エージェントの覚醒と、古き勇者の遺産
巨大な合成獣――ヘル・キマイラの巨体が真っ二つに分かたれ、無数の光の粒子となって朝の冷たい大気へと溶けていく。
木々をなぎ倒し、大地を焦がした暴虐の嵐は去り、小樽近郊の山奥には再び静寂が戻りつつあった。
「はぁっ……、はぁっ……、ふぅ……」
煤で汚れ、焼け焦げたブラウスを纏った葉室珠子は、白銀の光を放つ聖剣を地面に突き立て、それにすがりつくようにして荒い息を吐いていた。
自らの限界を遥かに超えた一撃。全霊力を使い果たし、立っていることすらままならないほどの疲労感が、波のように押し寄せてくる。
しかし、彼女の身体の奥底では、これまでの常識を覆すほどの、神に近い生命エネルギーが脈動し始めていた。
「珠子ォォォッ!!」
背後から、大慌てで駆け寄ってくる足音が聞こえた。
絶世の金髪美少女の姿をした、かつての恩師。大暮ヨウだ。
「ヨウ……私、やりましたよ」
珠子は、煤で汚れた顔を上げ、とびきり美しい笑みを浮かべた。
「ああ。見てたぞ。お前、マジですげぇよ! 最高のエージェントだ!」
ヨウは、地面にへたり込む珠子の身体を、正面から力強く抱きしめた。
「……っ!」
珠子の顔が一気に沸騰する。
四十九歳の男の魂を持つヨウの、不器用だが力強い抱擁。絶世の美少女の身体から伝わる、石鹸のようないい香りと、柔らかな胸の感触。そして何より、命がけの死闘を終えた後に与えられる、絶対的な安心感。
(ああ……ヨウ。先生……っ)
珠子は、聖剣から手を離し、震える両腕でヨウの背中にしがみつき、強く抱きしめ返した。
ずっと、こうしていたかった。エージェントとしての重圧も、葉室家という呪縛も全て忘れて、ただの十九歳の少女として、この温もりの中に溶けてしまいたかった。
「……よくやったな、珠子。偉いぞ。本当によく頑張った」
ヨウの、耳元で囁かれる優しい声。
「はい……私、やりました……」
安心感からか、珠子の意識が急速にまどろみへと落ちていく。視界がぼやけ、このままヨウの腕の中で深い眠りについてしまいたいという強烈な誘惑が襲ってきた。
「おっと。……寝るなよ、珠子」
ヨウが、抱きしめていた腕を少しだけ緩め、珠子の肩を揺すった。
「これから仕事(巡回)だろ? ここで寝ちまったら風邪引くぞ」
(……ううっ、もうちょっとだけ、このままでいたかったのに……!)
珠子は内心で地団駄を踏みながらも、重い瞼を必死に持ち上げた。
「ですが、ヨウ……霊力を、一滴残らず使い果たしてしまって……指一本、動かすのもやっとで……」
「大丈夫だ。俺の魔法で、完全回復させてやるからな」
ヨウは、珠子の身体から少し離れると、目を閉じて意識を集中させた。
その直前、ヨウは『鑑定スキル』を起動し、珠子の頭上を見上げた。
半透明のステータスウィンドウが、空中に浮かび上がる。
【名前】 葉室 珠子
【年齢】 19歳
【種族】 現代人
【クラス】 退魔士 / 神道術士
【レベル】 55(限界突破)
【HP】 8500 / 8500
【MP】 4200 / 4200
【筋力】 3200
【耐久】 3000
【敏捷】 3500
【魔力】 4100
【所持スキル】 古流剣術・体術 Lv.8、神術(符術・結界術) Lv.9、隠密行動 Lv.7、気配察知 Lv.8……
「……レベル55か。マジで跳ね上がったな」
ヨウは、感嘆の息を漏らした。
ステータスの数値を見れば、筋力、耐久、敏捷、魔力が見事なまでに均等に成長している。一つの能力に特化した祭とは対照的な、非の打ち所のない『バランス型』の超優秀な戦士だ。
そもそも、この世界における『ランク』と『レベル』は、全く異なる概念だった。
珠子が所属する古神道結社・八咫烏。彼らが定める階級は、組織が任務の達成度や血筋を加味して主観的に決定するものに過ぎない。
しかし、『レベル』は違う。
それは、世界(星)の理に刻まれた、魂の絶対的な質量を示す普遍的な数値だ。
(今の珠子なら、八咫烏の最高幹部連中だって指先一つで捻り潰せるんじゃないか……?)
