初めての路上教習と、小樽の坂道
九月上旬。
朝の小樽は、少しずつ秋の気配を帯び始めた涼しい風が吹いていた。
「よし、今日はいよいよ初めての路上教習だ! 気合入れてくぞ!」
安アパートの玄関で、大暮ヨウはスニーカーの紐をギュッと結びながら、意気揚々と声を上げた。
見送りに来た祭とアイリーンが、心配そうに顔を見合わせる。
「陽、初めての路上でしょ? 本当に大丈夫?」
祭が不安げに尋ねる。
「ゴシュジンサマ、鉄の魔獣を外の道で走らせるのデスネ。人や馬車を轢かないよう、お気をつけください」
アイリーンも、異世界ファンタジーの価値観のまま注意を促してくる。
「ハハハ、心配すんなって! 車の運転なんて、身体が覚えてるから余裕だ余裕!」
ヨウがニカッと笑ってドンと胸を叩く。
中身は現世で二十年以上運転してきた四十九歳のおっさんである。小樽の坂道なんて目をつぶっても(嘘だが)走れる。
ただし、担当教官の佐伯から『初心者らしく運転しろ』と厳命されていることだけは、妻と居候には内緒だった。
「くれぐれも、目立たないようにね。陽はただでさえ見た目が目立つんだから、事故でも起こしたら大変だよ」
祭が、元教え子であり妻としての立場で、チクリと釘を刺す。
「分かってるって。安全運転第一で行ってくるから!」
ヨウはヒラヒラと手を振り、教習所の送迎バスへと向かっていった。
***
自動車学校のロビー。
ヨウが到着すると、いつもの教習所仲間である三人――東山紬、西田結衣、そして翔太が、すでに集まって待っていた。
「あ、大暮さん! おはようございます」
ボブカットの紬が、控えめにペコリと頭を下げる。
「おはよー、ヨウちゃん! 今日からついに路上なんでしょ? 緊張しないの?」
少し派手めなメイクの結衣が、当然のようにヨウの腕に絡みついてくる。
「おう、おはよ! 緊張? 全然しねぇよ。むしろ、ずっと場内をトロトロ走らされてたから、早く外に出たくてウズウズしてたんだ。楽しみだぜ!」
ヨウが碧眼を輝かせて笑うと、三人はそれぞれ違った反応を示した。
「すごい……。私なんて、まだ場内のS字で脱輪してるのに……」
紬が、尊敬の眼差しでヨウを見上げる。
「ふふっ、ヨウちゃんって度胸あるよねー。そういうとこ、かっこいい!」
結衣が、さらに腕に胸を押し付けてくる。
「いいなぁ大暮さん! 俺も早く路上に出たいぜ。俺も絶対、一発で仮免受かって追いつくからな!」
翔太は、男としての対抗心を燃やして拳を握りしめている。
四十九歳のおっさんは、生徒たちから慕われる人気教師のような気分で「おう、お前らも頑張れよ!」と爽やかに言い残し、教習車の待機場所へと向かった。
***
教習車の運転席に乗り込むと、助手席にはお馴染みのベテラン教官、佐伯が座っていた。
「大暮さん。今日からいよいよ路上教習ですね。まずは基本の確認です」
佐伯はクリップボードを持ち、眼鏡の奥から鋭い視線を送ってくる。
「制限速度を必ず守ること。車間距離を十分にとること。左側通行の原則。歩行者や自転車への注意。そして、無理な追い越しは絶対に禁止です。いいですね?」
「はい、完璧に理解してます!」
ヨウは元気よく返事をし、ルームミラーとドアミラーを調整、シートベルトを締めてエンジンをかけた。
(よっしゃ! 久々の小樽市街地ドライブだぜ!)
「では、安全を確認して発進してください」
「はいっ」
ヨウは、ウィンカーを出し、目視で右後方を確認すると、絶妙な半クラッチで教習車を滑らかに発進させた。
教習所のゲートを抜け、いよいよ小樽の公道へと躍り出る。
小樽市街地。
ここは港町特有の海沿いの平坦な道路と、山側へ向かう急峻な坂道が入り組んだ、非常に起伏に富んだ地形だ。
さらに、レンタカーに乗った観光客や、大型の路線バスが狭い道を頻繁に行き交うため、路上教習の難易度としてはかなり高い部類に入る。
(おおー、潮の匂いがするぜ。やっぱ小樽の街は走ってて気持ちいいな!)
