紬とヨウ、二人だけの教習所と、なると屋の半身揚げ
九月も半ばを過ぎると、小樽の朝夕には明確な秋の冷気が混じり始める。
海側から吹き上げる風は心地よい涼しさを通り越し、少しだけ肌寒さを感じるようになっていた。
午前九時。自動車学校の広々としたロビー。
教習生がまだまばらなその空間で、大暮ヨウは缶コーヒー(微糖)を片手にふらりと足を踏み入れた。
「ん……?」
ロビーの隅、日当たりの良い窓際のテーブル席。
そこに、小柄で、ボブカットが似合う大人しそうな女子学生――東山紬が一人で座っていた。
彼女は机の上に教本と問題集を広げ、シャープペンシルを握りしめたまま、うんうんと唸っている。
「うーん……分からない……。ここ、どうしてこうなるんだろ……」
眉間に小さな皺を寄せ、真剣な顔で教本と睨み合っているその姿は、小樽南高校で図書委員をしていた頃の彼女そのものだった。
ヨウは、四十九歳の元高校教師としての血が騒ぐのを感じ、自然な足取りで彼女に近づいた。
「おっ、紬。おはよう。どうした? 朝から難しい顔して」
「あっ……大暮さん!」
ヨウの姿を認めた瞬間、紬の顔がパァッと明るくなった。しかし、すぐにまた困ったような顔になり、問題集を指差した。
「おはようございます。……あの、昨日の学科の復習をしてたんですけど、この交差点の優先順位の問題が、どうしても分からなくて……」
「どれどれ」
ヨウは、彼女の隣に腰を下ろし、問題集を覗き込んだ。
絶世の金髪美少女が顔を近づけてきたことで、紬は少しだけドキッとして肩をすくめるが、ヨウ本人は全く無自覚である。
「ああ、これか。標識のない交差点での左方優先と、道幅の広い方が優先ってやつが組み合わさった引っかけ問題だな」
ヨウの眼差しが、スッと『教師の目』に変わる。
「いいか、紬。こういう問題は、答えの丸暗記をしようとするからパニックになるんだ。答えを覚えるんじゃなくて、『なんでこういうルールになっているか』を考えるんだよ」
「なんで、ですか?」
「そうだ。例えば、お前が車を運転していて、急に細い路地から車が飛び出してきたらどう思う?」
「えっと……危ないし、急に止まれないから困ります」
「だろ? だから、広い道(本線)を走ってる車に優先権を持たせて、細い道から出る車に注意義務を負わせてるんだ。左方優先も同じで、運転席から見て見えにくい死角をカバーするためのルールだ。そうやって『事故を起こさないための理由』から逆算すれば、自然と答えは導き出せる」
ヨウが図を描きながら分かりやすく説明すると、紬の目からスッと迷いが消えた。
「あ……! 本当だ。そう考えると、全部繋がりますね!」
「おう。試験問題なんて所詮は人間が作ったもんだ。出題者の意図を読めば、引っかけにも引っかからなくなるぞ」
ヨウが満足げにポンと教本を叩くと、紬は尊敬の眼差しでヨウの横顔を見つめた。ヨウの教習での知識や教える上手さに、彼女は深く感心し、頼りがいを感じているのだ。
「……やっぱり、大暮さんって先生みたいですね」
「……ッ!!」
ヨウは、心臓が跳ね上がるのを感じて一瞬固まった。
(危ねぇ! つい、昔のクセで進路指導みたいな熱いトーンで喋っちまった! 中身が元担任のおっさんだってバレるわけにはいかねぇのに!)
