ただの元教え子の涙と、豚肉半額の乱入
すっかり日の落ちた小樽の街。
オレンジ色の街灯が等間隔に並ぶ坂道を上り、葉室珠子の運転するCX-60は、ヨウたちが暮らす古い安アパートの前に静かに滑り込んだ。
エンジンを切ると、車内には心地よい疲労感と、沈黙が降りた。
「ふぅ、着いたな。今日も一日ありがとよ、珠子」
助手席でシートベルトを外しながら、ヨウが気だるげに、けれど優しい声で労いの言葉をかける。
「いえ、こちらこそ。……お疲れ様でした、ヨウ」
「なぁ、時間大丈夫か? もしよかったら、上がってお茶でも飲んでいけよ」
ヨウが何気なく誘うと、珠子の肩がビクッと跳ねた。
(ヨウの部屋で……お茶……!)
先ほどの車内での甘酸っぱいやり取りの余韻が残っている中で、二人きり(かもしれない)の部屋へのお誘い。
珠子の胸の奥で、再び警鐘と期待が入り交じった音が鳴り響く。
「あ……はい。じゃあ、せっかくなので。アイリーンさんに色々手伝ってもらったし『聖剣カミール』をいただいたお礼を改めて言いたかったですし……お言葉に甘えます」
もっともらしい理由を口にしながら、珠子は少し上擦った声で頷いた。
***
ガチャリ、と古びたドアを開けて中に入る。
「ただいまー。……あれ?」
ヨウが靴を脱ぎながら声をかけるが、部屋の中は静まり返っていた。
いつもなら「ゴシュジンサマァ!」と猛ダッシュで飛びついてくる大型犬のような元魔王の姿がない。
「アイリーン、いないみたいだな。……ああ、ちゃぶ台にメモがある。スーパーの特売日だから、買い物に行ってくるってさ」
ヨウがちゃぶ台の上のチラシの裏に書かれた、たどたどしいひらがなのメモを見て苦笑する。
「祭さんは……?」
「祭は今日は惣菜屋のあとにイタリアンのバイトが通しで入ってるから、帰りは深夜だ。アイリーンもそのうち帰ってくるだろうし、とりあえず適当に座っててくれ。お茶淹れるから」
「はい、お邪魔します」
珠子は少し緊張しながら、八畳の居間の座布団にちょこんと正座した。
扇風機が首を振りながら、微かな風を送っている。
「ちょっと待ってろ。汗かいちまったし、先にお茶淹れる前に着替えてくるわ」
ヨウはそう言うと、クローゼットから適当な服を引っ張り出し、無造作にその場で着ていたパーカーを脱ぎ始めた。
「ちょっ……! ヨウ!?」
「ん? なんだ?」
スポッとパーカーを脱ぎ捨てた無防備な下着姿のヨウが、居間の蛍光灯の下に惜しげもなく晒される。
「お、お客さんがいるのに、急に脱がないでください!」
「あ? 別に女同士なんだからいいだろ? ……あ、そうか。お前、こういうの気にするタイプだったな。わりぃわりぃ」
四十九歳のおっさんであるヨウは、家の中では基本的に「ブラジャーとパンティ一丁」という、非常にだらしない姿でうろついていることが多い。
しかし、今日は客である珠子がいるため、これでも一応気を使って、白のTシャツとグレーの短いスウェットパンツという姿に着替えたのだ。
「よし、これで文句ないだろ」
「……はい」
珠子が恐る恐る指の隙間から覗き込むと、ラフなTシャツと短パン姿のヨウが立っていた。
(……それでも、やっぱりドキドキする)
Tシャツと短パンというラフな格好でも、隠しきれないその美貌とスタイルの良さに、珠子の心臓は高鳴ってしまう。
ヨウが動くたびにふわりと漂ってくる、甘くて清潔な良い匂いにクラクラしそうだった。
珠子は、沸騰しそうな顔を必死に冷まそうと、持参したビジネスバッグから茶封筒を取り出した。
