「手を出してはいけない」と強く誓ったばかりなのに。
それなのに、なぜか自分だけが蚊帳の外に置かれているような、妙な疎外感。
いや、違う。これは……。
(……なんだか、ものすごくモヤモヤするぞ)
ヨウは、泡だらけの皿をキュッキュッと力強くこすりながら、四十九歳にして初めて味わうような、複雑で厄介な感情を持て余していた。




