教習所の仲間たちと、隠しきれない元教師
九月上旬。
朝の小樽は、少しだけ秋の気配を含んだ涼しい風が吹き始めている。
「よし、今日も一発合格目指して頑張るか!」
安アパートのリビングで、大暮ヨウは鮭の塩焼きと白飯をモリモリとかき込みながら、気合を入れていた。
今日もまた、自動車学校での教習が控えている。
「ふふっ。陽ちゃん、なんだか自動車学校楽しそうだね。若いお友達もできたみたいだし」
向かいに座る祭が、お茶をすすりながら微笑ましく笑った。
「おう! 紬と結衣と、あと翔太っていう教習所の仲間ができたんだ。みんな若いのにいい奴らでさ、休憩時間とかよく一緒にいるんだよ」
ヨウが何気なく昨日の出来事を報告すると、祭はお茶を置く手をピタリと止めた。
「……三人?」
「ハイ。ゴシュジンサマは、教習所で随分と人気者なのデスネ」
祭の目がスゥッと細められ、隣で朝食を食べていたアイリーンもオッドアイを怪しく光らせてニヤリと笑う。
「いや、単なる教習所の仲間だぞ? 車(マニュアル)の話とかで盛り上がってるだけだ」
ヨウがキョトンとして答えると、祭とアイリーンは無言で顔を見合わせた。
「……本人はそう言うよね」
「ハイ。無自覚というのも、罪深いものデス」
妻と居候の、何かを悟ったような呆れ顔。
ヨウは「なんだよ朝から……」と首を傾げるしかなかった。
***
送迎バスに揺られ、自動車学校に到着したヨウは、まずは学科教習の教室へと向かった。
本日の内容は、交通ルールの基礎。交差点での優先関係や、標識の意味などだ。
「えー、それでは昨日の復習です。信号機のない、道幅が同じ交差点において、直進する車と左折する車、そして右折する車。この場合の優先関係はどうなりますか?」
教壇に立つ教官が、教室の生徒たちに向かって問いかけた。
四十九歳の元高校教師であるヨウにとって、一度覚えた交通ルール(しかも二十年以上実践してきたもの)を思い出すことなど造作もない。
現在の最新の道路交通法に少しアジャストするだけで、学科の内容はスイスイと頭に入ってくる。
「……はい、そこの金髪の方。大暮さん」
「はい。直進と左折が優先です。右折車は、直進車や左折車の進行を妨げてはならないので、最後になります」
「その通り。では、そこに路面電車が絡んだ場合は?」
「路面電車が優先です」
ヨウが淀みなく即答すると、周囲の生徒たちから「おぉ……」
「すげえ……」というどよめきが漏れた。
「大暮さん、ずいぶん予習して勉強してますね。素晴らしいです」
教官が感心して褒める。
「いやぁ、まぁ、昔、教える側だったんで」
ヨウが照れ隠しで、ついいつもの『元教師の口癖』をポロリとこぼした。
その瞬間、教室がシンと静まり返った。
教官も「……教える側? 二十歳で?」と怪訝な顔をする。
「あッ! い、いや、冗談です! アハハ!」
ヨウは冷や汗をかきながら、慌てて誤魔化した。
(危ねぇ……! またおっさん時代の癖が出ちまった!)
***
学科教習が終わり、昼休みの時間。
ヨウはロビーの隅のベンチに座り、自販機で買った缶コーヒー(微糖)を飲んでいた。
「あ、あの……大暮さん」
控えめな声に顔を上げると、ボブカットの大人しそうな女子学生――東山紬が立っていた。
「ここ……いいですか?」
「おう、座れ座れ」
ヨウが普通に隣をポンと叩くと、紬は耳まで真っ赤にして「失礼します」とちょこんと隣に座った。
「大暮さん、さっきの学科、すごかったですね。私、全然覚えられなくて……」
「そうか? まぁ、最初はややこしいよな。わからないところがあれば、いつでも聞いてくれよ」
ヨウが元教師の目線で優しく言うと、紬は嬉しそうに頷いた。
「ありがとうございます! ……あ、そういえば、私、高校の時の先生を思い出しちゃいました。すごく頼りがいがあって、面白くて、大暮さんと同じ苗字で、優しい先生だったんです」
「へぇ。どこの高校だ?」
「小樽南高校です」
ブフォッ!
ヨウは、飲んでいた缶コーヒーを危うく吹き出しそうになった。
小樽南高校。それは、大暮陽が倒れる直前まで教師として勤めていた、まさに『自分の勤務先』である。
「お、小樽南……? いつ卒業したんだ?」
「一年前の春です。今は北海学園大学で、免許を取ってるんです」
(マジかよ……! 一年前の卒業生ってことは、俺が三年生の学年主任やってた時の生徒じゃねぇか! ていうか、東山紬……思い出した! 三組でいつも図書委員やってた、あの大人しい東山か!)