滝のような冷や汗を流すヨウをよそに、紬は懐かしそうな、そして少し寂しそうな微笑みを浮かべた。
「高校の時の先生も、そうやって教えてくれました。答えじゃなくて、考え方を教えろって」
「そ、そうか! 良い先生だったんだな! でも、俺は先生じゃねぇよ。今はお前と同じ、仮免目指して必死な教習生だろ?」
ヨウが豪快に笑ってごまかすと、紬は少しだけ考えるように伏し目がちになった。
「……じゃあ」
「ん?」
「大暮さん」
「おう」
紬は、ギュッと両手を膝の上で握りしめ、上目遣いでヨウを見つめた。
「私も……『紬』って、呼んでください。結衣ちゃんや翔太さんみたいに……」
それは、大人しくて控えめな彼女が絞り出した、精一杯の勇気だった。
これまで、ずっと一歩引いた位置からヨウを見ていた彼女が、自分から距離を縮めようとした瞬間。
ヨウは、少し驚いたように目を丸くしたが、すぐにニカッと人の良い笑みを浮かべた。
「分かった。じゃあ、これからは遠慮なく紬って呼ぶわ。……その代わり、俺のこともヨウでいいぞ。大暮さんって、なんか堅苦しいしな」
「えっ……ヨウ……さん?」
「さん付けかよ! まぁ、慣れるまでそれでいいか」
ヨウがケラケラと笑うと、紬の頬もほんのりと桜色に染まった。
『大暮さん』から『ヨウさん』へ。
ほんの少しの変化だが、二人の間の見えない壁が、確実に一段低くなった瞬間だった。
***
正午過ぎ。午前の教習が終わる時間。
いつもなら結衣や翔太がヨウの周りに群がってくるのだが、今日は二人の姿がなかった。
「あれ? そういえば今日、結衣と翔太見ねぇな」
ヨウがキョロキョロと見回していると、紬が少しだけ弾んだ声で言った。
「結衣ちゃんは午後からの教習で、翔太さんは今日お休みだって言ってましたよ」
「なんだ、そうだったのか」
ヨウが伸びをしながらつぶやくと、紬は再びギュッと拳を握りしめ、小さく息を吸い込んだ。
「あの……ヨウさん。お昼、一緒に食べませんか?」
ヨウは何も考えず、即答した。
「おう、いいぞ! 腹減ってたんだ!」
二人で向かったのは、教習所から少し足を伸ばした場所にある有名店、『小樽なると屋 朝里本店』だった。
秋の涼しい風に吹かれながら、結構な距離を並んで歩く。道中、枯れ葉が舞う歩道を歩きながら、二人は他愛もない教習所の話で盛り上がっていた。
ようやく辿り着いた大きな看板。店内に入ると、香ばしい鶏の油と秘伝の塩コショウの匂いが一気に鼻腔をくすぐる。
席につき、メニューを広げたヨウの瞳が、ハンターのように輝いた。
「すいませーん! チキン南蛮定食! あと、タルタルソース追加で頼む!」
ヨウの四十九歳のおっさん全開のカロリー度外視のオーダーに、紬はクスッと笑って店員に向き直った。
「私は、若鶏半身定食をお願いします」
「……はい?」
ヨウの顔が、バッと紬の方へ向いた。
やがて運ばれてきた料理を見て、ヨウはさらに目玉を飛び出させた。
紬の目の前にドンッと置かれたのは、鶏の半身を丸ごと素揚げにした、なると屋名物の巨大な『若鶏半身揚げ』だった。こんがりと揚がった皮からは肉汁が滴り、お皿の半分以上を占領している。
「おいおい紬……お前、そんな細い身体のどこにそんなでかい肉が入るんだよ!?」
ヨウが心底驚いた顔でツッコミを入れると、紬は上品に割り箸を割りながら、ふふっと笑った。
「食べるんですよ。私、こう見えて意外と体動かすんです」
紬は、驚くほど手慣れた手つきで熱々の半身揚げに箸を入れ、サクッという音と共に皮と肉をほぐしていく。
「体動かすって……。大学のサークルか何かやってるのか?」
「はい。北海学園大学の演劇研究会です」
「演劇研究会……って、あー! チームNACSじゃねぇか!」
ヨウが声を裏返して叫んだ。
「はい、偉大な先輩たちです。実は去年、大泉洋さんが大学にテレビの撮影で遊びに来てくれたんですよ」
「すげー! マジかよ!」
ヨウの碧眼が、キラッキラに輝いた。
(おいおいマジか! 大泉洋が!? 昔から水曜どうでしょう観てたから、俺にとってはたまらねぇエピソードだぜ!)
