エージェントの覚醒と、神道術の極意
九月中旬。小樽の朝は、秋の気配を色濃く孕んだ冷たい空気に包まれていた。
朝霧が薄く街を覆い、運河の水面が白み始めた空を鈍く反射している。吐く息はまだ白くはないが、半袖では肌寒く、上に一枚羽織りたくなるような季節の変わり目だ。
大暮家が暮らす安アパートの前に、重厚な直列六気筒ディーゼルエンジンを響かせて、一台のソウルレッドのSUV――マツダ・CX-60が静かに滑り込んできた。
「おはようございます、ヨウ。アイリーンさんも、おはようございます」
運転席から降りてきたのは、古神道結社・八咫烏の若きエージェント、葉室珠子だった。彼女はまだ十九歳でありながら、日本裏社会において名を馳せる実力者だ。機能的な黒のパンツルックに、白のブラウスを合わせた出で立ちは、彼女の引き締まった細身のプロポーションを際立たせ、幼い頃からの修練で培われた無駄のない所作がエージェントとしての風格を漂わせている。
黒髪のストレートロングヘアを朝の冷風に揺らし、珠子は凛とした表情でアパートから出てきた二人に頭を下げた。
「おう、珠子。早いな」
大暮ヨウは、眠い目をこすりながら片手を上げた。
四十九歳の元高校教師のおっさんであった魂は、現在、レベル99の絶世の金髪美少女勇者・クレアの肉体に入っている。ラフな白いパーカーとスキニーデニムという格好だが、それでも隠しきれない暴力的なまでの巨乳と、透き通るような白い肌、黄金の髪が、朝の薄暗がりの中でひときわ目を引いた。パーカーの上からでも分かるその豊満な起伏は、同性である珠子から見てもドキリとするほどの艶かしさを放っている。
「タマコ! おはようございます!」
ヨウの背後から、ひょっこりと顔を出したのは、元魔王アイリーンだ。身長一八〇センチの長身に、うねるような深紅のロングウェーブヘア。右目が赤、左目が青という猛禽類のようなオッドアイを輝かせ、彼女は大型犬のように見えない尻尾を振らんばかりの勢いで珠子に駆け寄った。
「タマコ、これ、朝ご飯デス! 私と、マツリ様で作りました! おにぎりと、卵焼きデス!」
アイリーンは、丁寧に布で包まれた小さなお弁当箱を珠子に差し出した。
珠子は少し驚いたように目を見開いたが、すぐにふわりと柔らかい笑みを浮かべた。
「アイリーンさん……ありがとうございます。朝早くから、わざわざすみません」
「いえいえ! タマコはこれから、キツい特訓をしますから! いっぱい食べて、体力をつけてほしいのデス!」
その様子を後ろで見ていたヨウは、ニヤニヤと意地悪な笑みを浮かべながらアイリーンの脇腹を肘で小突いた。
「おいおいアイリーン、お前、なんだかんだ言って珠子にすっげぇ優しいじゃねぇか。元魔王のくせに、人間の小娘の世話を焼くなんて、すっかり丸くなったな!」
ヨウがからかうように言うと、アイリーンは真剣な表情になってビシッと背筋を伸ばし、ヨウに向かって堂々と宣言した。
「当然デス! タマコは、ヨウお姉さんの大切な教え子デス! 何より……タマコからの怪異退治の依頼料は、今の大暮家の家計を支える『命綱』デス! タマコが倒れたら、私たちは明日からモヤシしか食べられません! 絶対に、死なせてはならない、超重要人物デス!!」
「…………」
ヨウの顔から、スーッと表情が消え去った。
見事なまでの正論。そして、現世において戸籍上死亡扱いとなっており、実質的に無職のヒモ状態である己の不甲斐なさが、四十九歳の男のプライドにグサリと突き刺さったのだ。
「そ、そうですね……俺がロクに稼げないせいで、お前たちにも、珠子にも負担を……」
ヨウはガックリと肩を落とし、アスファルトの地面のシミを数え始めた。
「ああっ、ヨウ! 落ち込まないでください! 私は、ヨウのお手伝いができるだけで……それに、ヨウのサポートがあるからこそ、私も安全に依頼をこなせているんですから!」
珠子が慌ててフォローに回るが、ヨウの背中にはどんよりとした暗雲が立ち込めていた。
***
気を取り直し、三人はCX-60に乗り込んだ。
目指すのは、小樽近郊にある、地元民でも滅多に足を踏み入れない深く鬱蒼とした山奥だ。