ヨウは、頼もしく成長した教え子の姿に目を細めながら、右手を珠子の頭上に掲げた。
「いくぞ、珠子。祭にかけたのと同じ、最高最強の回復魔法だ」
ヨウの碧眼が、神聖な黄金の光を放ち始める。
「こいつは、祭の膝の古傷から、虫歯の治療痕、落ちてた視力まで全部元通りにして、二十九歳の身体を十代の女子高生みたいにピチピチに若返らせた、とんでもないチート魔法だからな」
「え……っ? 十代に若返る……?」
珠子が驚きに目を見開いた瞬間。
「『神聖なる完全修復(パーフェクト・リジェネレーション)』ッ!!」
カァァァァァァァァァァァァッ……!!!!
朝の薄暗い森を、真昼の太陽のような強烈な黄金の光が包み込んだ。
レベル99の勇者クレアの莫大なMP。その『二割』をごっそりと消費する、天界の奇跡そのものとも言える究極の回復魔法。
光の粒子が、珠子の身体に染み込んでいく。
「あ……ああぁっ……!」
珠子の口から、恍惚の吐息が漏れた。
凄まじい熱量と優しさが、細胞の一つ一つを修復し、作り変えていく。
先ほどの死闘で負った火傷や切り傷が、文字通り一瞬にして消滅する。それだけではない。幼い頃の厳しい修行で身体に刻み込まれていた無数の小さな傷跡、肩こり、蓄積された微細な疲労。
さらには――。
(嘘……奥歯の、インプラントが……!?)
珠子は、舌先で自分の奥歯に触れて戦慄した。
過去の任務で怪異の攻撃を受け、砕けてしまったために埋め込んでいた人工歯のインプラント。それが、根本から『本物の自分の歯』として完全に再生していたのだ。
失われた視力すら、生まれたての赤ん坊のようにクリアになっている。
「はぁっ……はぁっ……すごい……」
光が収まった後、珠子は自分の両手を見つめ、何度も開いたり閉じたりを繰り返した。
「……これは、本当にチートですね。ありがとうございます、ヨウ。身体が、羽のように軽いです」
珠子は、深い感謝の意を込めてヨウに頭を下げた。
全身に力が漲り、霊力も底なしの泉のように溢れ返っている。エージェントとしてのコンディションは、これまでの人生で間違いなく最高値に達していた。
(……でも、本音を言えば。もうちょっとだけ、ヨウと抱きしめ合っていたかったなぁ……!)
