蘭島の環状列石と、普通の青春への嫉妬
「ヨウお姉さぁん、タマコォ、また一緒にお出かけしたいですぅ!」
小樽の閑静な住宅街にある安アパートの前。
開け放たれた車の窓から身を乗り出した元魔王アイリーンが、深紅の長い髪を揺らしながら名残惜しそうな声を上げた。
まるで散歩から帰りたくない大型犬のようだ。
「おう、また今度な。今日はこれから珠子と仕事だから、家で大人しく日本語の勉強でもしてろよ。祭が帰ってきたらちゃんと出迎えてやれ」
「ハイッ! マツリ様のお帰りは、私が完璧にお出迎えいたしますぅ!」
助手席に座る大暮ヨウが苦笑しながらひらひらと手を振ると、アイリーンはパァッと顔を輝かせてアパートの階段へと駆け上がっていった。
その後姿を見送りながら、運転席の葉室珠子は静かに車の窓をスィーッと閉める。
「……相変わらず、元気ですね、アイリーンさん」
「本当にな。図体ばっかりデカくて、中身は完全に子供だぜ。手がかかるっちゃかからないんだが」
ヨウがやれやれといった様子で肩をすくめると、隣に座る珠子も「そうですね」と微笑みで応じた。
(……アイリーンさんには悪いけど、ここからは私とヨウ、二人きりの時間だ)
ほんの少しだけ胸をよぎった独占欲。
十九歳の乙女心を、八咫烏のエージェントとしてのクールな仮面の下にスッと押し隠し、珠子はサイドブレーキを下ろしてCX-60を滑らかに発進させた。
「さて、それじゃあ行こうか。小樽から余市にかけての遺跡群の調査だったな」
「はい。最近、あの周辺の霊脈に微かな『淀み』のようなものが観測されているんです。本格的な怪異が発生する前に、状況を確認しておきたくて」
***
小樽市蘭島から余市町にかけての海岸線や丘陵地帯には、縄文時代から続縄文時代にかけての古代の遺跡が数多く点在している。
二人は手分けをして、点在するストーンサークルや貝塚を巡っていった。
『忍路環状列石』に足を踏み入れた瞬間、ヨウは最初の明確な違和感を捉えた。
土地の奥底から這い上がってくるような、微かで不気味なノイズだ。
続く『桃内貝塚』でも、全く同じ気配が確認された。
『地鎮山環状列石』では、ヨウよりも早くエージェントである珠子が気の乱れを察知し、『西崎山環状列石』に至っては、ヨウが「これって、地下で全部つながってるんじゃないか?」と推測するほど、一帯に奇妙な淀みが広がっていた。
だが、どこへ行っても明確な敵意や殺意は感じられない。
「……正体が分からないんじゃ、剣を抜くわけにもいかねぇな。よし、とりあえず俺にできることをやっとくか」
ヨウが放つ『清浄なる大地』の魔法で、土地は素直に静まり返る。
違和感を確認しては、清浄と安定を繰り返す。
その単調な作業の連続だった。
しかし、五ヶ所目の『フゴッペ洞窟』に到着した時、事態は少しだけ変わった。
「っ……!」
突如として、ヨウの足がぴたりと止まった。
レベル99の勇者クレアの肉体に備わる危機察知能力が、これまでとは桁違いの強度で激しく反応したのだ。
背筋の産毛が逆立ち、冷たい汗が頬を伝う。
「ヨウ……!? どうかしましたか!?」
珠子もただならぬ気配を察知し、身構えて呪符を構えた。
岩壁に古代の刻画が残る洞窟の奥から、まるで生き物のような重く深いプレッシャーが押し寄せてくる。
しかし、どれだけ感覚を研ぎ澄ませても、やはり敵意や攻撃的な意図は一切感じられなかった。
ただそこにあるのは、圧倒的な『緊張感』だけだった。
「……大丈夫だ。敵はいない。でも、なんだこれ……奥の方で、もの凄くデカい何かが、じっと息を潜めてこっちを窺ってるような……」
「私も……胸が締め付けられるような、強いプレッシャーを覚えます。でも、やっぱり悪意はない……?」
「ああ。……こういう時、俺にできるのはやっぱり『清浄と安定』しかねぇんだよな」
