完璧すぎる半クラッチと、無自覚な包囲網
「――はい、じゃあそこで一時停止して。左右の安全確認をしてから左折しましょう」
小樽市内の自動車学校、その広々とした教習コース。
夏の太陽がアスファルトをジリジリと照りつける中、一台の教習車(マニュアル車)が、まるでベテランタクシードライバーが運転しているかのような、恐ろしく滑らかな動きでコース内を走行していた。
運転席に座っているのは、今日が初めての技能教習となるはずの金髪美少女、大暮ヨウである。
「はい、左右ヨシ。巻き込みヨシ」
ヨウは、教官である佐伯の指示に短く応え、ブレーキペダルから足を離すと同時に、絶妙なタイミングでクラッチペダルを繋いだ。
ブゥン、とエンジンが静かに唸り、車体は一ミリのノッキング(ガタつき)も起こすことなく、スルスルと滑らかに発進する。
そして、左折のカーブに合わせてハンドルを切り、立ち上がりと同時にスッとセカンドギア、サードギアへと、息をするように自然にシフトアップしていった。
あまりにも完璧な『半クラッチ』と、無駄のないシフトチェンジ。
助手席でバインダーを持っていたベテラン教官の佐伯は、口を半開きにしたまま、横顔の美しい教習生を凝視していた。
「……大暮さん」
「はい。次はどうします?」
「今の交差点、目視のタイミングといい、ポンピングブレーキの踏み加減といい……。それに、シフトアップの時に無意識にエンジンの回転数を合わせる(レブマッチング)ような足の動きをしていましたよね?」
「えっ」
ヨウは、ピクリと肩を揺らした。
「い、いやぁ〜、気のせいじゃないですか? なんか、足が勝手に動いちゃって。アハハ……」
「……初めてマニュアル車に乗る人間が、足が勝手に動いてレブマッチングなんて高度な技術を使いませんよ。エンストしてパニックになるのが普通です」
佐伯の眼鏡の奥の目が、完全に疑いの光を放っていた。
(ヤバいヤバいヤバいッ!)
ヨウは、運転席で冷や汗を滝のように流していた。
中身が四十九歳で、現世では二十年以上マニュアル車を乗り回してきたベテランドライバーであるヨウにとって、車の運転など自転車に乗るのと同じくらい身体に染み付いたものだ。
入校式で「この身体では初めてです」と言ってしまった手前、初心者らしく振る舞わなければならないのだが、レベル99の勇者クレアの肉体は、ヨウの脳内のイメージを誤差ゼロで完璧にトレースして物理運動に変換してしまうため、どう足掻いても『超絶上手い運転』になってしまうのだ。
(これじゃあ、無免許運転の常習犯だと思われちまう! ここは初心者らしく、わざと下手くそなフリをしねぇと!)
ヨウは決意し、わざとらしく両手でハンドルをガチガチに握りしめた。
「あ、あわわわ! き、急に怖くなってきました! 次、止まります!」
ヨウは、交差点の赤信号の手前で、わざとクラッチペダルから足を滑らせたフリをした。
ガクンッ!と車体が揺れ、プスン、とエンジンが止まる。
エンストだ。
「ああっ! エ、エンストしちゃいましたぁ! どうしよう、どうしよう!」
ヨウは、絶世の美少女の顔を両手で覆い、棒読み全開でパニックになったフリをした。
しかし。
エンストした瞬間、ヨウの左足は無意識のうちにコンマ一秒でクラッチを踏み抜き、右手は流れるような動作でイグニッションキーを回してエンジンを再始動させ、そのまま半クラッチで何事もなかったかのように一・五秒で再発進を遂げていた。
「…………」
助手席の佐伯は、深い沈黙の後、眼鏡をクイッと押し上げた。