車は朝の誰もいない国道を抜け、やがて舗装されていない林道へと入っていく。木々の隙間から差し込む朝日が、苔むした岩肌や羊歯の葉をまだらに照らし出し、タイヤが砂利を弾く音が車内に響く。
車内では、ヨウが助手席で腕を組み、ふと湧いた疑問を口にしていた。
「なぁ、アイリーン。お前、『魔獣を倒して経験値を吸収すればレベルが上がる』って言ってたけどさ」
「ハイ」
「それって、完全にゲームのシステムみたいだけど、現実世界でも同じなのか? そもそも『経験値』って、物理的になんなんだよ?」
後部座席に座るアイリーンは、コテッと首を傾げて少し考え込んだ。
「経験値というのは、一言で言えば『生命エネルギー』のことデス」
「生命エネルギー?」
「イエス。生きとし生けるものは、死ねばその魂のエネルギーが世界(星)に還元されます。しかし、自らの手で命を奪った場合、そのエネルギーが世界に溶ける前に、討伐者の魂がそれを引き寄せ、一部を吸収するのデス。それが魂の器を拡張し、肉体と精神を変異させる。……これが、『成長』ノ本質デス」
珠子も、運転席で静かに頷いた。
「私たち八咫烏でも、古くから『強力な怪異を祓うことで、自らの霊的格が上がる』と伝えられています。厳しい修行だけでなく、実戦で生死の境を彷徨いながら敵を討ち果たすことでしか得られない『気』があるのです。異世界の言葉で言えば経験値なのでしょうけれど、本質は同じ『気の吸収と魂の拡張』なのだと思います」
「なるほどな……」
ヨウは感心したように顎を撫でた。
「だから、強い魔獣を倒せば倒すほど、それだけ莫大な生命エネルギーを取り込めるってわけか。俺やアイリーンが数字でレベルやステータスを見れるのは、そういう『視覚化する魔法』を持ってるからってだけで、根本の仕組みはこの世界でも同じなんだな」
林道を抜け、ひらけた山間の広場に車が停まった。
周囲は深い針葉樹の森に囲まれ、人の気配は全くない。小鳥のさえずりすら聞こえない、不気味なほどの静寂がそこにはあった。
朝の冷気が、肌をチクチクと刺す。吐く息が、ここではっきりと白く濁った。
車を降りたヨウは、朝露に濡れた下草を踏みしめながら、珠子に向き直った。
「珠子。今日、お前をここに連れてきた理由は分かってるな?」
ヨウの透き通るような碧眼が、鋭く珠子を射抜く。それは、絶世の美少女の瞳でありながら、かつて教壇から生徒を見守っていた、大暮先生の真剣な眼差しそのものだった。
「お前は、この世界の基準で言えば強い。だが、異世界の魔獣や、これから俺たちの前に現れるかもしれない規格外の化け物を相手にするには……お前は、まだ弱い。だから、今日ここで強くなってもらう」
その言葉に、珠子はピクリと眉を動かした。
「弱い、ですか……?」
珠子は、少しだけ不服そうに唇を噛んだ。彼女は19歳にして八咫烏の最前線に立つエージェントだ。
「ヨウの規格外の力と比べれば、そうかもしれません。ですが、私はこれでも、由緒ある葉室の血を引く者として幼い頃から血を吐くような厳しい修行を積み、数々の怪異と対峙し、幾度もの修羅場を潜り抜けてきた自負があります」
彼女の言葉には、命を懸けて生きてきたプロフェッショナルとしてのプライドがあった。
「ああ、分かってる」
ヨウは否定しなかった。むしろ、その自負を尊重するように深く頷いた。
「お前がどれだけ努力して、どれだけ危険な橋を渡ってきたか、俺には想像もつかねぇよ。この世界(地球)の基準なら、お前は間違いなく一流だ」
ヨウは、一歩珠子に近づき、その華奢な肩に手を置いた。
「だがな、珠子。異世界のバケモノの理不尽さは、その修羅場を嘲笑うように超えてくる。……俺は、お前を死なせたくないんだ。大切な教え子を、喪いたくない。だから、俺のわがままに付き合ってくれ」
「ヨウ……」
かつての恩師からの、不器用だが真っ直ぐな愛情のこもった言葉に、珠子の胸が熱くなった。反発心は霧散し、代わりに彼の期待に応えたいという強い決意が宿る。
「……はい。分かりました。覚悟はできています」
珠子は、短く力強く頷き、袴の懐から葉室家伝来の呪符を取り出した。
「では、始めます」
アイリーンが一歩前に出る。