ヨウが自嘲気味に息を吐き出し、両手を洞窟の入口にかざして全霊の浄化魔法を放つ。
黄金の光が洞窟全体を深く満たし、張り詰めていた重い緊張感をゆっくりと解きほぐしていった。
「……本当に、それしかできませんね、ヨウは」
珠子は緊張の糸が切れたようにふっと息を抜き、どこか呆れたような苦笑いを浮かべた。
「はは、だな。俺の力はこういう時、あんまり役に立たねぇや」
ヨウも苦笑し、二人は最後の目的地である『大谷地貝塚』へ向かう。
そこも軽く浄化して、本日の調査を無事に終了させた。
***
すべての仕事を終え、夕暮れ時の国道5号線を小樽市街へ向けて走る帰路の車内。
オレンジ色に染まる日本海を横目に、助手席のヨウは大きく伸びをして、現実の日常へと意識を切り替えた。
「いやぁ、なんにせよ無事に終わってよかったな。そういやさ、最近通い始めた自動車学校なんだけどよ」
「ああ、免許の再取得でしたね。どうですか、順調ですか?」
「おう。そこで一緒になった奴らがいてさ。紬って大人しそうな子と、翔太って言う車好きのお調子者、それに結衣って少し派手めなギャルっぽい子なんだけどよ」
ヨウは、若者たちとの賑やかな教習所ライフを面白おかしく語り始めた。
「あいつら、本当によく喋るし、見てて飽きないんだよな。マニュアル車のクラッチの踏み方で盛り上がったりしてさ。なんか青春してるっていうか。特に結衣なんか、初対面からグイグイ来るから最初は面食らったけど、話してみると結構真面目で気が合うんだよな」
「へぇ……そうなんですね」
珠子は相槌を打ちながらも、ハンドルの上で指をわずかに硬直させた。
(……結衣って。一つ下の学年の結衣……?)
「なぁ珠子、お前もあいつらと同い年くらいだろ? 小樽の学校に通ってたなら、どこかで繋がりがあったりしてな」
ヨウが軽い調子で言ったその瞬間。
「……結衣は、高校の一つ下の後輩なんです」
「えっ?」
珠子の声が、いつもの冷静なトーンから一段低く、そしてほんの少しだけ冷たくなった。
ヨウは驚いて珠子の横顔を見る。
その端正な横顔は前を向いたままで、夕日を浴びながらも、あきらかに機嫌が悪そうにぷいっと頬を膨らませていた。
「小樽南高校の、一学年下です。学年は違いましたけど、名前も顔も知ってます」
「マジか! 世間って狭いんだな! じゃあ今度、あいつらと一緒に飯でも……」
「行きません」
「……え?」
ピシャリと容赦なく切り捨てられ、ヨウはきょとんとまばたきをした。
「ヨウ。その結衣って子と……二人で自動車学校で話したりしてるんですか?」
「いや、二人きりってわけじゃないけど……教習の時間が被ったら一緒にロビーでお茶したり、この前は翔太たちも交えて四人でワイワイ喋ったりはしたけどさ」
「……そうですか」
珠子は前を向いたまま、さらに声のトーンを落とした。
「随分と、楽しそうですね。なんだか、デートみたいです」
珠子の声には、隠しきれない棘と、女の子らしい拗ねた感情がたっぷりと混ざっていた。
ヨウと結衣が、二人で自動車学校のロビーで楽しそうに笑い合っている姿を脳内で勝手に再生し、珠子は胸の奥がチクチクと痛むのを感じていた。
「デートって! おいおい、ただの自動車学校の空き時間だろ! 免許取るために必死こいて通ってるだけで、そんな甘っちょろいもんじゃねぇって」
ヨウは本当に何も分かっていない様子で、ケラケラと笑い飛ばした。
そのあまりにも呑気で鈍感な返答に、珠子の胸の中でくすぶっていた鬱憤がついに限界に達した。
「私……ヨウとそういうの、してないですから」
「そういうのって……なんだよ」
「放課後に待ち合わせしたり、一緒にお茶したり、くだらないことで笑い合ったり……普通の、青春みたいなこと」