まさかの教え子との再会に、ヨウが内心で滝汗を流していると。
「あー! ヨウちゃんいたー!」
明るく甲高い声と共に、巻き髪で少し派手めな女子大生――結衣が、当然のようにヨウのもう片方の隣にドスッと座ってきた。
「ヨウちゃんはやめろ。大暮でいい」
「えー? いいじゃんヨウちゃん! ねえねえ、次なに乗るの? 私、午後から学科なんだけどさー」
グイグイと距離を詰めてくる結衣。
ヨウは、結衣の顔を改めてマジマジと見つめた。
明るいブラウンのカラーコンタクトに、バッチリメイク。巻き髪で少しギャルっぽいが、その顔立ち……。
(……結衣? 西田結衣か!? あの、俺が担任してた一組の学級委員で、いっつも分厚い参考書持ち歩いてた、あの超真面目な西田!?)
ヨウの脳内で、点と点が猛スピードで結びついた。
西田結衣。小樽南高校でトップクラスの秀才で、今年の春、現役で小樽商業大学に進学した優秀な生徒だ。
化粧と髪型でここまでイメージが変わるものかと、ヨウは四十九歳のおっさんとしてカルチャーショックを受けていた。
「……西田?」
ヨウが、思わず本名を口走った。
「え?」
結衣が目を丸くする。
「あれ、私……ヨウちゃんに苗字言ったかしら?」
「あ、い、いや! なんか西田って顔してるなって思って! カンだよ、カン!」
ヨウが必死でごまかすと、結衣は「なにそれー!」と笑ってヨウの腕にペチッと触れた。
その様子を見ていた紬の間に、ピリッとした空気が流れる。
「……あの。私、大暮さんとお話ししてたんですけど」
「えー? いいじゃん、みんなで話そうよ。ねー、ヨウちゃん」
紬と結衣の間に、見えない火花がパチパチと散り始めた。
ヨウは冷や汗を拭いながら、(この二人、同じ高校なのに、一年違いなのに、お互い気づいてねぇのか? いや、接点なかったか……)と、一人で元教師としての謎の気苦労を背負い込んでいた。
***
そこへ、さらに厄介な人物が登場する。
「大暮さん! 探したよ!」
爽やかなイケメン男子、翔太だ。
「おう、翔太。どうした?」
「俺、免許取ったら親父が車買ってくれるって言うから! 『トヨタの86』を親父と見に行くんだ。だから、絶対にマニュアル免許取らなきゃいけないんだよね。次の技能、一緒ですよ!」
翔太が、ヨウの歓心を買おうと必死にアピールしてくる。
ヨウの碧眼が、キラッと輝いた。
「おっ、86か! 新車か? それとも中古のZN6か? どっちにしても、最初の車にマニュアルのFR(後輪駆動)を選ぶなんて、いい趣味してるな! 絶対楽しいぞ!」
「あ、うん……中古のやつ。大暮さんにそう言ってもらえると嬉しいな」
「絶対ぶつけるから中古がいい!」
ヨウが熱く車トークに食いつき、翔太が嬉しそうに鼻の下を伸ばしていると。
「……ちょっと、なんで翔太まで当然みたいに混ざってくるのよ」
結衣が不満そうに腕を組む。
「大暮さん、私ともお話……」
紬も、翔太に会話を取られてシュンとしている。
男と女が入り乱れ、ヨウを中心とした教習所ロビーは、なんともカオスでドロドロとした空気に包まれようとしていた。
しかし、ヨウは全く気づかない。
「まぁまぁ、お前らみんなマニュアル仲間なんだから、仲良くしろよ! わからないことがあったら、俺がなんでも教えてやるからな!」
前回の「青春だな!」に続く、四十九歳のおっさんの完全な勘違い。
ヨウの無自覚な包囲網は、日々その密度を増していくばかりであった。
***
午後。
第二段階へ向けた、場内での技能教習。
教習車の助手席には、お馴染みのベテラン教官、佐伯が乗っていた。
「それでは大暮さん、今日は少し難しい操作に入ります。坂道発進、S字カーブ、クランク、そして方向変換(車庫入れ)ですね」
「はい、よろしくお願いします」
ヨウは運転席に座り、シートベルトを締めた。
コースに出たヨウは、坂道発進をサイドブレーキと半クラッチの完璧な連携で一ミリも下がる事なくクリア。
S字カーブは、内輪差をミリ単位で計算したかのように、縁石に擦る気配すらなく滑らかに通過。
狭いクランクも、クッションのように柔らかいブレーキングで全く危なげなくクリアしていく。
「……大暮さん」
佐伯が、深い深いため息をついた。
「はい?」
「本当に、車の運転は初めてなんですよね?」
「はい。グランツーリスモ7(PS5のリアルドライビングシミュレーター)で、毎日死ぬほどイメトレしてきました」
「……またそれですか」
「すみません」
ヨウは、申し訳なさそうにペコッと頭を下げた。
(いかん、また上手くやりすぎた! 次は車庫入れだ。ここは少しだけ、初心者らしく失敗するフリをしよう!)