心の中でひっそりと乙女の不満を漏らしながらも、珠子はキリッと表情を引き締めた。
「おまたせしましたぁ!」
そこへ、少し離れた場所でゴソゴソと作業をしていたアイリーンが、ホクホク顔で戻ってきた。ひらがなの勉強の成果か、彼女の言葉の端々から、カタカナのぎこちなさが抜けつつある。
彼女の両手には、キラキラと鈍い光を放つ、ピンポン玉からソフトボールほどの大きさの様々な色をした『石』が抱えられていた。
「なんですか、それは?」
珠子が尋ねると、アイリーンは誇らしげに胸を張った。
「『魔石』といいます! タマコがたおした魔獣たちからドロップした、魔力のかたまりですよ!」
アイリーンは、その石の山をゴトリと珠子の足元に置いた。
「この魔石は、魔術のばいたいにしたり、結界の動力にしたり、いろいろな使いみちがあります。タマコの神術にも、きっとやくにたつはずです。タマコのえものですから、もっていなさい」
「魔石……! 八咫烏の文献で読んだことがあります。高濃度の霊的結晶体……これほどの純度と大きさのものは、現代の日本には存在しません。ありがとうございます、アイリーンさん」
珠子は、貴重な研究素材と強力な手札を得て、目を輝かせて魔石をポーチに収納した。
「そうだ、ヨウ。これを」
珠子は、両手で大切に持っていた『真の聖剣』を、ヨウに向かって差し出した。
「素晴らしい剣でした。私のような者の霊力にも応えてくれる、神聖な武具。……お返しします」
「おう、サンキュー」
ヨウが聖剣を受け取り、虚空のアイテムボックスへと放り込もうとした、その時だった。
「ちょっとまってください、タマコ」
アイリーンが、再び自身の収納魔法を展開し、漆黒の空間に腕を突っ込んだ。
「タマコは、現代のぶきでは魔界の獣に、はがたたないとわかったはずです。……これを、あげます」
アイリーンが引きずり出してきたのは、一振りの真新しい剣だった。
しかし、先ほどの西洋の騎士が持つような幅広の長剣とは違う。
それは、わずかに反りを持たせた、日本刀に近いシルエットの『直刀』だった。鞘には、精緻で美しい銀色の意匠が施されている。
「これは……?」
珠子が、恐る恐るその剣を受け取る。
スッ……と柄を握り、鞘から刃を抜き放った。
シャァァァン……!
先ほどの『真の聖剣』ほどの暴力的で圧倒的な光ではない。しかし、刀身からは、清廉で静かな、月の光のような聖なる力が確かに宿り、波紋のように周囲の空気を浄化していた。
「『聖剣カミール』です」
アイリーンが、専門家のような顔つきで解説を始めた。
「わたしが魔王になるずっとまえ……伝説のふるき勇者カミールが、しょじしていたといわれる、ゆいしょただしき聖剣です。わたしのたからものこの、おくふかくに封印しておりました」
「古き勇者の、聖剣……」
「さきほどの『真の聖剣』ほどのぜったいてきな、はかいりょくはありませんが、そのぶん、つかう者の気や魔力にせんさいにこおうして、力をぞうふくさせます。……タマコのような、剣士には、さいりょうの一本でしょう」
アイリーンの言葉に、珠子は息を呑んだ。
確かに、柄を握っているだけで、自身の霊力が刃の先まで淀みなく流れていくのが分かる。日本刀に近い重心バランスも、葉室家の古流剣術を扱う珠子にとっては、これ以上ないほど手に馴染む業物だった。
「こ、こんな素晴らしいもの……いいのですか?」
珠子は、慌てて剣を鞘に納め、押し返そうとした。
「こんな値段のつけようがないもの! 私なんかが貰うわけには……!」
「えんりょすることはありませんよ」
アイリーンは、ふふんと鼻を鳴らして笑った。
「もとの世界なら、その剣一本で『お城』がかえますね!」
「ぶっ!!」
横で聞いていたヨウが、派手にむせて盛大に吹き出した。
「し、城ォ!?」
ヨウは、絶世の美少女の顔を限界まで引き攣らせ、大泉洋のような裏返った声で叫んだ。
「お、おいおいおい、アイリーン! 城って、あのお城か!? 天守閣とかあるやつか!? ちょっと待てよ、俺たち今、家賃数万円のボロアパートで扇風機回して暮らしてるんだぞ!? えっ、それ売ったら城買えるの!?」