瞬間、彼女が纏っていた人間の擬態が解け、頭部から漆黒のねじれた角が顕現した。元魔王としての圧倒的な威圧感と、むせ返るような暗黒の魔力が、周囲の空気を泥のように重く沈ませる。
「『次元門・小(ディメンション・ゲート)』」
アイリーンが空間を引き裂き、空中に漆黒の穴を開いた。
そこから飛び出してきたのは、体長二メートルを超える凶悪な漆黒の狼――『シャドウ・ウルフ』だった。
「グルァァァァァッ!!!」
血走った眼を剥き出しにし、殺意の塊となった魔獣は、出現するなりヨウの喉笛目掛けて飛びかかった。
「おっと」
ヨウは間一髪でその牙をかわし、レベル99のバカ力で狼の首をガシッと押さえ込んだ。
「暴れんなバカ犬! 獣はこれだから困るぜ。珠子、コイツを殺して経験値を吸収しろ!」
珠子は、スッと息を吸い込み、精神を集中させた。
「急々如律令……『金剛符』、展開!」
珠子が呪符を己の胸に貼り付けると、バチィッ!と青白い霊力が彼女の身体を包み込んだ。八咫烏に伝わる古代神道の術。自身の筋力、耐久力、反射神経を一時的に極限まで引き上げる『身体強化の術』である。
アイリーンが拘束を解き、シャドウ・ウルフが自由になった。
狼は標的を珠子に変え、弾丸のような速度で突進してくる。
「……見えます」
珠子は、強化された動体視力で狼の動きを完全に捉えていた。
腰に佩いた、葉室家伝来の短刀を引き抜く。怪異を断ち切るために鍛え上げられた、呪力を持つ業物だ。
「はぁっ!」
流れるような古流体術の歩法。音もなく狼の側面に回り込み、渾身の力を込めて刃を振り下ろす。
ガキィィィィンッ!!
「くっ……!?」
珠子の顔が苦痛に歪んだ。短刀は、シャドウ・ウルフの分厚く硬い毛皮に弾かれ、激しい火花を散らした。刃が全く通らない。現代の鉄と呪術では、魔界の獣の装甲を貫けないのだ。手が痺れ、短刀を取り落としそうになる。
狼が、反撃の牙を剥いて珠子に迫る。
「現代の武器じゃ通じねぇか! 珠子、これを使え!」
ヨウは、虚空に手を入れて収納魔法を開き、アイリーンの宝物庫から引きずり出しておいた一振りの長剣を取り出した。
それを、珠子に向かって放り投げる。
「『真の聖剣』だ!」
珠子は、迫り来る狼の牙を紙一重でかわしながら、空中でその剣の柄を受け取った。
鞘から引き抜いた瞬間。
シャラァァァァンッ……!!
森の暗がりを吹き飛ばすような、眩い白銀の光が刀身から溢れ出した。それは、魔に属する全てのものを平伏させる、神聖なる力の結晶だった。
「すごい……この剣、力が溢れてくる……!」
珠子は聖剣を両手で構え直した。西洋の直剣でありながら、不思議と手に馴染み、彼女の霊力と呼応して白銀の光を強めている。
再び狼が飛びかかってきた。
「『呪縛の陣』!」
珠子は左手で別の呪符を地面に放った。狼の足元に光の円陣が浮かび上がり、目に見えない霊力の鎖が狼の四肢に絡みついた。
「ギャウンッ!?」
空中で動きを鈍らせた狼の無防備な腹部へ向け、珠子は深く潜り込んだ。
「一閃!」
ズバァァァァァンッ!!
聖剣の白銀の刃が、シャドウ・ウルフの分厚い毛皮と肉を、何の抵抗もなく真っ二つに両断した。
魔獣は光の粒子となって消滅し、その莫大なエネルギーが、奔流となって珠子の身体へと流れ込んだ。
「あ……っ!」
珠子の身体が熱く火照り、細胞の隅々まで未知の力が浸透していく。
彼女は、自身の五感が異常なほど鋭敏になったのを感じた。森の葉が擦れる音、土の匂い、数十メートル先の虫の羽音までが、手に取るように分かる。筋肉の繊維が鋼のように強靭に編み直され、肉体の枷が外れたような爆発的な身体能力の向上を実感する。
これが、魂の拡張。レベルアップの感覚。
「次デス!」
余韻に浸る間もなく、アイリーンが二つ目のゲートを開いた。
現れたのは、小型車ほどもある巨大でグロテスクな漆黒の蜘蛛――『ポイズン・タランチュラ』だった。
「うわっ……! キモッ!」
ヨウは虫の魔物にドン引きして後ずさった。
巨大蜘蛛は八つの赤い眼を爛々と輝かせ、珠子に向かって猛毒の液と粘着性の糸をシャワーのように吐き出した。
「シュルルルルッ!」
「『八咫鏡の盾』!」
珠子は両手を前に突き出し、霊力による六角形の障壁(結界)を展開した。
バチバチバチッ!!