「大暮さん。初心者はエンストすると、パニックになってブレーキを踏み忘れ、そのままフットペダルを見下ろして固まるものです。……エンストから一・五秒で、プロのレーサーのようなリカバリーを見せる初心者は、この世に存在しません」
「うぐっ……!」
「それに、わざとエンストさせようとした時でさえ、車体が傷まないように無意識に衝撃を逃すクラッチ操作をしていましたね。……本当に、どこでその技術を身につけたんですか?」
「えーと、その……YouTubeで、イメトレを、めちゃくちゃしました!」
「イメトレでそこまでできたら、今頃あなたはF1レーサーです」
ベテラン教官の鋭い追及に、ヨウはついに観念して「……すいません、実は昔、親父の軽トラを私有地でちょっとだけ……」と、適当な嘘をでっち上げてその場をやり過ごすしかなかった。
***
「はぁぁぁ……。疲れた……」
五十分間の技能教習が終わり、教習原簿にハンコをもらったヨウは、ロビーの自動販売機の前で深い深いため息を吐いた。
運転自体は全く疲れないのだが、『下手くそなフリをして、それが逆に不自然になって怪しまれる』という精神的な攻防戦に、四十九歳のおっさんの精神はすっかり削られてしまっていた。
ガコン、と出てきた缶コーヒー(微糖)のプルタブを開け、グビッと煽る。
おっさん丸出しの飲み方だが、金髪碧眼の絶世の美少女がやると、まるで海外の飲料メーカーのCMのようにスタイリッシュに見えてしまうから不思議だ。
「あ、あの……! 大暮さん」
不意に背後から声をかけられ、ヨウが振り返ると、そこには昨日の適性検査の時に受付の場所を教えてあげた小柄なボブカットの女子学生――東山紬が立っていた。
「おっ、昨日の。どうした? また迷子か?」
ヨウが気さくに笑いかけると、紬は顔を真っ赤にしてパタパタと両手を振った。
「ち、違います! 昨日は親切に教えていただいて、ありがとうございました。私、東山紬って言います。あの、大暮さんも今、技能教習だったんですか?」
「おう、そうだよ。マニュアル車なんだけど、教官に怪しまれて大変だったぜ……」
ヨウが頭を掻きながら笑うと、紬は「マニュアルなんですか!? すごい……!」と尊敬の眼差しを向けてきた。
(おっ、なんか懐いてくれてるな。可愛い教え子みたいで和むぜ)と、ヨウが元教師の目線で微笑ましく思っていると。
「ちょっとちょっとー! 大暮ヨウちゃん、だよね!?」
突然、明るくて少し甲高い声が割り込んできた。
振り返ると、巻き髪に明るいブラウンのカラーコンタクトを入れた、少し派手めな雰囲気の女子大生――結衣が、ヨウの腕にスッと腕を絡ませてきた。
「えっ? あ、ああ、そうだけど……」
「私、結衣! 昨日からずーっと気になってたんだー! ねえねえ、ヨウちゃんってハーフ? 肌めっちゃ綺麗だけど、どこのファンデ使ってるの? ていうか、まつ毛長すぎ! マツエク?」
初対面にも関わらず、距離感ゼロでグイグイと迫ってくる結衣に、中身がおっさんのヨウは完全に面食らってしまった。
「ふぁ、ファンデ? いや、俺……私は、そういうのよくわかんないっていうか、妻に……じゃなくて、友達にやってもらってるから……」
ヨウがしどろもどろになっていると、ヨウの隣にいた紬が、ビクッと肩を震わせて結衣を睨んだ。
「あ、あの……私、大暮さんとお話ししてたんですけど……」
「えー? いいじゃん、教習所のロビーなんだし、みんなで仲良くしようよー!」
結衣は全く意に介さず、ヨウの腕をさらに強く抱きしめてくる。豊かな胸の感触が腕に伝わり、ヨウは(うおっ、なんかエロい!)と内心で焦りまくっていた。
(なんだこの状況……女子高生と女子大生に挟まれて、俺、どうしたらいいんだ?)