ヨウが、珠子の持つ剣と、自分たちの貧乏生活を交互に指差してパニックに陥っている。
「アハハハハ! ヨウおねえさん、おちついてください!」
アイリーンは、ヨウのボヤキを面白そうに笑い飛ばした。
「わたしのいた世界では、です。こちらでの価値はわかりませんから」
「や、やっぱり、貰えませんよ! そんな城が買えるような代物……!」
珠子が顔を青ざめさせて固辞しようとする。
しかし、アイリーンは真剣な眼差しで、珠子の手をギュッと握り込んだ。
「タマコ」
アイリーンのオッドアイが、真っ直ぐに珠子を見つめる。
「タマコは、死んではダメですので、持っていてください」
「アイリーンさん……」
「大暮家の、家計の『命綱』ですからね!」
アイリーンは、ニカッと、それはもう眩しいほどの無邪気な笑顔を見せた。
打算と、純粋な優しさが入り混じった、元魔王なりの不器用な愛情表現だった。
「……ははっ」
そのやり取りを見ていたヨウは、先ほどのパニックから一転、毒気を抜かれたように吹き出して笑った。
「アイリーンの言う通りだ。珠子、遠慮せずに貰っておけ」
ヨウは、珠子の頭にポンと手を乗せた。
「お前がその剣で自分の身を守れて、安全に仕事から帰ってきてくれるなら、城よりずっと価値があるさ。さぁ、仕事(巡回)に行こうぜ!」
恩師の温かい言葉に、珠子は胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。
「……はい。ありがとうございます。大切に、使わせていただきます」
珠子は、聖剣カミールをしっかりと胸に抱きしめ、深々と頭を下げた。
「アッ、そのまえに」
二人が車に向かって歩き出そうとした背中に、アイリーンの間延びした声がかけられた。
「わたしを、アパートまで車でおくってください」
アイリーンは、当然のような顔をして後部座席のドアノブに手をかけた。
その言葉に、ヨウと珠子はピタリと足を止め、顔を見合わせた。
「……あっ、そうでしたね。アイリーンさん、山奥に置き去りにするところでした」
「わりぃわりぃ、完全に仕事モードになってたわ」
三人は顔を見合わせ、大きな声で笑い合った。
先ほどまでの死闘の緊張感は、秋の空へとすっかり溶けて消えていた。
笑いが収まった後、アイリーンはヨウにすり寄るように近づき、自分から頭を差し出した。
「ヨウおねえさぁん、わたしもがんばりました。頭をなでて〜」
長い赤髪を揺らし、オッドアイをきらきらさせておねだりをする。
ヨウは苦笑しながら、その頭をぽんぽんと軽く叩いた。
「おいおい、珠子の前で甘えるなよ〜」
するとアイリーンは、ニヤリと得意げな顔をして珠子を指差した。
「なにをいっているんですか! タマコだって、ヨウおねえさんに甘えたがってますよ!」
「そ、そんなことありません!」
図星を突かれた珠子は、顔を真っ赤にして勢いよく否定した。
「うそです。タマコの顔に書いてあります」
アイリーンはさらに言葉を続ける。
「でも! ヨウおねえさんに甘えていいのは、マツリさまのきょかがないとダメです! 正妻が正義です!」
「お前は、本当にブレないな!」
ヨウは呆れたようにボヤいた。
「じゃ〜、祭が許可したなら、誰でも良いのかよ!」
「はいっ!」
アイリーンが満面の笑みで即答する。
「俺の意思は?!」
ヨウが悲痛な叫びを上げると、その情けない声と美少女の顔のギャップに、珠子がたまらず「ふふっ」と吹き出して笑った。
つられて、アイリーンもヨウも、声を上げて笑い合う。
朝の光が差し込む山奥に、温かな笑い声が響き渡る。
しかし、笑いながらも、珠子の心の中には、ある静かな決意めいた思いが浮かんでいた。
(……なるほど。正妻の許可、ですね……)
十九歳の古神道エージェントは、胸に抱いた聖剣カミールの感触を確かめながら、不敵に、そして少しだけ妖艶に微笑んだのだった。