ヨウは、中身のおっさんとしての長年の運転感覚と、レベル99の勇者の完璧な空間把握能力を無意識にフル稼働させ、最適な走行ラインをスイスイと選んで走っていた。
最初の違和感は、海沿いから山側へ向かう、有名な『地獄坂』へと差し掛かった時だった。
急勾配の途中で赤信号に引っかかり、教習車は坂の途中で停止した。
「……大暮さん、坂道発進になりますよ。後ろに車がいますから、下がらないように気をつけて」
佐伯が、少しだけ緊張した声で注意を促す。マニュアル車にとって、急勾配での坂道発進は最大の難関の一つだ。
「はい、了解です」
信号が青に変わる。
ヨウは、サイドブレーキを引くこともなく、右足のブレーキからアクセルへ踏み替えるコンマ数秒の間に、左足のクラッチをミリ単位で『バイトポイント(半クラッチの頂点)』にピタリと合わせた。
ブゥン、という軽快なエンジン音と共に、車体は一ミリも後退することなく、そして一ミリのノッキングも起こさずに、恐ろしく滑らかに坂道を登り始めた。
「…………」
助手席の佐伯が、絶句して固まっている。
「……大暮さん」
「はい? なんかマズかったですか?」
「今の坂道発進……。サイドブレーキも使わず、あの急勾配を一ミリも下がらずに、しかもエンストの気配すらなく発進するのは、初心者がする動きじゃないですよ。熟練のタクシードライバーの足さばきです」
佐伯の目が、完全に疑いの光を放っていた。
「あ、いや! これは、グランツーリスモで……ペダル付きのコントローラーで毎日練習した成果です!」
「それ、もう禁止にしましょうか」
「……はい」
ヨウは冷や汗を流しながら、ペコッと頭を下げた。
さらに、疑いを決定づける事態が起こる。
教習車は、小樽特有の古い住宅街の、対向車とすれ違うのもギリギリの狭い生活道路へと入っていた。
その時、前方から一台のワンボックスカーが走ってきた。
(おっ、対向車だな。ここは道幅が狭いから、手前の電柱のところで一旦譲るのがベストだな)
ヨウの頭脳(二十年以上の運転経験)と、勇者の目(超絶視力と空間把握)が、一瞬で道路幅と自車の車幅を計算した。
ヨウは全く迷うことなく、滑らかなブレーキングで減速し、教習車を道路の左端、電柱と縁石の隙間数センチというギリギリのラインにピタリと寄せて停車させた。
対向車のワンボックスカーは、ヨウの教習車の横をスムーズにすり抜けていった。
「…………」
佐伯が、再び深い深いため息をついた。
「大暮さん。普通の初心者は、対向車が来たらパニックになって急ブレーキを踏むか、変に右に膨らんで立ち往生するものです。あんな、迷いなく左の死角ギリギリに寄せて待避するなんて芸当、絶対にできません」
「えっ? そうなんですか? でも、対向車が来たら左に寄せて止まるのが普通じゃないですか?」
「その『普通』の基準が、初心者のそれから大きく逸脱していると言っているんです」
さらに、決定的な出来事が続く。
観光地である堺町通り付近を低速で走行中。
建物の陰から、スマートフォンを見ながら歩いていた観光客が、突然道路に飛び出してきたのだ。
「危ないッ!!」
佐伯が叫び、助手席の補助ブレーキを力一杯踏み込もうとした。
しかし。
佐伯の足が補助ブレーキに届くよりも早く、教習車は「スッ……ピタッ」という、魔法のように滑らかで、かつ完璧な制動力で、観光客の数十センチ手前で完全に停止していた。
「ひゃっ!?」
飛び出した観光客が驚いて尻餅をつき、慌てて歩道へと戻っていく。
教習車の車内は、水を打ったように静まり返っていた。
「…………大暮さん」
佐伯の声が、微かに震えていた。
「は、はい」
「……今の飛び出し、見えてました?」
「いや……なんとなく、建物の影から人が出てきそうな嫌な予感がしたんで、ブレーキに足を乗せて構えてただけです」
本当は、勇者クレアの超絶動体視力が観光客の動きをコンマ一秒で捉え、おっさんとしての長年の『かもしれない運転(危険予測)』の経験が反応しただけである。
「……なんとなく、ですか。大暮さんの危機察知能力と反射神経は、F1レーサーも顔負けですね」
佐伯は、もう疑うのを通り越して、ある種の畏敬の念すら抱き始めているようだった。
***
「……もう少し、初心者らしくしてください。お願いします」
教習の後半、ついに佐伯から哀願するように言われてしまった。
(うーん、初心者らしく、か。よし、わざと少しだけ発進を遅らせてみるか)
信号待ちからの発進。
ヨウは、青信号になってもわざと二秒ほど待ってから、恐る恐るクラッチを繋いでみた。
「大暮さん。今度は慎重すぎます。後続車にクラクションを鳴らされますよ」