「よ、ヨウ。これ、今回の遺跡調査の報酬です。規定通り、三十万円になります」
「おっ! マジか! 助かるぜ、珠子!」
お茶を淹れて戻ってきたヨウは、現金が入った分厚い封筒を受け取ると、碧眼をキラキラと輝かせた。
「これでまたしばらく家計が助かるし、高認試験の勉強代にも回せる。本当にありがとうな」
ヨウが心からの笑顔でお礼を言うと、珠子も少しだけ照れくさそうに微笑んだ。
「いいえ。ヨウの力が必要だったのは事実ですから。正当な報酬です」
温かい麦茶を啜りながら、しばらく他愛のない世間話が続いた。
しかし、ヨウがふと思い出したように、少しだけ意地悪な笑みを浮かべた。
「にしてもさ。車の中での珠子、可愛かったな」
「……っ、な、何のことですか」
「結衣のことだよ。お前、教習所の仲間に本気でヤキモチ焼いてただろ? 俺たちは友達なんだから、そんなことでいちいち嫉妬するなよ。……あ、いや、今の言い方は悪かったな」
四十九歳のおっさん特有の照れ隠しを含んだ軽口だったが、ヨウはすぐに自分の失言に気づき、ハッとして言葉を濁した。
しかし、その言葉は、珠子の張り詰めていた乙女心の導火線にすでにあっさりと火をつけてしまっていた。
「……嫉妬するなって言われても」
珠子は、膝の上でギュッと拳を握りしめた。
「自分では、どうにもならないから……厄介なんです!」
「え……珠子?」
予想外の強い口調に、ヨウは驚いて麦茶のコップを置いた。
珠子の大きな瞳には、うっすらと涙が滲んでいた。
普段のクールで大人びたエージェントの顔はそこにはなく、ただ一人の恋する少女の顔があった。
「だって……アイリーンさんは、なんだかんだ言っていつもヨウにベッタリ甘えてるし、祭さんは……正妻だから、ヨウの一番近くにいるのが当たり前だし……」
珠子の声が、震え始める。
「私だけ……私だけ、ただの元教え子で、裏の仕事の協力者で……。ヨウと普通の女の子みたいな青春もできないし……。……うらやましいです、ヨウの傍にいられる人たちが……っ」
ポロリ、と。
珠子の瞳から、大粒の涙がこぼれ落ち、畳に小さな染みを作った。
「珠子……」
ヨウは、ハッとした。
自分の無神経な軽口が、不器用で真面目な彼女をどれほど傷つけてしまったか。
ポロポロと涙をこぼす珠子を前に、四十九歳の男はどう慰めればいいのか分からず、一瞬だけ宙で手を迷わせた。
「……悪かった。俺がデリカシーなさすぎた」
ヨウはちゃぶ台を回り込み、泣いている珠子の隣に膝をつく。
「泣くな、珠子。お前はただの協力者なんかじゃない。俺にとって、本当に特別で、大事な……」
言葉を探すのをやめ、ヨウは珠子の華奢な身体を、長い腕でギュッと力強く抱きしめた。
「っ……ヨウ……」
「ごめんな。俺が鈍感なバカ野郎だった」
ヨウのTシャツ越しに伝わる、温かい体温。
そして、あの甘くて良い匂いが、珠子の全身を包み込む。
我慢の限界だった。
珠子も、躊躇うことなくヨウの背中に腕を回し、ギュッと抱きしめ返した。
お互いの胸が潰れるくらい、強く、強く抱きしめ合う。
「……先生……ヨウ……」
「珠子……」
二人はゆっくりと身体を離し、至近距離で見つめ合った。
部屋の中には、扇風機の音と、早鐘のような二人の心臓の音だけが響いている。
(……ヨウの唇が、こんなに近くに)
珠子が、吸い込まれるようにゆっくりと目を閉じる。
ヨウもまた、目の前の無防備な唇から目を逸らせなかった。
沈黙の中、二人の顔がゆっくりと近づいていく。
吐息が混ざり合い、唇と唇が、あと数ミリで触れ合う――
その瞬間に。




