シビックSiRⅡの思い出と、親父との酒
九月中旬。
小樽市内の自動車学校。冷房がしっかりと効いた広々としたロビーの片隅で、大暮ヨウは備え付けの丸テーブルに肘を突き、しかめっ面でスマートフォンの画面を睨みつけていた。
「……はぁ? おいおいおい、マジかよ」
周囲の教習生たちが思わず振り返るような美しい声で、ヨウは低く唸った。
金髪の長い髪がサラリと肩からこぼれ落ち、透き通るような白い肌と暴力的なまでのプロポーションは相変わらず周囲の目を釘付けにしているが、本人の頭の中は完全に『四十九歳の車好きのおっさん』に支配されていた。
画面に表示されているのは、大手中古車検索サイト。
検索窓には『HONDA シビック SiR II』と入力されている。
「370万……こっちは480万!? バカ言ってんじゃねぇぞ。タイプRの中古より高いじゃねぇか……!」
ヨウは、信じられないというように画面をスクロールさせたが、表示される価格はどれも新車の高級車並みの値段ばかりだった。
シビック SiR II。
それは、ヨウが中身の姿――しがない高校教師の大暮陽であった頃、まだ若くて車を趣味にしていた時代の愛車だった。
(あの頃はお金がなくて、どうにかこうにか貯金をはたいて中古で買ったんだよな……)
ヨウの脳裏に、かつての記憶が鮮やかに蘇る。
自然吸気でありながら、高回転域でカムが切り替わるホンダの伝家の宝刀『VTEC』エンジン。
タコメーターの針が跳ね上がり、「カァァァァン!」という甲高い咆哮と共に、どこまでも回っていくようなあの脳汁が出るような加速感。本当に、気持ちのいい車だった。
(エンジン本体には手を出せなくて、吸気系のエアクリーナーだけいじって、あとはひたすら足回りに金かけたっけな。初代のEF型が出たのが1989年。俺が乗ってたのは1995年発売のEK型だから、SiR IIとはいえ……もう31年前の車になるのか)
ヨウは、大きくため息をついた。
(手放す時に写真の一枚も残しておかなかったのが悔やまれるぜ……。にしても、昔から金がないのは変わらねぇな、俺の人生)
「――ヨウさん。随分古い車みてるね」
不意に、爽やかで甘い声が上から降ってきた。
顔を上げると、白いシャツを着こなした長身のイケメン、北口翔太が、ヨウのスマホの画面を覗き込むようにして立っていた。
「おっ、翔太か。シビックだよ。俺が好きなのは1995年のEK型なんだけどよ。あの頃のホンダは最高に尖っててな……って、ビックリするくらい高くて手が出ねぇけどな」
ヨウが苦笑いしながら画面を見せると、翔太は目を丸くした。
「シビックは俺も分かるけど、そんな昔からあるんだね。SiR……って、タイプRとは違うの?」
「タイプRになる前の、スポーツグレードの頂点だ。これでも十分速くてな。あのハッチバックのスタイルが、今見ても最高にかっこいいんだよ」
ヨウが碧眼を輝かせて熱く語ると、翔太は「マニアックだね」と少し引き気味に、しかし感心したように笑った。
「その年代だと、もう立派な旧車になるんじゃない? 維持するだけでも大変そうだし。……俺はさ、予定通り中古の『86』になりそうなんだ」
翔太は、少し誇らしげに胸を張った。
「200万から240万くらいで、かなり状態のいいのが見つかりそうでさ。親父も『そのくらいなら予算内だ』って言ってくれたから、ほぼ決まりかな」
「おっ! ついに86決まりそうか! いいなぁ!」
ヨウは、まるで自分のことのように喜んで、バンッとテーブルを叩いた。
そして、フッと真剣な、年長者としての――あるいは、かつての高校教師としての目を翔太に向けた。
「しかし、ポンと二百万以上も出してくれるなんて、本当にいい親父さんだな。感謝しろよ。ちゃんと大事にしろよ!」
「あ、あっ……そうだな。わかってるよ」
突然のヨウの真面目なトーンに、翔太は少し照れくさそうに頭を掻いた。
そんな翔太を見て、ヨウはふと、現世の自分自身の後悔を思い出しながら尋ねた。
「そうだ、翔太。お前、親父さんと一緒に酒、飲んでるか?」
「え? いや……親父とサシで酒なんて、なんか照れくさくてダメだわ。全然飲んでない」
翔太が苦笑いして首を横に振った瞬間。
ヨウは、四十九歳のおっさんとしての重みを込めて、少しだけ強い口調で言った。
「バカ。飲んでやれ」
「え……?」