ヨウが助けを求めるように周囲を見回した、その時だった。
「ごめんね、二人とも。大暮さん、困ってるみたいだよ」
爽やかで、どこか甘さを含んだ男性の声が響いた。
声の主は、二十代前半と思われる、長身で爽やかなイケメン男子――北口 翔太だった。
さらりとした黒髪に、白いシャツがよく似合う。まるで少女漫画から抜け出してきたような好青年だ。
翔太がスッと間に入り、結衣からヨウを引き剥がすように庇う位置に立った。
結衣が「むっ」と顔をしかめ、紬が「あ……」と声を漏らす。
翔太は、ヨウに向かって爽やかな、そして明らかに『男としての熱を帯びた』笑顔を向けた。
「初めまして、大暮さん。俺は翔太。昨日、君が受付に並んでる時からずっと見てたんだ。君もマニュアル車なんだよね? 俺もなんだ」
翔太は、甘い声でヨウとの距離を詰めようとした。
「マニュアルって難しいよね。クラッチの感覚とか、なかなか掴めなくてさ。もしよかったら、この後ロビーで一緒に教本見ながら、教え合いっこしない?」
完璧な笑顔と、スマートなナンパの常套句。
普通の二十歳の女の子なら、顔を赤くして頷いてしまうようなシチュエーションだ。
しかし。
相手は、中身が『車と酒と妻を愛する四十九歳の元高校教師』である大暮陽だった。
「おおっ! お前もマニュアルか!」
ヨウの碧眼が、全く別の意味でキラッと輝いた。
「いやぁ、最近の若いもんはオートマ限定ばっかりだからな! マニュアル仲間がいるのは嬉しいぜ!」
「……え?」
翔太の爽やかな笑顔が、一瞬だけピシッと固まった。
ヨウは、翔太の肩をバァン!と気の良いおっさんのような勢いで叩いた。
「クラッチが掴めない? ああ、あれな! 足首だけで踏もうとするからダメなんだよ。踵を床につけて、足の裏全体で押し込む。で、戻す時は踵を支点にして、ジワ〜ッと『床を掃くような』イメージで戻すんだよ!」
「ゆ、床を掃く……?」
「そうそう! エンジンの音が『ブゥン』から『ウゥゥッ』って低くなる瞬間があるだろ? あそこが半クラの頂点だ。あの音を耳とケツの振動で感じ取るんだよ! わかるか、翔太!」
ヨウは、完全に『行きつけの居酒屋で、若手の後輩に車のウンチクを語る気のいいおじさん』のモードに入っていた。
絶世の金髪美少女の顔で、身振り手振りを交えながら熱くクラッチの仕組みを語るヨウに、ナンパ目的だった翔太は完全に圧倒され、顔を引き攣らせていた。
「あ、あはは……詳しいんだね、大暮さん……」
「ヨウでいいぞ! お前、筋は良さそうだから、教習車のショボいトルクに慣れればすぐ上達するって! 頑張れよな!」
ヨウは、翔太の背中をバシバシと叩いて豪快に笑った。
翔太は、絶世の美少女に『男友達』のようなスキンシップを受け、混乱と恥ずかしさで顔を真っ赤にして「う、うん。ありがとう……」と後ずさることしかできなかった。
***
「ぷはぁー、やっぱ車トークは燃えるな!」
満足げに缶コーヒーを飲み干したヨウが、ふと我に返って周囲を見ると。
ヨウを中心にして、とんでもない空気が出来上がっていた。
「……翔太くん、ヨウちゃんに気安く触らないでくれる? 私たちが先に話してたんだけど」
派手めな女子大生の結衣が、腕を組んで翔太をジロリと睨みつけている。
「あの……私だって、大暮さんとお話、したかったのに……」
大人しいはずの紬までもが、結衣と翔太の両方に対して、少し潤んだ目で非難がましい視線を送っている。
そして翔太は、ヨウの車トークに圧倒されながらも、結衣と紬からの冷ややかな視線を受け、負けじとヨウの隣をキープしようと立ちはだかっていた。
バチバチバチッ……!
若者三人の間に、明らかに『ヨウの隣のポジション』を巡る、不可視の火花が散っていた。
男も女も関係ない。絶世の美貌と、誰に対してもフレンドリーすぎる(おっさん特有の)隙だらけの態度が、彼らの独占欲と闘争本能を無自覚に煽り立ててしまっていたのだ。
「……ん?」
その中心にいるヨウは、缶コーヒーの空き缶を振りながら、不思議そうに首を傾げた。
(……なんでこいつら、急に黙り込んで、俺の周りで睨み合ってんだ?)
自分が原因で、同性からも異性からも強烈な矢印を向けられ、『無自覚ハーレム(逆ハーレム含む)』の修羅場が形成されつつあることに、ヨウは一ミリも気づいていなかった。
(まぁいいか。若者特有のあれだろ、縄張り争い的なやつ。青春だな!)
四十九歳の魂は、完全に的を外した的外れな納得をして、のんきに頷いた。
「よし! じゃあ俺、次の学科があるから行くわ! お前らも教習頑張れよな!」
ヨウがヒラヒラと手を振って歩き出すと、背後から「あ、待ってヨウちゃん!」
「大暮さん、私も同じ学科です!」
「ヨ、ヨウ、俺も行くよ!」と、三人が慌てて金魚のフンのように追いかけてくる。
「なんだお前ら、仲いいな!」
ヨウは嬉しそうに笑いながら、教習所の長い廊下を歩いていく。
小樽の自動車学校の夏は、まだ始まったばかり。
世界を救った最強の勇者の肉体は、交通ルールと若者の恋愛感情の渦の中で、まだまだ波乱の教習ライフを送ることになりそうだった。