ヨウのテンションが爆上がりし、自分のチキン南蛮にたっぷりとタルタルソースを絡めながら身を乗り出した。
「それでそれで!? 生の大泉さん、どうだった!?」
「すっごく気さくで、テレビのままの面白い方でした。私たちと一緒に発声練習してくれたりして。だから私、腹筋とか発声とかで、毎日すごくエネルギー使うんです。だから、お肉いっぱい食べないと持たなくて」
「なるほどなぁ! 演劇って体力勝負だもんな。いやぁ、すげぇわ。俺も生で見てみたかったぜ!」
大好きな俳優の話題で、二人の間の緊張は完全に解けていた。
紬は、嬉しそうに半身揚げを口に運びながら、少し照れくさそうに言葉を続けた。
「演劇の台本を読んだりするのも好きなんですけど、私、昔から本が好きで……実は大学では、司書の資格も取ろうと思ってるんです」
「へぇ! 演劇やりながら司書の勉強か、立派だな。じゃあ、いずれは図書館とかで働くのか?」
「はい。本に囲まれて、静かに過ごすのが好きなんです。……でも、最近は色んな本を読みすぎて、積読が減らなくて困ってます」
好きな本や演劇の話になると、普段は控えめな紬が、生き生きと饒舌に語り始めた。
ヨウは相槌を打ちながら、教え子が立派に自分の夢に向かって進んでいる姿に、元教師として密かに感動していた。
「ヨウさんって、昔からこういう人だったんですか?」
食後のお茶をすすりながら、紬がふと、不思議そうな顔でヨウを見つめた。
「こういう人?」
「はい。誰にでも親切で、困ってる人を放っておけないというか……。今日みたいに勉強を教えてくれたり、みんなの輪の中心にいたり」
ヨウは、少し照れくさそうに頭を掻いた。
「いやぁ……昔、教師やってたからな。そういう世話焼きな癖が残ってんのかもな」
「え?」
「……あっ」
(しまった!! つい口が滑った!)
ヨウは慌てて口を手で覆ったが、もう遅い。
紬は、目を丸くしてヨウを見つめていた。
「ヨウさん……先生だったんですか?」
「あ、いや! 違う違う! 塾のバイト! そう、高校の時に近所の子供に勉強教えるバイトしてたってだけだ! ハハハ!」
ヨウが必死でごまかすと、紬はクスッと笑った。
「ふふっ。やっぱり……ヨウさんは、先生みたいです」
「だから先生じゃねぇっての!」
ヨウがおっさん臭くツッコミを入れると、なると屋の賑やかな店内に二人の笑い声が響いた。
***
「そういえば……」
帰り道。秋の風が吹き抜ける歩道を歩きながら、紬がふと、少しだけ真面目なトーンで口を開いた。
「ヨウさんは……どうして免許を取ろうと思ったんですか?」
今まで、ヨウが紬を助けたり、アドバイスをしたりするばかりだった。
紬が『ヨウ自身のプライベートなこと』を質問してきたのは、これが初めてだった。
ヨウは少し考え、遠くの青空を見上げながら、正直に答えた。
「……家族を、乗せてやりたいんだよ」
「家族、ですか」
「おう。俺には、色々と苦労かけてる大事な姉(祭)がいてな。それに、ちょっと手のかかる妹(アイリーン)みたいな奴も一緒に住んでるんだ。今は俺、無職だし、車も持ってねぇし、金もねぇけどな……。いつか、あいつらを色んなところに連れて行ってやりたいんだ」
ヨウの碧眼に浮かぶのは、大切な家族を想う、温かく、そして力強い光だった。
紬は、その横顔をジッと見つめていた。
「……素敵ですね」
「そうか?」
「はい。家族のために頑張ってる人って、私は……好きです」
ポロリとこぼれ落ちた、その言葉。
紬自身、言った直後にハッとして、顔をボンッと真っ赤に染めた。
(……っ! 何言ってるんだろ、私!)