猛毒の液が結界に弾かれ、紫色の煙を上げて蒸発する。しかし、蜘蛛の糸は結界に絡みつき、珠子の動きを封じようとする。
「異世界の魔法のような大規模な破壊力は、神術にはありません。……ですが、応用力なら負けません!」
珠子は、刃に『清めの火』の霊力を纏わせた。
「燃えなさい!」
聖剣を振り払うと、絡みついていた粘着糸が一瞬にして白い炎に包まれ、焼き切られた。
珠子は燃え盛る炎を突き抜け、蜘蛛の頭上へと跳躍した。
「シッ!」
重力を乗せた脳天唐竹割り。聖剣が蜘蛛の硬い外殻を砕き、脳髄を両断した。
再び、光の粒子が珠子に吸収される。
今度は、目視できるほどの青白い霊気のオーラが珠子の身体から立ち昇り始めた。体内の霊力タンクが数倍に拡張され、全身を駆け巡る気の流れが激流のように太くなっている。神術の威力と精度が、別次元へと引き上げられていた。
「三体目デス!」
アイリーンが召喚したのは、身の丈三メートルはあろうかという、禍々しい巨大なカマキリ――『デス・マンティス』だった。両腕の鎌は、鋼鉄すら切り裂く凶悪な刃となっている。
「ギチギチギチッ!」
カマキリが恐るべき速度で間合いを詰め、死神の鎌を左右から交差させるように振り下ろす。
「『重圧結界』!」
珠子は、カマキリの頭上に霊力の重しを発生させた。
ドスンッ!と見えない重力に押され、カマキリの速度がわずかに鈍る。
そのコンマ数秒の隙を、珠子は見逃さなかった。
「『地縛の杭』!」
足元に放った呪符が光の杭となり、カマキリの六本の脚を地面に縫い留める。
動きを完全に止められたカマキリの懐へ、珠子はスライドするように入り込んだ。
「これで……終わりです!」
下から上へ。重力を無視したような凄まじい跳ね上げの斬撃。
閃光がカマキリの巨体を脳天から股下まで、文字通り一刀両断に切り裂いた。
三体目の経験値を吸収した珠子は、もはや朝の彼女とは別人のような威圧感を放っていた。
剣の太刀筋に一切の無駄がなくなり、呼吸をするように自然に神術を織り交ぜている。気と術が完全に融合したその立ち姿は、静かな湖面のような美しさすらあった。
「……おいおいおい、すげぇな」
ヨウは、感嘆の息を漏らした。
「神道の術って、スライムにファイアボールぶつけるような単純な魔法とは違うんだな。結界で防いで、重力で動きを止めて、炎で焼き切る……多種多様で、アイデア次第でどんな戦い方もできるじゃねぇか。お前の戦い方、スマートでマジでかっこいいぞ!」
恩師からの素直な称賛に、珠子は頬を染め、嬉しそうに微笑んだ。
「ありがとうございます、ヨウ。……これで、私の特訓は終わりでしょうか?」
珠子が剣を収めようとした、その時だった。
「いえ……次で、最後デス」
アイリーンが、真剣な表情で右手を虚空に突き出した。
「タマコの成長速度が予想以上でしたので、タマコを一流の戦士にするために、私の宝物庫(ダンジョン)に封印しておいた、少し『骨のある』ヤツを出します」
ギギギギギギギギッッ……!!!