ギュッとハンドルを握りしめ、珠子は唇を噛んだ。
「私、ヨウとそういう恋人みたいな普通の時間、一度も過ごしたことないです。いつも怪異の調査とか、裏の仕事ばっかりで……」
(あ……)
ヨウはここでようやく、隣に座る美しい教え子が『拗ねている』のだということに気がついた。
「珠子……もしかして、怒って……んのか?」
「……怒ってません」
図星を突かれたのか、珠子はビクッと肩を揺らし、即座に否定した。
しかし、耳の裏から首筋までがカッと真っ赤に染まっているのが、夕暮れの車内でもはっきりと分かる。
ヨウは少し困ったように頭を掻き、どう返すべきか戸惑いながらも、優しく声を落とした。
「じゃあ……もしかして、嫉妬?」
「……っ!」
珠子の息がピタリと止まった。
言おうとして、言えない。
エージェントとしてのプライドと、年相応の女の子としての恥ずかしさがせめぎ合い、車内にじりじりとした沈黙が落ちる。
数秒の溜めの後。
珠子はハンドルに額をつけそうな勢いで、消え入るような小さな声でポツリと呟いた。
「……そうです。少しだけ、嫉妬、してるんです……っ」
「え?」
「だから……少しだけ、嫉妬してるって、言ったんです……っ」
自分からそんな可愛い台詞を認めて観念した直後、珠子は恥ずかしさのあまり両手で自分の顔を覆い、真っ赤に染まった耳まで隠してしまった。
普段は冷静沈着でクールなエージェントが、恋する年相応の女の子に戻って縮こまっている。
その破壊力抜群の姿に、ヨウは思わずフッと優しく微笑んだ。
「何笑ってるんですか……ずるい、です」
「いや、なんでもない。……でもさ」
ヨウは、シートベルトに背中を預けながら、まっすぐに隣の少女を見た。
「結衣たちとワイワイやるのも楽しいけどさ、俺、結衣たちといるより、珠子と一緒にいるほうが圧倒的に落ち着くんだよな。昔から知ってるし……なんというか、珠子と一緒だと安心する」
四十九歳のおっさん特有の、全く悪気のない、そして致命的に計算されていない『天然の殺し文句』。
絶世の金髪美少女の姿をした元教師からそんな直球の言葉を投げられ、珠子の頭の中で何かが爆発した。
「っ……!」
珠子はドクンと心臓が跳ね上がるのを必死に両手で押さえ、完全に撃沈した。
「そ、そういうこと、急にサラッと言わないでください……っ! 心臓に悪いです……!」
「ん? なんか変なこと言ったか?」
「……本当に、鈍感です、ヨウは」
本気で自分が何を言ったのか分かっていないヨウに、珠子は真っ赤な顔のまま小さくため息をつきつつも、その口元はどうしようもなく嬉しそうに緩んでしまっていた。
***
すっかり日の落ちた小樽の街並みが、オレンジ色の外灯の光に包まれながら近づいてきた。
今日一日、結局遺跡で感じた「何か」の正体は分からなかった。
しかし、土地の浄化と安定化という最低限の役割はしっかりと果たせた。
「……あの、ヨウ」
信号待ちで車が静かに停まった時、珠子は前を向いたまま、そっと小さく呟いた。
「ん?」
「今日……楽しかったですか?」
ストレートすぎる問いかけに、ヨウは少しだけ驚いたが、すぐに柔らかく微笑んでアクセルに足を置いた。
「うん。楽しかったよ」
そして、助手席の窓の外へ視線を移しながら、はっきりと付け加えた。
「全部、珠子と一緒だったからな」
「っ……!」
珠子はこれ以上ないほどの嬉しさを隠しきれず、ぱっと花が咲くような満面の笑みを浮かべ、しっかりと前を向いてアクセルを踏み込んだ。
しかし、二人はまだ知らない。
小樽と余市を囲む大地の奥深くで、清浄と安定の魔法によって一時的に眠りについた微かな「違和感」が、ゆっくりとうごめき始めていることに。
それでも今はただ、助手席の少女の満面の笑みだけが、夜の車内を明るく照らしていた。