「親父なんてな、いつまでもいると思うなよ。照れくさくても、ウザくても、親父と一緒に酒が飲める時間なんて、人生の中でほんの少ししかねぇんだ。……車買ってもらうんだろ? その時くらい、お前の方から酒注いでやれ。絶対喜ぶから」
ヨウの碧眼の奥にある、どこか遠くを見るような、切実な光。
ただの絶世の美少女の口から出たとは思えない、人生の機微に触れるようなその言葉の重みに、翔太はハッとして言葉を失った。
(ヨウさん……時々、すごく大人っていうか……めちゃくちゃカッコいい目をするんだよな)
翔太は、ドキンと高鳴る心臓を抑えながら、素直に頷いた。
「……分かった。今日、帰ったら親父を誘ってみるよ」
「おう、そうしろそうしろ!」
ヨウがいつもの明るい笑顔に戻ると、翔太は思い切ったように身を乗り出した。
「ねえ、ヨウさん。俺、その免許取って86が納車されたら……ドライブ、行かない?」
爽やかな笑顔に隠された、明らかな『男としての誘い』。
しかし、ヨウの四十九歳の鈍感な防壁は、それをあっさりと弾き返した。
「ドライブ? いいけど、お前が免許取ってすぐは、助手席乗るの怖ぇな〜! お前が86のクラッチと車幅感覚に慣れたあたりに、連絡よこせ」
「えっ……連絡、いいの!?」
「おう。あれ、そういえば教習所で毎回会うから、連絡先教えてなかったな」
ヨウがスマホの連絡先交換画面を開こうとした、その時だった。
「わ、私も!!」
「私もヨウちゃんと交換するーッ!!」
ロビーのソファの影から、二つの影が猛スピードで飛び出してきた。
ボブカットの大人しい女子大生・東山紬と、少しギャルっぽい巻き髪の西田結衣だ。
「うおっ!? お前ら、どこから湧いて出たんだよ」
「ずっと見てました! 私とも連絡先、交換してください!」
「ヨウちゃん、翔太だけズルイじゃん! はい、私のQRコードこれね!」
二人は、翔太を弾き飛ばすような勢いでヨウの両脇を固め、スマホの画面を突きつけてきた。
「おう、いいぞいいぞ」
ヨウはあっさりと二人の連絡先も登録した。
「そういえば、紬と結衣も免許取ったら車買うのか?」
ヨウが尋ねると、二人は顔を見合わせて首を振った。
「私は、とりあえず身分証代わりと、就職に有利だから取るだけです」
「私もー。車なんて高くて買えないし。ヨウちゃんは? 何買うの?」
「俺? 俺は買うつもりだけど、お金が貯まったらだな……。いつになることやら」
ヨウが遠い目をしてボヤくと、弾き飛ばされていた翔太が再び会話に混ざってきた。
「やっぱり、さっき言ってたシビック狙うの?」
「いや。俺は家族(祭とアイリーン)乗せるから、買うならSUVかな。MAZDAのCX-60が、友達(珠子)が乗っててすげぇ良い車だなと思ったんだけどよ……新車も中古も、俺には高すぎるんだよな! 今の俺の稼ぎじゃ、軽自動車の車検通すのもギリギリだぜ!」
生活苦の愚痴のスイッチが入り、ヨウが「だいたい、最近の車は安全装備がつきすぎて高ぇんだよ! 昔はエアコンもオプションだった時代があってな……」とボヤきが止まらなくなりかけた、その時。
キーンコーンカーンコーン……。
教習の開始を告げるチャイムが、ロビーに鳴り響いた。
「あっ、いっけね、授業の時間だ! おしゃべりしてたら遅刻する! いくぞ!」
ヨウは慌ててスマホをポケットに突っ込み、長い金髪をなびかせながら、学科の教室へと猛ダッシュで走り去っていった。
「あ、待ってヨウちゃん!」
「大暮さん……行っちゃった」
残されたのは、いつもの教習所仲間である三人。
紬と結衣は、ゆっくりと振り返り、冷ややかな視線を翔太に向けた。
「……翔太さん、ズルイです。抜け駆けしてドライブなんて」
「そうだそうだ! ヨウちゃんを騙くらかそうなんて百年早いのよ!」
二人の女子からの集中砲火。
しかし、翔太は全く怯むことなく、スマートフォンの画面――ヨウの連絡先が表示された画面を見て、余裕の笑みを浮かべた。
「ふふふ。悪いね二人とも。俺は車を持ってる(予定の)男だからね」
翔太は、勝ち誇ったように言った。
「これはもう、事実上のデートの約束だ。俺の勝ちかな」
「なっ……!?」
「言ったわね翔太! 私だって親に頼み込んで車買ってもらうもん!!」
ヨウの預かり知らぬところで、小樽の教習所のロビーには、今日も若者たちの青い火花がバチバチと散っていた。
そして、その原因を作っている四十九歳の絶世の美女は、教室で「最新の道交法、ややこしすぎだろ……」とおっさん臭く頭を抱えているのであった。
(続く)