恋愛的な意味での告白のつもりではなかったが、言葉の響きがあまりにもストレートすぎた。
しかし、中身が四十九歳の鈍感なおっさんであるヨウは、全くそれに気づかない。
「そうか! じゃあ、まずは俺が早く免許取って、金貯めて中古のミニバンでも買って、家族を乗せてドライブだな! 紬も、演劇と司書の勉強頑張れよ!」
「……はいっ」
ヨウの爽やかすぎる勘違いに、紬はホッと胸を撫で下ろすのと同時に、ほんの少しだけ胸の奥がチクリと切なくなるのを感じた。
***
「あ……」
教習所の入り口が見えてきたあたりで、紬が急に立ち止まり、自分のトートバッグをガサガサと探り始めた。
「どうした?」
「さ、財布が……ありません。なると屋さんで支払った後、確かにバッグに入れたはずなのに……」
紬の顔が青ざめる。
「おいおい、マジか。慌てんな。落ち着いて、もう一回バッグの中を全部確認してみろ。なかったら、来た道を順番に戻るぞ」
ヨウは、頼もしい声で紬を落ち着かせた。
そして、一緒に歩道の端に寄り、バッグの中身を確認し始めた。
「教科書、筆箱、ハンカチ……やっぱりないです……」
「内ポケットは? よくそういう隙間に入り込んだりするぞ」
「内ポケット……あ」
紬の手が、バッグの奥にある小さなファスナー付きのポケットの中で止まった。
「……ありました」
「おいっ!!」
ヨウがズッコケるようにツッコミを入れる。
「あはは……ごめんなさい、私、ドジで……」
紬が申し訳なさそうに謝ると、ヨウは「なんだよ、脅かさせやがって!」と笑い飛ばした。
「ふふっ……あははははっ!」
つられて、紬も声を上げて笑い出した。
いつも控えめで、口元を隠すように笑う彼女が、お腹を抱えて無防備に笑っている。
「お前、そんな笑い方するんだな」
「え?」
「いや、いつも大人しいからよ。なんか新鮮だ」
ヨウが素直な感想をこぼすと、紬は少し恥ずかしそうに目を伏せ、それでも口角を上げて言った。
「……ヨウさんといると、なんだか安心するんです。だから、つい気が緩んじゃって」
その一言は、ヨウの四十九歳の心臓に、ドスッと重く、そして温かく響いた。
***
「あっ! ヨウちゃん!」
「大暮さん!」
二人が笑い合いながら教習所のロビーに戻ってくると、そこには不機嫌そうな顔をした結衣と翔太が待ち構えていた。
「なんで紬と二人でいるの?」
「……お昼、一緒に食べたんですか?」
二人からの刺すような視線。
明らかな『なんで抜け駆けしてるの?』というプレッシャーに、紬は慌てて両手を振った。
「ち、違います! 偶然時間が合ったから、お昼を一緒に食べただけで……! 別に、デートとかそういうんじゃなくて!」
必死に弁解する紬の横で、ヨウは首を傾げていた。
「なんだよ。普通になると屋で飯食ってきただけだぞ? お前らも腹減ってんなら、売店でパンでも買ってこいよ」
完全に無自覚なヨウの言葉に、結衣は腕を組んでジト目で「へぇ〜〜〜?」と声を上げ、翔太は「……そっか。次は俺も誘ってよ」と悔しそうに呟いた。
バチバチと散る火花の中で、紬だけが顔を真っ赤にして俯いていた。
***
夕暮れ時。
帰りの教習所の送迎バス。
ヨウは前の席で、窓の外を眺めながら「今日の技能、S字の入り口が難しかったなぁ。クラッチの繋ぎが……」と普通に独り言をこぼしている。
紬は、少し離れた後ろの席から、その黄金の髪の揺れる後ろ姿を静かに見つめていた。
(高校の時は、遠くから見ているだけだった。あの人は先生で、私はただの生徒の一人だったから)
紬の脳裏に、高校時代の『大暮先生』の記憶が重なる。
(でも今は……)
(同じ教習生で)
(今日、一緒にご飯を食べて)
(いっぱい話せた)
先生と生徒という絶対的な壁。
それが無くなり、同じ目線で、同じ時間を共有できている。
紬は、窓ガラスに映る自分の顔が、信じられないくらい自然に笑っていることに気がついた。
「……友達、なのかな」
誰に聞こえるでもない、小さな呟き。
それは、秋の夕暮れのバスの中に、ふわりと溶けて消えていった。