ヨウは、方向変換のスペースに車をバックさせる際、わざとハンドルを切るタイミングを遅らせてみた。
(よし、これで左のポールにギリギリまで寄るはずだ。で、「あわわ、ぶつかる!」って言って切り返せば完璧な初心者だ!)
しかし。
車体が左のポールにスレスレまで寄った瞬間、ヨウの身体に染み付いた『ぶつけたくない』というドライバーの防衛本能と、レベル99の勇者の超絶反射神経が勝手に作動してしまった。
スッ……ギュルギュルッ、ピタッ。
ヨウの手足が無意識に動き、コンマ一秒の超絶カウンターとアクセルワークで車体の姿勢を完璧に立て直し、スペースのど真ん中に、左右の隙間がミリ単位で均等になるように一発で駐車を完了させてしまった。
「…………」
車内に、重い沈黙が流れる。
「……今の、わざとギリギリまで寄せてから、プロのスタントマンみたいなカウンター当てて修正しましたよね?」
佐伯が、眼鏡の奥からジト目で睨みつける。
「まさか! たまたまです! 偶然、真ん中に入っちゃったみたいで! アハハハ!」
佐伯は、クリップボードをパタンと閉じた。
「大暮さん。あなた、初心者のふりをするのが、この世で一番下手ですよ」
「……うぐっ」
ヨウは、完全に撃沈してハンドルに突っ伏した。
***
「――ということで、大暮さんは場内の課題はすべて完璧に(完璧すぎて)クリアです。次回から、いよいよ路上教習に入ります」
教習の最後、佐伯から仮免許の交付と、路上教習への移行が告げられた。
「路上ですか!」
ヨウの碧眼が、キラッと輝く。
小樽市街地。坂道が多く、道幅は狭く、観光客のレンタカーや路線バスが入り乱れる、なかなかに難易度の高い道路環境だ。
(……こっちのほうが、場内をトロトロ走るより面白そうだな)
元ベテランドライバーの血が騒ぎ、ヨウは内心でワクワクしていた。
しかし、佐伯からすかさず釘を刺される。
「大暮さん。あなたの場合、運転技術よりも『普通の初心者らしく走ること』のほうが難しそうです。くれぐれも、プロのレーサーやタクシー運転手のような無駄のない動きをしないように。制限速度を守って、ぎこちなく走ってください」
「そんなことないですよ! 俺、超初心者ですから!」
ヨウが元気に反論するが、佐伯はただやれやれと首を横に振るだけだった。
***
教習が終わり、ロビーに出ると、紬、結衣、翔太の三人が待っていた。
「あ、大暮さん。次の教習、いつですか?」
紬が遠慮がちに聞く。
「ヨウちゃん、次いつ来るの? 私、時間合わせるからさ!」
結衣がグイグイと迫る。
「大暮さん、俺も次の予約取るから、一緒に教習受けようよ!」
翔太も負けじと食い下がる。
四十九歳のおっさんは、生徒の進路指導をするような感覚で、三人の予定表を見比べた。
「えーと、俺は明後日の午後から路上教習なんだけど……おっ、お前らも午後空いてるじゃん! よし、俺がまとめて配車予約の窓口に言ってきてやるよ!」
「じゃあ、次もみんな一緒だな!」
ヨウがニカッと満面の笑みで言うと、三人はそれぞれ全く違う反応を示した。
「……はい」
紬は、嬉しそうでありながらも、結衣と翔太がいることに少しだけ複雑そうな顔。
「もちろん! 絶対行く!」
結衣は、紬と翔太を牽制するようにヨウの腕に抱きつく。
「……はい! よろしくお願いします!」
翔太は、男としてのプライドを燃やし、結衣からヨウを引き剥がそうと熱い視線を送る。
そんな三人のバチバチの空気に全く気づかず、ヨウは「よしよし」と一人で満足そうに頷いた。
「よし。教習仲間も増えてきたな! みんなで励まし合って、早く免許取るぞ!」
その底抜けに明るい言葉に、三人とも「教習仲間」という言葉に対して、なんとも言えない微妙な顔をして沈黙した。