先ほどまでのゲートとは比べ物にならない、空間が悲鳴を上げるような凄まじい音が響いた。
開かれた漆黒の穴は、直径五メートルにまで広がり、そこから溢れ出した瘴気は、周囲の下草を一瞬で枯れさせるほどの猛毒を孕んでいた。
「……ッ!?」
ヨウの勇者としての直感が、けたたましい警鐘を鳴らす。
背筋を駆け上がる、圧倒的な死の予感。ゲームのようなレベル上げ感覚は一瞬にして消え去り、そこにあるのは抗いようのない『本物の絶望』の気配だった。
「おいアイリーン! なんだこのヤバい気配は! さっきまでの虫とは次元が違うぞ!」
「大丈夫デス、タマコの今の力なら……」
アイリーンの言葉を遮るように、ゲートから『それ』が這い出てきた。
体長は優に七メートルを超える。
獅子の胴体に、山羊の頭、そして尻尾は猛毒を持つ巨大な毒蛇。背中には蝙蝠のような巨大な皮膜の翼が生えている。
伝説に語られる合成獣――『ヘル・キマイラ』だった。
「オオオォォォォォォォォォォォッ!!!」
咆哮。
ただ吠えただけで、森の木々が爆風を受けたようになぎ倒され、大気がビリビリと震えた。
「おいバカ! 本物のバケモノじゃねぇか!」
ヨウが青ざめて叫んだ。
珠子も、強烈な死の恐怖に全身の毛穴が開き、呼吸が浅くなるのを感じた。
本能が『逃げろ』と叫んでいる。
キマイラの山羊の頭が、巨大な火球を口に溜め込み始めた。一撃で山肌を吹き飛ばすほどの熱量だ。
「タ、タマコ! さすがに早すぎました! 逃げてください、私が殺します!」
自身の見積もりの甘さに気づいたアイリーンが、慌てて魔力を練り上げ、前に出ようとした。
「――来ないでください!」
しかし、珠子の声が、森に鋭く響き渡った。
彼女の足は恐怖で震えていた。だが、瞳の光は決して消えてはいなかった。
「私がやります。……いえ、私にやらせてください!」
珠子は、白銀の聖剣を両手で強く握り直した。
(ヨウが、私を信じてくれた。私を強くするために、ここまでしてくれたんだ。……ここで逃げたら、私は一生、彼に守られるだけの存在になってしまう!)
その背中を見たヨウは、ハッと息を呑んだ。
震えながらも、決して引こうとしない十九歳の少女の背中。そこには、かつて自分が教え導いた生徒の、確かな成長の証があった。
(……珠子。お前は、強い)
ヨウは、アイリーンの肩を掴んで制止した。
「手出しするな、アイリーン。……いけ、珠子! お前ならやれる! 何かあれば、俺が必ず助ける!」
ヨウのその言葉が、珠子の背中を強く押した。
キマイラの口から、灼熱の業火が放たれた。
直径三メートルにも及ぶ火炎の柱が、全てを焼き尽くす勢いで珠子へと迫る。
「『多重八咫鏡』ッ!!」
珠子は、吸収したばかりの全霊力を振り絞り、前方に五枚の六角形の光の盾を何重にも展開した。
ズドゴォォォォォォォォンッ!!!
火球が結界に激突し、凄まじい爆発が起こる。
一枚、また一枚と結界がガラスのように砕け散っていく。
「くぅぅぅぅっ……!!」
珠子は歯を食いしばり、必死に霊力を注ぎ込む。熱波が彼女の肌を焦がし、ブラウスが熱で焼け焦げた。
四枚目の結界が砕け、最後の五枚目に亀裂が走った瞬間。
「『反射』ッ!!」
防ぐのではなく、敵の力をそのまま送り返す、古代神道のカウンター技術。
五枚目の結界が鏡のように輝き、残った火炎のエネルギーを極限まで収束させ、キマイラに向かって撃ち返した。
「ギャオォォォォッ!?」
自らの炎を浴びたキマイラが、苦悶の声を上げて体勢を崩す。
「今です!!」
珠子は、爆炎と煙を突き抜け、キマイラの懐へと飛び込んだ。
キマイラの尻尾である巨大な毒蛇が、珠子の首を狙って鎌首をもたげ、音速のスピードで噛み付いてくる。
「『縮地』!」
珠子の姿がブレた。神速の歩法により、毒蛇の牙を紙一重でかわす。
そして、先ほどまでの戦闘で得た全てのエネルギーと、己の霊力の限界値を、一時的に超えて『真の聖剣』へと注ぎ込んだ。
清浄なる神道術と、魔を滅する聖剣の圧倒的な相性の良さが、奇跡的な共鳴を起こす。
聖剣の白銀の光が、数メートルにまで伸びる巨大な光の刃となった。
「これで……沈みなさいッ!!」
珠子は、宙を蹴り、キマイラの獅子の胴体から山羊の頭までを一気に駆け上がりながら、光の刃を振り下ろした。
ズバァァァァァァァァァァァァァァァァンッ!!!!
天を裂くような剣閃。
ヘル・キマイラの巨体が、中心から完全に二つに分かたれた。
悲鳴を上げる間もなく、その肉体は膨大な光の粒子へと変わり、嵐のような勢いで珠子の身体へと流れ込んでいく。