「ええっ!? さっきは早すぎるって言ったじゃないですか! どうしろっていうんですか!」
「極端なんですよ、あなたは」
教習が終わり、学校へと戻る道すがら、佐伯が本日の評価を下した。
「操作技術は非常に安定しています。周囲の安全確認も、危険予測も優秀です。……ただ、初心者としては『異常に』完成度が高すぎます」
「ちゃんと初心者やってるつもりなんですけどね……」
「大暮さんにとって、それが一番難しいんでしょうね。……まぁ、事故を起こされるよりは何百倍もマシですが」
佐伯は、疲れたように眼鏡を外して目頭を揉んだ。
***
ロビーに戻ると、いつもの三人(紬、結衣、翔太)が待ち構えていた。
「あ、大暮さん! お帰りなさい!」
「ヨウちゃん、どうだった路上!? 怖くなかった!?」
「大暮さん、やっぱ外の道は全然違う?」
三人が一斉に駆け寄り、矢継ぎ早に質問を浴びせてくる。
ヨウは、缶コーヒー(微糖)を開けながら、楽しそうに笑った。
「おう! 小樽の街を走るの、景色もいいしスゲェ面白かったぞ! まぁ、教官には『初心者らしくない』って怒られたけどな!」
その言葉に、三人がそれぞれ違う反応を示す。
「路上って、やっぱ怖い? 俺、来週からなんだけど、坂道とか不安でさ」
翔太が少し不安そうに尋ねてきた。
すると、四十九歳のおっさんであるヨウの『元教師モード』が、無意識に発動してしまった。
「怖がることはないぞ、翔太。基本は場内と同じだ。ただ、外は『動く障害物』が多いからな。車間距離は自分が思ってるより広めにとる。ミラーの確認は数秒に一回チラ見する癖をつける。歩行者は『絶対にこっちを見てない』『急に飛び出してくる』って前提で動くんだ」
ヨウは、身振り手振りを交えながら、実践的で具体的なアドバイスを熱く語り始めた。
「それから、小樽は坂が多いだろ? 下り坂はフットブレーキだけじゃなくて、エンジンブレーキをしっかり使うんだ。三速か二速に落として、スピードを殺しながら下る。これ、テストには出ないけど実戦じゃ一番大事だからな!」
「な、なるほど……! エンジンブレーキ……!」
紬は、持っていた学科の教本を開き、ヨウの言葉を真剣な顔でメモし始めた。
「へぇー、ヨウちゃんってすっごい教えるの上手だね! なんか本物の先生みたい!」
結衣も、いつになく真面目な顔で感心している。
「大暮さん、すげぇ……。マジで参考になるわ。ありがとう!」
翔太の目には、完全な尊敬の光が宿っていた。
ヨウ本人は、生徒たちに授業を教えている時の感覚そのままで、「おう、わからないことがあったら何でも聞けよ!」と満足げに胸を張っていた。
三人の関係が、さらに一歩進む。
「ねえねえ、じゃあ私、これからの学科の勉強とか、ヨウちゃんに直接教えてもらおうかなー!」
結衣が、ちゃっかりとヨウの腕に絡みつく。
「あ……! ずるい! 私、私も……大暮さんに教えてもらいたいです!」
紬も、勇気を振り絞ってヨウの服の袖をチョコンと引っ張る。
「おいおい、俺だって男目線の車の話とか、大暮さんともっとしたいぜ! 俺も混ぜてよ!」
翔太が、二人の女子の間に割って入ろうとする。
バチバチバチッ……!
またしても、ヨウを巡る三人の間で、見えない火花が激しく散り始めた。
しかし、当のヨウは。
「おう! みんなで集まって勉強会すればいいだろ! 俺が教官役やってやるからな!」
三人は、ヨウの底抜けに明るく、そして全く空気を読んでいない言葉に、「…………」と一斉に沈黙し、深い深いため息をついた。
またしても、ヨウだけがこの妙な空気の意味を理解していなかった。
***
夕暮れ時。
教習所からの帰り道、送迎バスの中でヨウは一人、ぼんやりと窓の外を眺めていた。
(自動車学校に来る前は、とにかく早く免許を取って、祭の負担を減らすこと……それだけが目的だったのにな)
ところが今ではどうだ。
図書委員だった元教え子の紬。
秀才でギャルになった卒業生の結衣。
車好きで真っ直ぐなイケメン男子の翔太。
そして、妙に鋭くて疑り深い、ベテラン教官の佐伯。
本来なら関わることのなかったはずの、年齢も立場も違う人々。
彼らと毎日顔を合わせ、言葉を交わし、思いがけず新しい人間関係が広がっている。
「……まぁ、悪くねぇな」
ヨウは、缶コーヒーの残りを飲み干し、小さく笑った。
ただの四十九歳のおっさんのままだったら、絶対に経験できなかったであろう、教習所での青春(?)の日々。
(免許取るまで、意外と楽しい時間になるかもな)
夕日に照らされる小樽の海を見つめながら、ヨウは明日からの教習に、少しだけ胸を躍らせていた。




